【讃岐秘話】 1580年代の直島: 高原家と阿波水軍・森村吉、仙石秀久、そして豊臣秀吉の四国征伐
はじめに
現在、瀬戸内海に浮かぶ直島は、世界的な現代アートの島として知られています。
しかし、直島の歴史を戦国時代までさかのぼると、そこには現代とはまったく異なる「海の歴史」が見えてきます。
戦国時代の瀬戸内海は、単なる海上交通路ではありませんでした。
兵を運び、物資を運び、情報を伝え、時には軍船が戦う、重要な軍事空間でした。
その瀬戸内海東部で、1580年代から直島・男木島・女木島を支配していたのが高原家です。
一方、阿波を基盤とした水軍勢力の森家から出た森村吉は、豊臣秀吉の家臣 仙石秀久に仕え、讃岐方面で長宗我部元親と戦いました。
ここで非常に興味深いのが、両者の活動範囲です。
高原家の拠点である、
直島・男木島・女木島
と、
仙石秀久・森村吉が活動した、
小豆島・讃岐東部・讃岐沿岸
は、瀬戸内海東部という一つの海域の中で近接しています。

さらに、その背後には、
豊臣秀吉
と
長宗我部元親
による四国をめぐる巨大な軍事的対立がありました。
天正10年(1582)から天正13年(1585)にかけて、瀬戸内海東部は大きく変貌します。
秀吉の勢力が四国へ進出し、仙石秀久が小豆島を拠点として讃岐へ進み、森村吉もその軍事行動に従いました。
一方、高原家も秀吉との関係を深め、直島・男木島・女木島を基盤とする海上勢力として豊臣政権の軍事秩序の中に組み込まれていきます。
では、高原家と森村吉の間には、どのような関係があったのでしょうか。
現時点で、両者が直接会ったことを示す史料については調査中です。
しかし、同じ時代、同じ瀬戸内海東部という近接した海域で活動し、しかもともに豊臣秀吉の勢力圏に入っていったことは注目すべき事実です。
この記事では、『直島町史』『池田町史』『内海町史』、香川県史年表などを手掛かりに、1580年代から江戸時代初期までの歴史をたどりながら、高原家・仙石秀久・森村吉を「瀬戸内海」という一つの舞台の上で捉えてみます。

・【讃岐秘話】 豊臣秀吉の家臣 仙石秀久と運命を共にした森村吉の人生 ー 栄光、失脚、そして小諸 7,000石への復活
・【讃岐秘話】 阿波水軍・森村春の生涯――豊臣秀長を土佐泊城に迎え、木津城・岩倉城を攻略、文禄の役で戦死

1.舞台は戦国時代の瀬戸内海
16世紀後半、瀬戸内海は単なる交通路ではありませんでした。
戦国大名にとって瀬戸内海は、
兵員輸送
食糧輸送
武器輸送
情報伝達
海上警備
水軍活動
のための重要な軍事空間でした。
直島は備讃瀬戸の中央部に位置し、古くから海上交通と深く関わっていました。
『直島町史』には、戦国時代の直島について「高原氏の登場」「直島と水軍」「高原次利」などが取り上げられ、近世初頭には高原氏が直島を中心とする三島を支配していたことが分かります。
さらに『直島町史』は、1580年代以降の高原氏について、
「秀吉の四国征伐」
「九州の役と高原氏」
「文禄・慶長の役と高原次勝」
と、豊臣政権の軍事活動との関係を独立した項目で扱っています。
つまり、直島の高原家を理解するためには、単に「直島の歴史」を見るだけでは不十分です。
瀬戸内海の水軍史と、豊臣秀吉による天下統一の過程を一緒に見る必要があります。


2.高原家――直島・男木島・女木島を支配した海上勢力
高原家について特に重要なのが、高原次利です。
『直島町史』では、第四章「直島の近世」の第一節が「高原氏の三カ島支配」とされ、その中に、
高松城水攻めと高原氏
高原氏六代
秀吉の四国征伐
九州の役と高原氏
文禄・慶長の役と高原次勝
松平頼重と高原氏
が収録されています。
高原氏に関する郷土史・城郭資料では、天正10年(1582)、高原次利が羽柴秀吉に拝謁し、児島郡内の加増を約束されたものの実現せず、代わりに直島・男木島・女木島の三島600石を安堵されたと説明されています。
つまり高原家は、秀吉の中国攻めを契機として、秀吉の軍事・海上ネットワークに接近したと考えられます。
直島町も現在、高原家について、豊臣政権下で直島水軍として活動した後、関ヶ原の戦いで徳川の旗本となり、六代にわたって約90年間直島を統治したと説明しています。
ここから見えてくる高原家の姿は、単なる「島の領主」ではありません。
直島を拠点とする海上勢力であり、瀬戸内海の航路と船を活用し、豊臣政権の軍事・輸送活動にも関わった水軍領主
だったと見ることができます。

