【讃岐秘話】 豊臣秀吉の家臣 仙石秀久と運命を共にした森村吉の人生 ー 栄光、失脚、そして小諸 7,000石への復活
はじめに
戦国時代には、主君の運命に人生を重ねた家臣がいた。
その一人が、阿波水軍森家の武将、森村吉(もり・むらよし)である。
村吉は、阿波水軍を率いた森村春の弟として生まれ、天正10年(1582)頃に淡路島洲本城主となった仙石秀久に仕えた。
そこから村吉と仙石秀久の波瀾万丈の人生が始まる。
仙石秀久が四国で勢力を拡大し、豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた栄光の時代も、九州の戸次川の戦いで大敗して改易され、高野山へ追われた失脚の時代も、そして小田原征伐で大逆転を果たして大名に復帰した再起の時代も、村吉は秀久と行動をともにしたと伝えられている。
その人生には、戦国時代ならではの激しさがある。
森村吉の次男・森権平久村は仙石方として引田の戦いに出陣し、仙石軍勢を助けるため殿(しんがり)を務めて討死した。
一方、長男・森村重は阿波に残って森甚五兵衛家の祖となり、三男・森村明は父とともに信濃へ移り、仙石秀久の娘と結婚した。
そして村吉自身は、最終的に信濃小諸で7,000石を与えられるまでに至った。
一人の武将の生涯を追うと、そこには、
阿波水軍
↓
仙石秀久
↓
讃岐
↓
引田の戦い
↓
四国征伐
↓
戸次川の戦い
↓
改易・高野山
↓
小田原征伐
↓
小諸7,000石
という、戦国史の大きな流れが見えてくる。
森村吉とは、いったいどのような武将だったのだろうか。
概要
仙石秀久と森村吉の栄光と失脚、復活
1582年――主従の始まり
淡路島・洲本城主となった仙石秀久に、阿波水軍の森村吉が仕える。
両者は盟約を結び、その証として、森村吉は次男・森権平を人質として差し出した。
1583年――引田の戦い、森権平久村の討死
讃岐・引田の戦いで、森村吉の次男・森権平久村は、仙石軍勢を逃すために殿を務め、討死した。
主君を逃すため、最後尾に残って敵の追撃を食い止めたのである。
1585年――栄光の頂点
四国征伐の軍功により、仙石秀久は豊臣秀吉から讃岐国を拝領した。
そして森村吉は、仙石姓と一万石を拝領した。
仙石秀久が讃岐一国を領する大名となったことで、森村吉もまた仙石家中で大きく出世した。
二人にとって、まさに栄光の時代であった。

1586年――戸次川の敗戦と失脚
しかし、栄光は長く続かなかった。
九州・戸次川の戦いで、仙石秀久は豊臣秀吉の命令を無視して大敗した。
この戦いでは、十河存保や長宗我部元親の子らの武将を失った。
さらに、仙石秀久は防御せず讃岐へ逃げ帰った。
そのため豊臣秀吉の逆鱗に触れ、讃岐国を没収され、改易となった。
そして仙石秀久は高野山へ追放された。
栄光の頂点から、一転して失脚したのである。
1590年――小田原での大逆転
1590年。
仙石秀久は、人生の大逆転を賭け、浪人衆として小田原の戦いに参陣した。
そして鈴なり武者となって大活躍し、軍功をあげた。
このとき、森村吉は三男・森村明とともに仙石秀久のもとへ馳せ参じ、軍功をあげた。
一度はすべてを失った主君と家臣が、再び戦場に立ったのである。

1590年――仙石秀久と森村吉の復活
小田原での軍功によって、仙石秀久は豊臣秀吉から小諸藩を拝領した。
そして森村吉は7,000石を拝領した。
こうして仙石秀久は再び大名として復活し、森村吉もまた仙石家の重臣として復活を遂げた。
さらに、森村吉の三男・森村明は仙石秀久の娘と結婚し、以後、森家は代々仙石家に仕えた。