3.1582年――豊臣秀吉と高原家が接近する
天正10年(1582)は、瀬戸内海の勢力図を考えるうえで重要な年です。
この年、羽柴秀吉は毛利氏との戦いの中で備中高松城を攻撃しました。
この備中高松城攻めに際して、高原次利が秀吉側の海上活動に関わったことが、高原家のその後を考える重要なポイントとなります。
高原次利は、秀吉軍の海上警備や水先案内などに関わったと伝えられ、その功績を背景として三島600石の領有が認められたとされています。
つまり、
高原次利
↓
羽柴秀吉
↓
直島・男木島・女木島
という関係が形成されていったことになります。
この時点で高原家は、秀吉の天下統一に向かう政治・軍事秩序の中に入っていったと考えることができます。
4.一方、阿波では森村吉が仙石秀久の家臣となる
同じ1582年、阿波水軍森家の森村吉にも大きな転機が訪れます。
森村吉は森元村の次男で、森村春の弟とされる人物です。
『日本人名大辞典』では、森村吉について、
阿波水軍の森村春の弟
仙石秀久の家臣
天正10年(1582)に秀久に従って讃岐を攻めた
天正11年(1583)に屋島を攻めた
後に秀久が小諸城主となった際、7,000石を与えられた
とされています。
つまり森村吉は、
阿波水軍森家
↓
仙石秀久
↓
豊臣秀吉
という軍事的な関係の中に入った人物でした。
これは高原家とは異なるルートです。
高原家は、直島を基盤として秀吉との関係を深めました。
森村吉は、阿波水軍の出身者として仙石秀久に仕えました。
ところが、その後両者が活動する舞台は、次第に近づいていきます。
・阿波水軍森家の歴史書

・森家の家系図
森村吉 (森村春の弟)
↓
長男 森村重 (森甚五兵衛、後に260年間徳島藩海上方を務める家系)
次男 森権平久村 (1583年、引田の戦いで討死)
三男 森村明 (仙石秀久の娘と結婚)



5.仙石秀久――小豆島を拠点として讃岐へ
ここで重要になるのが小豆島です。
『池田町史』には、近世の第一節として、
「長曽我部元親の侵攻と仙石秀久の来島」
が独立して設けられています。
さらに続いて、
「豊臣時代の小豆島」
として、
小西隆佐・行長父子の支配
加子浦としての活動
片桐且元の支配
が取り上げられています。
香川県史年表でも、天正10年(1582)9月、仙石秀久が秀吉の命を受け、兵3,000を率いて小豆島から讃岐へ渡海し、屋島方面を攻撃したことが『改撰仙石家譜』を典拠として記録されています。
また天正13年(1585)には、仙石秀久が小豆島などから水主を動員する記録もあります。
したがって小豆島は、この時期の仙石秀久にとって、
讃岐へ軍勢・物資・船舶を送り込むための重要な海上拠点
だったと考えることができます。
ここで、高原家の直島と仙石秀久の小豆島が一気に近づきます。
・小豆島 池田町史
・小豆島 内海町史

・仙石秀久

6.仙石秀久と長宗我部元親――讃岐をめぐる戦い
この時期、讃岐をめぐって激しく対立していたのが、
豊臣秀吉方
と
長宗我部元親方
です。
長宗我部元親は土佐を統一した後、阿波・讃岐・伊予へ勢力を拡大していました。
一方、秀吉は中国地方を平定しつつ、四国への軍事介入を強めていました。
その最前線に立った武将の一人が仙石秀久です。
天正11年(1583)の引田の戦いでは、仙石秀久が讃岐東部へ進出し、長宗我部方と衝突しました。
仙石軍は戦闘後に撤退し、小豆島・淡路島方面の守備を固めたとされます。
森村吉も、この仙石軍に従ったと伝えられています。
ここで重要なのは、森村吉の活動範囲が阿波だけではなく、
小豆島
↓
讃岐東部
↓
讃岐沿岸
へ広がっていたことです。
そして、この海域は高原家の活動範囲と重なっていきます。
・讃岐の引田城跡

・森村吉の三男森村明は仙石秀久の娘と結婚

・引田の戦いに敗れた仙石秀久、森村吉は引田城を脱出し、小豆島、淡路島に逃げた。

・仙石秀久の家臣


・戸次川の戦い


・小田原征伐

7.1585年――豊臣秀吉の四国征伐
そして天正13年(1585)、決定的な転換点が訪れます。
豊臣秀吉の四国征伐です。
秀吉は大軍を四国へ送り込み、長宗我部元親に圧力をかけました。
香川県史年表によれば、天正13年7月25日、秀吉の命によって四国征討軍と長宗我部軍の和議が成立し、長宗我部元親は三男・親忠を人質として差し出し、土佐へ退却しました。
この結果、長宗我部元親は土佐一国を安堵される一方、阿波・讃岐・伊予などを失うことになります。
四国の勢力図が大きく変わった瞬間です。
そして四国征伐の論功行賞で、
仙石秀久に讃岐が与えられました。
香川県史年表には、
「天正13年7月、仙石秀久、秀吉から讃岐を与えられる。ただし2万石は十河存保の支配」
と記録されています。
したがって、
「仙石秀久は讃岐一国を拝領した」
という表現は大筋で正しいといえます。
ただし、厳密には讃岐一国を与えられたものの、2万石は十河存保の支配とされたという留保を付けると、より正確です。
8.仙石秀久の居城――聖通寺城
仙石秀久が讃岐を支配する際の重要な拠点となったのが、
聖通寺城(聖通寺山城)
です。
・現在の宇多津町にある聖通寺城跡

宇多津町の資料でも、天正13年(1585)、秀吉の四国征伐の戦功によって讃岐一国を与えられた仙石秀久が、聖通寺城に入り讃岐を統治したと説明されています。
さらに高松市の文化財調査報告では、
天正13年、讃岐を拝領した仙石秀久は聖通寺城に入り、森石見守村吉を家老として置いた
と記されています。
これは森村吉と仙石秀久の関係を考えるうえで非常に重要な記述です。
つまり、森村吉は単なる一時的な従軍者ではなく、仙石秀久の讃岐支配の段階で重要な家臣として位置づけられていたことになります。
※ 高松市の文化財調査報告書『勝賀城跡Ⅲ』によれば、天正13年(1585)、讃岐を拝領した仙石秀久は聖通寺城に入り、森石見守村吉を家老として、1万石を与えたとされる。
9.では、仙石秀久と高原家はどのような関係だったのか
ここが今回のテーマの核心です。
結論から言えば、
仙石秀久と高原家が直接の主従関係にあったことを示す史料は、現時点では確認できません。
しかし、両者が全く無関係だったと考えるのも適切ではありません。
なぜなら、活動圏が非常に近かったからです。
高原家
直島
↓
男木島・女木島
↓
備讃瀬戸の海上交通
↓
豊臣政権の海上活動
仙石秀久・森村吉
淡路
↓
小豆島
↓
讃岐東部
↓
讃岐一国
↓
聖通寺城
という活動圏が、瀬戸内海東部で接近していました。
さらに『直島町史』自体が、高原氏について、
「秀吉の四国征伐」
「九州の役」
「文禄・慶長の役」
と、仙石秀久が活動した豊臣政権の軍事展開と重なる時代を扱っています。
したがって、
秀吉
├─ 高原家
└─ 仙石秀久
└─ 森村吉
という「同じ家臣団」という意味ではありません。
むしろ、
豊臣秀吉による四国・瀬戸内海の再編によって、異なる経路から秀吉の勢力圏に入った海上勢力が、同じ政治・軍事空間に置かれていった
と考えるのが適切です。
10.森村吉と高原家――活動海域が重なる
ここで森村吉と高原家を直接比較してみます。
高原家
直島
↓
男木島・女木島
↓
備讃瀬戸
↓
豊臣政権下の海上活動
森村吉
阿波水軍森家
↓
仙石秀久に仕官
↓
淡路・小豆島
↓
讃岐東部
↓
聖通寺城・讃岐
この二つの活動圏を地図上に置けば、
小豆島 ⇄ 直島 ⇄ 男木島・女木島 ⇄ 讃岐沿岸
という海域で接近していることが分かります。
ここで大切なのは、戦国時代の海を現代の感覚で考えないことです。
現代では島と島の間には海があります。
しかし当時の水軍勢力にとって、海は「隔たり」ではありませんでした。
むしろ、
海そのものが道路でした。
小豆島から讃岐へ船で渡る。
直島から男木島・女木島へ移動する。
備讃瀬戸を航行する。
海上交通を利用して兵員や物資を運ぶ。
水軍にとっては、それが日常的な活動空間でした。
だからこそ、
小豆島―直島―男木島・女木島―讃岐沿岸
という位置関係は、森村吉と高原家の関係を考えるうえで重要なのです。