栄光、失脚、そして復活
仙石秀久と森村吉。
二人の運命は、まさに戦国時代そのものであった。
1585年――栄光。
仙石秀久は讃岐一国を拝領し、森村吉は一万石を拝領した。
1586年――失脚。
戸次川の敗戦によって仙石秀久は讃岐を失い、高野山へ追放された。
1590年――復活。
小田原の戦いで仙石秀久は軍功をあげ、小諸藩を拝領した。
森村吉も7,000石を拝領し、再び仙石家の重臣となった。
そして森村明は仙石秀久の娘と結婚し、森家と仙石家の結びつきは、その後も続いていった。
一度は栄光を極め、すべてを失い、それでも再び立ち上がる。
仙石秀久と森村吉の生涯は、「栄光、失脚、そして復活」の物語である。
1.阿波水軍・森家に生まれる
森村吉は、阿波水軍の森家に生まれた。
兄は、阿波水軍の有力武将として知られる森志摩守村春である。
森家は阿波の土佐泊城を拠点に、鳴門海峡・瀬戸内海方面で活動した海上勢力だった。
村吉も、こうした森家の軍事的基盤の中で成長したと考えられる。
・森村吉が育った鳴門の土佐泊、1582年に仙石秀久が豊臣秀吉から与えられた淡路島の洲本城

村吉が森村春の弟であることは、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』にも記載されている。(コトバンク)

・阿波水軍森家の歴史書 木瓜の香り

・森家の家系図
森村吉 (森村春の弟)
↓
長男 森村重 (森甚五兵衛、後に260年間 徳島藩海上方を務める家系)
次男 森権平久村 (1583年、引田の戦いで討死)
三男 森村明 (仙石秀久の娘と結婚)


・森村明の妻は仙石秀久の娘


2.1582年――仙石秀久との運命的な出会い
村吉の人生を大きく変えたのが、仙石秀久との出会いだった。
仙石秀久は、豊臣秀吉の家臣として淡路方面を拠点に四国への軍事活動を展開していた。
天正10年(1582)には、秀吉の命を受け、十河存保を救援するため兵3,000を率いて小豆島から讃岐へ渡海したことが、『改撰仙石家譜』を出典とする香川県史年表に記録されている。
この時期、瀬戸内海は単なる交通路ではなかった。
兵員を運び、物資を運び、敵地へ渡海するための重要な軍事空間だった。
阿波水軍を背景とする森村吉が仙石秀久と結びついたことは、こうした瀬戸内海の軍事ネットワークを考えるうえでも興味深い。
『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』も、村吉について、天正10年(1582)に秀久に従って讃岐を攻めたと記している。(コトバンク)
ここから、村吉と秀久の長い関係が始まった。
3.次男・森権平久村――父と仙石家を結んだ少年
森村吉には三人の息子がいたと森家関係資料では伝えられている。
長男・森村重
次男・森権平久村
三男・森村明
この中で、仙石秀久との関係を象徴する存在となったのが次男・権平久村である。
森家側の資料では、村吉が仙石秀久に仕えた際、権平久村を人質として仙石家に差し出したと伝えられている。
しかし権平久村は単なる人質として扱われたのではなく、秀久から仙石の姓と「久」の一字を与えられ、仙石権平久村と名乗った。
この点は、森家と仙石家の関係が非常に密接だったことを示すものとして興味深い。

4.1583年――引田の戦い、そして息子の討死
翌天正11年(1583)。
仙石秀久軍は讃岐東部で長宗我部元親軍と激突する。
これが引田の戦いである。
仙石軍は苦戦し、引田から撤退することになった。
その戦場で、森村吉の次男・森権平久村が討死した。
徳島県立図書館のレファレンスでは、森権平久村について、森村春の弟である森村吉の次男であり、天正11年の引田合戦で讃州大内郡伊座中山において稲吉新蔵人に討たれたとする資料が紹介されている。
権平久村は仙石軍の撤退時に殿軍を務めた。つまり、権平久村は最後まで仙石秀久の軍勢を支え、退却する味方を守るため戦場に残って命を落としたことになる。
父・村吉にとっては、かけがえのない息子を失った戦いだった。
しかし、村吉はここで仙石秀久から離れなかった。
むしろ、この後も秀久と行動をともにする。
5.四国征伐――仙石秀久の栄光
その後、豊臣秀吉による四国征伐が始まる。
天正13年(1585)、長宗我部元親が降伏すると、四国の政治地図は大きく変わった。
仙石秀久は豊臣政権の有力武将として勢力を拡大し、讃岐一国を与えられた。
ここは、仙石秀久にとってまさに栄光の時代だった。
そして村吉も秀久の家臣として、この時期の軍事行動に従ったとされる。
村吉は、主君の出世とともに自らの地位も高めていった。
しかし、この栄光は長く続かなかった。
🔸天正13(1585)年に讃岐を拝領した仙石秀久は聖通寺城に入り、森石見守村吉を家老として1万石を与え仙石筑後守と名乗らせる。
資料: 高松市教育委員会による『勝賀城跡Ⅲ』(高松市埋蔵文化財調査報告 第86集)