11.「森村吉と高原家は互いに知っていた」と言えるのか
ここは慎重に区別する必要があります。
現時点で、
森村吉と高原次利が会った
森村吉と高原次勝が会った
森家と高原家が共同作戦を行った
両家が同じ船団を組んだ
両家が正式な同盟を結んだ
という具体的な史料は確認できません。
したがって、
「森村吉と高原家は直接面識があった」
と歴史的事実として断定することはできません。
しかし一方で、
高原家は直島・男木島・女木島を支配していた
仙石秀久は小豆島を軍事拠点として讃岐へ進出した
森村吉は仙石秀久の家臣として讃岐で活動した
1585年以降、秀吉による四国・瀬戸内海の再編が進んだ
という条件が重なっています。
そのため、
森村吉と高原家は、1580年代の瀬戸内海東部において活動海域が近接しており、海上交通・軍事活動を通じて、少なくとも互いの勢力の存在を認識していた可能性は十分に考えられる。
という表現なら、史料と推論を区別した記述として成立します。
つまり、
「直接会った証拠はない」
ことと、
「互いを知る可能性がなかった」
ことは同じではありません。
むしろ、同じ瀬戸内海東部の狭い海域で活動する海上勢力だったことを考えれば、互いの存在を認識していた可能性を考えることには一定の合理性があります。
・小豆島、男木島、女木島、直島の位置関係

12.1586年――仙石秀久の失脚
しかし、仙石秀久の讃岐支配は長く続きませんでした。
天正14年(1586)、秀吉の九州征伐に際して仙石秀久は軍監として豊後へ出陣します。
ところが12月の戸次川の戦いで豊臣軍は島津軍に大敗しました。
仙石秀久は讃岐へ逃れ、秀吉の怒りを買います。
その結果、仙石秀久は失脚し、讃岐の支配者は交代することになります。
わずか1年ほど前には讃岐一国を与えられた仙石秀久でしたが、その立場は急速に崩れていきました。
・戸次川の戦いで仙石秀久は豊臣秀吉の命令を無視して戦い大敗した。また豊臣方の有力武将を討ち死にさせてしまった。更に讃岐に逃亡した。


13.1587年――仙石秀久から生駒親正へ
仙石秀久に代わって讃岐国主となったのが、
生駒親正
です。
香川県の高松城略年表では、
1585年 仙石秀久、讃岐一国を与えられる
1586年 尾藤知宣、讃岐一国を与えられる
1587年 生駒親正、讃岐一国を与えられる
1588年 高松城築城開始
と整理されています。
したがって、
仙石秀久 → 尾藤知宣 → 生駒親正
という短期間の讃岐支配者の交代が起きました。
仙石秀久が讃岐一国を与えられたのは事実ですが、その支配期間は非常に短かったのです。
14.高原家は四国征伐後どうなったのか
ここが非常に重要です。
高原家は、仙石秀久のように失脚して消えたわけではありません。
むしろ、秀吉政権下でも活動を続けました。
『直島町史』には、四国征伐の後、
「九州の役と高原氏」
が設けられ、さらに、
「文禄・慶長の役と高原次勝」
が設けられています。
つまり高原家は、
四国征伐
↓
九州の役
↓
文禄・慶長の役
という豊臣政権の軍事活動の中で活動を続けていったことになります。
これは森村吉の経歴とも興味深い対照をなします。
森村吉は仙石秀久に従い、
讃岐
↓
九州方面
↓
信濃小諸
へと活動範囲を広げます。
一方、高原家は、
直島
↓
豊臣政権の九州出兵
↓
文禄・慶長の役
という形で活動を続けました。
つまり、両者は異なる主従関係を持ちながら、豊臣政権の軍事ネットワークの中で同じ時代を生きたことになります。
・直島町史
文禄慶長の役