6.九州征伐――仙石秀久の人生が暗転する
これまで、人生で快進撃を続けてきた仙石秀久。
天正14年(1586)、豊臣秀吉は九州の島津氏を討つため仙石秀久を派遣した。
仙石秀久は四国勢を率いて九州へ向かった。
そして豊後で起きたのが、戸次川の戦いである。

ここで仙石秀久は重大な判断を誤る。
なんと主君である秀吉からの命令を無視して、十河存保、そして、反対した長宗我部元親 父子らとともに島津軍と戦い、豊臣方は大敗してしまった。
この戦いでは、豊臣方となっていた土佐 長宗我部元親の嫡男・長宗我部信親、讃岐の大名・十河存保ら有力武将を戦死させてしまった。
更に、仙石秀久は敗走し、讃岐へ逃げ帰ってしまった。
当然、この一連の大失態は、秀吉の逆鱗に触れ、厳しい処分を受け、改易となる。
かつて讃岐一国を与えられた大名が、一転して所領を失ってしまったのである。
ちなみに讃岐の領主は仙石秀久に変わって生駒親正が豊臣秀吉から拝命された。



7.改易、そして高野山へ
仙石秀久は大名の地位を失った。
一時は高野山に入るなど、苦しい時期を過ごした。
ここから秀久は、いわば「浪人」に近い立場から再起を目指すことになる。
普通なら、この時点で多くの家臣は主君を離れていっただろう。
しかし、森村吉は秀久との関係を断たなかったと伝えられている。
ここが森村吉という人物の最大の特徴の一つである。
主君が栄えているときだけ仕えたのではない。
主君が失脚した後も、その関係を維持した。
そして、1586年の戸次川の戦いで改易されてから4年後、秀久が人生最大の賭けに出る時がやってくる。
8.1590年――人生の大逆転をかけた小田原征伐
天正18年(1590)。
豊臣秀吉は北条氏を討つため、小田原征伐を開始した。
仙石秀久にとって、これは単なる一戦ではなかった。
大名として復帰するための、人生最後の大勝負ともいえる戦いだった。
秀久は旧臣を集め、浪人衆として秀吉軍に加わったとされる。
有名なのが、全身に鈴を付けた装いで戦ったことから生まれた「鈴鳴り武者」の逸話である。
この時、仙石秀久 39歳であった。

秀久は伊豆山中城攻めや小田原城攻めで奮戦したとされる。
そして、この時、秀久のもとに馳せ参じた旧臣の一人として、森村吉がいた。
つまり、
讃岐一国を持つ大名だった時代
から、
改易され、高野山へ追われた時代
まで、
村吉は秀久との関係を維持し、
そして、
再起をかけた小田原征伐にも秀久とともに浪人衆として参加した
ということになる。


・仙石秀久の家臣


・仙石秀久の娘と結婚した三男 森村明

・引田城の戦いに敗れた仙石秀久、森村吉らは小豆島、淡路島へ逃げた。

・引田城跡と小豆島、淡路島

9.小田原征伐――森村吉の「大戦果」
ここは、森村吉の生涯を語るうえで特に重要な部分である。
徳島城博物館の坪内氏による「森水軍の成り立ちとその活躍」では、小田原攻めについて、森村吉について、
「この戦いで、森村吉(森村重の父)は仙石久秀の元で大戦果を上げた」
と記している。

・PDF資料: 森水軍の成り立ちとその活躍
https://satoyama4.omiki.com/mori060216.pdf?utm_source=chatgpt.com

同資料によると、同じ小田原征伐で、村吉の長男・森村重については別の具体的な武功が記録されている。
森村重は蜂須賀家政の家臣として小田原征伐に参加し、伊豆下田城攻撃で「先登してこれを抜いた」と記されている。
つまり父と息子は、小田原征伐でそれぞれ別の軍勢に属しながら武功を挙げたことになる。
これは森家の歴史の中でも非常に興味深い出来事である。
10.仙石秀久、奇跡の復活
小田原征伐での働きは、仙石秀久の運命を変えた。
秀久は豊臣秀吉から赦免され、再び大名として復帰する。
そして信濃国小諸を与えられた。


・上田市博物館
・小諸城址

・小諸城

・仙石秀久着用具足

かつて讃岐一国を領した大名が、一度は改易され、高野山へ追われ、それでも小田原で戦って再び大名に返り咲いたのである。
まさに、
栄光
↓
失脚
↓
浪人
↓
再起
↓
大名復帰
という劇的な人生だった。
そして、その波乱のすべてを森村吉はともにした。
11.森村吉、小諸で7,000石
仙石秀久が小諸城主となると、森村吉も秀久に従って信濃へ移った。
『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』は、森村吉について、
天正18年、秀久が信濃小諸城主となったとき、禄7,000石を与えられた
と記している。(コトバンク)
これは非常に大きな知行である。
徳島城博物館 坪内氏の資料にも、村吉が小諸で7,000石の筆頭家老となった旨の記述がある。

つまり、引田の戦いで息子を失い、主君の失脚を経験しながらも、村吉自身は最後には仙石家中で非常に高い地位を得たのである。
12.三人の息子――森家の運命が三方向へ
森村吉の生涯を理解するうえで、三人の息子のその後も重要である。
長男・森村重
森村重は後に森甚五兵衛を名乗った。
村吉の長男であり、阿波に残って蜂須賀家に仕えた。
小田原征伐では蜂須賀家政の家臣として下田城攻撃に参加し、先陣を務めて城を攻略した。
その後、森甚五兵衛家は徳島藩の海上方として260年間、存続することになる。
・徳島藩で海上方を260年間務めた森家




・阿南市椿泊にある森村重の墓

・森村春の墓

次男・森権平久村
権平久村は仙石秀久の家臣として活動し、天正11年(1583)の引田の戦いで討死した。
父・村吉が最も早く失った息子である。
1583年の引田の戦いの後、森家一族の一部が東かがわ市馬篠に落ち延びたという伝承も伝わっている。
・東かがわ市伊座で討ち死にした森権平久村の墓。東かがわ市伊座

・森家本家の家紋 木瓜、分家の家紋 丸に木瓜

・東かがわ市馬篠の森家の過去帳



・馬篠森家の家紋瓦 丸に木瓜

・家紋瓦 丸に木瓜

・先祖が森権平久村の一族と伝わる馬篠の森家。
馬篠森家の当主 森喜平の戸籍謄本。
妻は徳島藩碁浦御番所役人を231年間世襲した八田家当主の長女 八田キヨ。その長男の森虎太郎は讃岐黒羽城主 永塩因幡守氏継の末裔の永峰チヨと結婚した。永塩家は細川京兆家の細川家のもとで代々、摂津守護代を務めた。

・徳島藩碁浦御番所役人 八田家当主 八田孫平の戸籍謄本。妻は徳島藩御料理方の生藤家 生藤タケ。

・讃岐馬篠 森家の系譜

・森喜平の長男 森虎太郎の娘の神戸新聞インタビュー記事。下記の祖父というのは森喜平、阿波浄瑠璃が上手い祖母は八田キヨ。


・長塩永塩一族

・阿波水軍森家の拠点があった鳴門の土佐泊、森権平久村が討ち死にした東かがわ市伊座、一族の一部が落ち延びた東かがわ市馬篠。引田の戦いでは、長宗我部元親軍に敗れ仙石秀久、森村吉は引田城を脱出し、小豆島、淡路島へ逃げた。