15.関ヶ原――高原家は徳川方へ
さらに歴史は大きく転換します。
1600年、関ヶ原の戦いです。
高原家は徳川家康方、すなわち東軍側についたと伝えられています。
直島町も、高原家について、関ヶ原の戦いで徳川の旗本となり、六代にわたって約90年間直島を統治したと説明しています。
これは非常に興味深い歴史です。
高原家は、
豊臣秀吉
↓
豊臣政権下の海上勢力
↓
関ヶ原で徳川方
↓
徳川幕府の旗本
という形で生き残ったのです。
つまり、高原家は豊臣政権の崩壊とともに消滅したのではありません。
むしろ、豊臣から徳川へと政治体制が変わる中で、新しい支配体制に適応して生き残った海上勢力だったと見ることができます。
16.直島は「何藩」だったのか
ここは誤解されやすいところです。
江戸時代の直島は、基本的に「○○藩」に属していた島ではありません。
高原氏による支配が終わった後、寛文11年(1671)に高原氏が改易されると、直島は幕府領(天領)となり、主として倉敷代官所の管轄に入りました。
学術論文でも、近世初頭には旗本高原氏の所領だった直島が、寛文11年(1671)に所領没収となり、その後幕府領として主に倉敷代官所の管轄となったことが確認されています。
直島町も現在、
「江戸時代、天領の地であった直島」
と説明しています。
したがって、
「江戸時代の直島=高松藩」
とするのは正確ではありません。
ただし、幕末の海防などでは高松藩が警備を担当するなど、周辺藩との関係は存在しました。
『直島町史』にも「直島警備を高松藩へ」とする項目があります。
ここからも、直島の歴史は一つの藩の歴史だけではなく、瀬戸内海全体の政治・軍事・海防の歴史として見る必要があることが分かります。
17.高原家の直島支配は1671年に終わる
高原家はその後も代々直島を支配しましたが、六代目の代に大きな転機が訪れます。
寛文11年(1671)
高原氏が改易されます。
これによって約90年に及んだ高原家による直島支配が終わり、直島は幕府領となりました。
高原家の歴史は、大きく整理すると、
1582年頃
高原次利が秀吉との関係を深める
↓
直島・男木島・女木島を支配
↓
豊臣政権下で水軍として活動
↓
九州の役
↓
文禄・慶長の役
↓
1600年
関ヶ原で徳川方
↓
徳川幕府の旗本
↓
1671年
高原家改易
↓
直島が幕府領・天領となる
という流れになります。
18.森村吉と高原家を結ぶ「海」
ここまで見ると、今回のテーマの核心が見えてきます。
森村吉と高原家を直接結ぶ文書は、現在のところ確認できません。
しかし、二つの家の活動範囲を地図に置くと、非常に近いことが分かります。
高原家
直島
↓
男木島
↓
女木島
↓
備讃瀬戸
仙石秀久・森村吉
淡路
↓
小豆島
↓
讃岐東部
↓
聖通寺城
そして、
小豆島 ⇄ 直島 ⇄ 男木島・女木島 ⇄ 讃岐
という海域が両者を近づけます。
この時代、海は「境界」ではありませんでした。
むしろ、
海こそが交通路であり、軍事路であり、情報網でした。
水軍勢力にとって重要だったのは、陸上の距離だけではありません。
どの島を押さえているか
どの港を使えるか
どの航路を知っているか
どの水軍と協力できるか
どの大名の命令で船を動かしているか
こうしたことが重要でした。
そのため、
小豆島―直島―男木島・女木島―讃岐沿岸
という地理的な連続性は、森村吉と高原家の関係を考えるうえで非常に重要なのです。
19.森村吉と高原家は「同じ豊臣方」だったのか
この点も、年代によって分けて考える必要があります。
1582年
高原次利は秀吉との関係を深め、直島・男木島・女木島を安堵されたとされます。
一方、森村吉は仙石秀久の家臣となったとされます。
1583年
仙石秀久・森村吉は讃岐方面で長宗我部方と戦いました。
一方、高原家は直島を基盤としていました。
1585年
秀吉の四国征伐によって長宗我部元親が降伏します。
仙石秀久が讃岐を与えられ、聖通寺城に入ります。
この段階になると、豊臣政権による四国・瀬戸内海の再編が明確になります。
したがって、
「1583年から森村吉と高原家は同じ豊臣軍だった」
と単純化するより、
両者は異なる経路から秀吉の勢力圏に入り、1585年の四国征伐を経て、豊臣政権による四国・瀬戸内海の新しい軍事秩序の中で活動するようになった。
と表現する方が正確です。
高原家と森村吉は、同じ家臣団に属していたわけではありません。
しかし、同じ豊臣政権の拡大過程の中で、それぞれ別のルートから秀吉方の勢力圏に組み込まれた海上勢力だったのです。
20.森村吉と高原家――二つの活動圏が交差する
ここで、もう一度両者の活動を整理してみます。
高原家
直島
↓
男木島・女木島
↓
備讃瀬戸
↓
豊臣政権との関係
↓
九州・朝鮮出兵
森村吉
阿波水軍森家
↓
仙石秀久に仕える
↓
小豆島
↓
讃岐東部
↓
聖通寺城
↓
九州
↓
小諸
この二つのルートを重ねると、
阿波
↓
淡路・小豆島
↓
直島
↓
男木島・女木島
↓
讃岐
という瀬戸内海東部の大きなネットワークが浮かび上がります。
これは単なる偶然の地理的な一致ではありません。
当時の瀬戸内海では、島・港・航路・水軍が一体となって機能していました。
そのため、直島を支配する高原家と、小豆島を拠点として讃岐へ進出した仙石秀久、そしてその家臣として活動した森村吉を、別々の地域史として見るだけでは、その歴史的なつながりを十分に理解できません。
「海」を中心に見ることで、三者の関係が浮かび上がってきます。
おわりに――高原家と森村吉をつないだ瀬戸内海
直島の高原家と、阿波水軍森家の森村吉。
両者の間に、直接会ったことを証明する史料は、現時点では確認できません。
したがって、
「森村吉と高原家は直接面識があった」
と歴史的事実として断定することはできません。
しかし、だからといって両者を完全に無関係な存在と考える必要もありません。
高原家は、
直島・男木島・女木島
を支配しました。
仙石秀久は、
小豆島を拠点として讃岐へ進出しました。
森村吉は、
仙石秀久の家臣として讃岐方面で活動しました。
そして1585年、豊臣秀吉の四国征伐によって長宗我部元親の勢力が後退すると、四国と瀬戸内海の政治・軍事秩序は大きく変化します。
その中で、
高原家は秀吉の勢力圏に入り、森村吉は仙石秀久を通じて秀吉の軍事ネットワークの中で活動した。
つまり、両者は同じ主君に直接仕えた「同僚」ではありません。
しかし、
同じ時代に、同じ瀬戸内海東部を舞台として活動し、豊臣秀吉による四国・瀬戸内海の再編という大きな歴史の波の中にいた
という共通点があります。
そして何より重要なのが、
小豆島 ⇄ 直島 ⇄ 男木島・女木島 ⇄ 讃岐
という海上空間です。
戦国時代の海は、人と人を隔てるものではありませんでした。
水軍にとって海は道路であり、軍事路であり、情報網でした。
だからこそ、
森村吉と高原家は、直接会ったことを示す史料は確認できないものの、1580年代の瀬戸内海東部という狭い海域で活動し、同じ豊臣政権の軍事的拡大の中に置かれていた以上、少なくとも互いの存在を認識していた可能性は十分に考えられる。逆に知らない方がおかしい。
という歴史的仮説には、一定の意味があります。
それは単なる「森家と高原家が知り合いだったか」という問題ではありません。
阿波水軍森家、仙石秀久、小豆島の水軍、直島の高原家、男木島・女木島、そして讃岐。
これらを一つの「瀬戸内海ネットワーク」として見ることで、1580年代の四国が、豊臣秀吉と長宗我部元親の対立によってどのように再編されていったのかが見えてきます。
そして、この歴史をさらに掘り下げるなら、次に注目すべきなのは、森村吉が仙石秀久の家老として讃岐にいた時期に、高原家がどこで、どのような役割を果たしていたのかという点です。
そこに具体的な接点を示す史料が見つかれば、現在は「可能性」として語っている森村吉と高原家の関係を、さらに一段深く歴史的に検証できることになります。
年表で見る「森村吉・仙石秀久・高原家」
年
出来事
高原家
仙石秀久・森村吉
1582(天正10)
備中高松城水攻め
高原次利が秀吉との関係を深め、三島600石を安堵されたとされる
森村吉が仙石秀久の家臣となったとされる
1582
仙石秀久の讃岐方面出兵
直島・男木島・女木島を基盤
小豆島から讃岐方面へ渡海
1583(天正11)
引田の戦い
直島を基盤
仙石秀久・森村吉が長宗我部方と戦う
1585(天正13)
豊臣秀吉の四国征伐
豊臣政権の秩序へ
仙石秀久が讃岐一国を拝領、聖通寺城へ
1586(天正14)
戸次川の戦い
高原氏は豊臣政権下で活動
仙石秀久が失脚
1587(天正15)
讃岐支配交代
高原家は存続
生駒親正が讃岐国主となる
1592~1598
文禄・慶長の役
高原家も豊臣政権の軍事活動に関わる
森村吉は仙石秀久との関係を維持
1600(慶長5)
関ヶ原
高原家は徳川方
豊臣政権の終焉
江戸初期
徳川政権
高原家は旗本として直島を支配
森村吉は後に小諸で7,000石
1671(寛文11)
高原家改易
直島支配終了
―
1671以降
幕府領化
直島は天領・倉敷代官所支配
―
最も重要なポイント
この歴史を一言で表現するなら、
「直島の高原家と阿波水軍森家は、直接の主従関係が確認できるわけではない。しかし、仙石秀久と森村吉が小豆島・讃岐方面で活動し、高原家が直島・男木島・女木島を支配していたため、1580年代の瀬戸内海東部という同じ海上空間で活動圏が接近していた。」
ということになります。
そして、その背後にあったのが、
豊臣秀吉
vs.
長宗我部元親
という四国をめぐる巨大な軍事対立でした。
この視点から見ると、直島・小豆島・讃岐・阿波は、それぞれ孤立した地域ではありません。
豊臣秀吉による四国・瀬戸内海支配の形成過程の中で、一つの海上ネットワークとしてつながっていた
と見ることができます。
そして、その海上ネットワークの中に、直島の高原家と阿波水軍の森村吉という二つの存在があった――。
これこそが、直島と阿波、そして小豆島・讃岐を結んで考えることで初めて見えてくる、戦国瀬戸内海の歴史の面白さなのです。
プロフィール