三男・森村明
村明は父・村吉とともに信濃小諸へ移った。
森家側の系譜では、仙石秀久の娘と婚姻し、仙石家との関係をさらに深めたと伝えられている。


13.森村吉の人生を一つにつなぐ
ここまでを見ると、森村吉の人生は単なる「7,000石の家臣」という数字だけでは語れないことが分かる。
村吉は、
1582年
仙石秀久に仕える。
↓
1583年
次男・森権平久村が引田の戦いで討死。
↓
1585年
豊臣秀吉による四国征伐。
仙石秀久が讃岐一国を領する。
森村吉は一万石を得る。
↓
1586年
戸次川の戦い。
仙石秀久が敗北。
↓
その後
秀久は改易され、高野山へ。
↓
1590年
小田原征伐。
秀久は旧臣を率いて浪人衆として参戦。
森村吉も秀久とともに参戦
↓
小田原征伐
森村吉は仙石秀久のもとで「大戦果」を挙げた。
↓
小田原征伐後
仙石秀久、信濃小諸を与えられ大名復帰。
↓
森村吉
小諸で7,000石と仙石姓を与えられる。(コトバンク)
こうして見ると、村吉の人生は仙石秀久の人生と重なっている。
14.森村吉と仙石秀久――「主君と家臣」以上の関係
森村吉の人物像を考えるうえで、最も重要なのはここだろう。
村吉は、秀久が成功しているときだけ仕えた人物ではない。
秀久が讃岐一国を与えられた時代も、
九州で敗れた時代も、
改易された時代も、
高野山へ追われた時代も、
そして小田原で再起をかけた時代も、
その運命をともにした。
もちろん、各時期の村吉の具体的な動向については史料の濃淡があり、すべてを同じ確度で復元することはできない。
しかし、森村吉が仙石秀久の家臣として天正10年(1582)から活動し、最終的に秀久の小諸入封時に7,000石を与えられたことは確認できる。(コトバンク)
だからこそ、森村吉を一言で表現するなら、
「仙石秀久の栄光と失脚、そして再起をともにした家臣」
という表現が最もふさわしい。
15.阿波・讃岐・信濃――三つに分かれた森家
森村吉の家族のその後を見ると、戦国時代の「家の存続」という問題も見えてくる。
長男・村重の系統は、
阿波・徳島
へ。
次男・権平久村の系統は、
讃岐
へ。
三男・村明と村吉は、
信濃・小諸
へ。
つまり森村吉の一家は、結果として、
阿波
讃岐
信濃
という三つの地域に展開した。
長男は阿波水軍の伝統を徳島藩へつなぎ、次男は讃岐の戦場に散り、三男は仙石家との姻戚関係を背景に信濃へ定着したと伝えられる。
一つの家が、戦国時代の戦乱によって三方向へ分かれていったのである。
おわりに
― 栄光も、失脚も、再起も、ともにした森村吉 ―
森村吉の人生を振り返ると、一つの言葉が浮かんでくる。
「ともに生きた」
という言葉である。
1582年、仙石秀久に仕えた。
その翌年、次男・森権平久村を引田の戦いで失った。
それでも秀久から離れなかった。
秀久が四国で勢力を伸ばし、讃岐一国を領する栄光の時代も、ともにした。
九州へ渡り、戸次川の戦いで大敗し、秀久が改易された時代も、ともにした。
秀久が高野山へ追われ、再起を模索した時代も、ともにした。
そして1590年。
人生の大逆転をかけた小田原征伐で、秀久は再び戦場に立った。
森村吉も、その秀久のもとにいた。
森村吉については、小田原征伐で「仙石久秀の元で大戦果を上げた」とする資料が残っている。
その戦いを経て、仙石秀久は再び大名となり、信濃小諸を領した。
そして森村吉自身も、小諸で7,000石を与えられた。
一度は栄光を極め、一度はすべてを失い、それでも最後には再び大名へ返り咲いた仙石秀久。
その傍らには、森村吉がいた。
村吉の人生は、単なる「7,000石の武将」の話ではない。
それは、
阿波水軍の一族として生まれ、
仙石秀久に仕え、
息子を戦場で失い、
主君の失脚を経験し、
それでも主君を見捨てず、
小田原でともに再起を果たし、
最後には小諸7,000石に至った、
一人の戦国武将の物語である。
そして村吉の三人の息子もまた、それぞれ違う運命をたどった。