“インバウンドと語学で、地域と人の価値を高める専門家”
Bizconsul Office代表
森啓成(Yoshinari Mori)
⸻
企業・自治体のインバウンド支援と、個人の語学×キャリア支援を行っています。
⸻
■事業領域
・TOEIC × キャリア戦略コーチング
・直島・瀬戸内 VIP対応 通訳ガイド
(全国通訳案内士〈英語・中国語〉)
・インバウンド戦略コンサルタント
(観光庁インバウンド研修認定講師)
⸻
■経歴
米国大学経営学部でマーケティングを専攻。
大手エレクトロニクス企業で20年間、海外営業職に従事し、中国・北京オフィス所長を務める。
その後、外資系商社の設立に参画し、副社長を経て顧問に就任。
米国・シンガポール・中国で計16年間の滞在経験を持ち、海外ビジネスと異文化コミュニケーションの経験を積む。
現在は、これまでの海外ビジネス経験と語学力を生かし、TOEIC × キャリア戦略コーチ、企業・自治体へのインバウンド戦略コンサルタント、直島・豊島での富裕層向け通訳ガイドとして活動している。
⸻
■ 資格
語学・教育
・全国通訳案内士(英語・中国語)
・英検1級
・TOEIC 970点(Listening満点)
・国連英検A級
・TESOL(英語教授法)
・HSK6級
・香川せとうち地域通訳案内士(中国語)
観光
・観光庁インバウンド研修認定講師
・総合旅行業務取扱管理者
・国内旅行業務取扱管理者
・国内旅程管理主任者
・せとうち島旅ガイド認定
(瀬戸内国際芸術祭2019公式ガイド)
⸻
■ 所属
四国遍路通訳ガイド協会
⸻
■ 登録
香川県登録通訳案内士サイト
⸻
■座右の銘
雨垂れ石を穿つ
⸻
■公式LINE
TOEICスコアアップに役立つ無料教材をプレゼントしています。
・TOEIC x キャリア戦略コーチング