長男・森村重は阿波に残り、森甚五兵衛家として徳島藩の海上方へ。
次男・森権平久村は引田の戦場に散り。
三男・森村明は父とともに信濃へ。
こうして森村吉という一人の武将を起点に、森家の歴史は阿波・讃岐・信濃へと広がっていった。
森村吉の生涯を追うことは、戦国時代の一武将を知ることだけではない。
それは、主君と家臣、父と子、戦場と家、栄光と失脚、そして再起――戦国武士の生き方そのものをたどることでもある。
森村吉は、仙石秀久の栄光も、失脚も、そして再起も、ともにした。
その最後に待っていたのが、信濃小諸、7,000石だったのである。
三男の森村明の系統はその後も仙石家に仕えた。
仙石秀久の生涯・年表
― 年齢から見る「栄光・失脚・再起」―
1551年(天文20年)|0歳
1月26日、美濃国加茂郡黒岩村に生まれる。
『改撰仙石家譜』を出典とする長野県立歴史館の「仙石秀久年譜」では、この日を誕生日としている。
1557年(弘治3年)|6歳
『改撰仙石家譜』によれば、越前の萩原伊予守国満の養子となる。
1563年(永禄6年)|12歳
兄・久勝が家督を辞したため、仙石家の家督を継ぐ。
元服し、仙石家当主となったとされる。
1564年(永禄7年)|13歳
織田信長に初めて謁見。
木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に付属させられたと『改撰仙石家譜』に記される。
1570年(元亀元年)|19歳
姉川の戦いに参加。
浅井氏家臣・山崎新兵を討ち取ったとされる。
1574年(天正2年)|23歳
近江国野洲郡に1,000石を与えられたとされる。
1578年(天正6年)|27歳
4,000石を加増されたと『改撰仙石家譜』に記される。
1579年(天正7年)|28歳
摂津湯山の奉行を命じられる。
豊臣秀吉の家臣として、次第に重要な地位を得ていく。
1580年(天正8年)|29歳
長宗我部元親への対抗を目的とする讃岐方面の軍事活動に従事。
同年11月、織田信長の命を受けて淡路国を平定。
洲本城主となり、5万石を与えられたと『改撰仙石家譜』に記される。
29歳で5万石の大名となった時期である。
1582年(天正10年)|31歳
秀吉の備中国冠山城攻めに参加したとされる。
同年、淡路衆を率いて阿波・勝瑞方面へ進出するなど、四国方面で活動。
この頃、森村吉が仙石秀久に従って讃岐攻めに参加したとする資料がある。
31歳の秀久のもとで、森村吉と仙石家との関係が始まったとされる時期である。
1583年(天正11年)|32歳
伊勢亀山城攻め、賤ヶ岳方面で活動。
讃岐では引田に山城を築き、2,000騎を率いて長宗我部父子と戦ったと『改撰仙石家譜』に記される。
引田の戦いでは仙石軍が苦戦。
森村吉の次男・森権平久村が、この戦いで討死したと森家関係資料などに伝えられている。
1584年(天正12年)|33歳
小牧・長久手の戦いに参加し、戦功があったと『改撰仙石家譜』に記される。
1585年(天正13年)|34歳
豊臣秀吉による四国征伐が進む。
長宗我部元親が降伏。
秀久は讃岐高松に留め置かれる。
8月14日付の秀吉文書では、「讃岐国は千石権兵衛に……与力にする」とされ、讃岐を領することが確認できる。
一般には讃岐高松10万石とされる。
34歳で、讃岐を領する大名へと上昇した時期である。
1586年(天正14年)|35歳
九州征伐のため豊後へ渡る。
十河存保・長宗我部元親ら四国勢とともに島津軍と戦う。
12月、戸次川の戦いで豊臣軍が大敗。
秀久も敗走する。
その後、讃岐を失い、改易される。
35歳で人生最大の失脚を経験した。
1586~1590年|35~38歳
改易後、高野山に入るなど苦しい時期を過ごす。
大名としての地位を失い、再起を模索する。
この失脚期にも、森村吉は秀久との関係を維持したと推測される。
1590年(天正18年)|39歳
豊臣秀吉による小田原征伐。
秀久は徳川家康の取り成しなどを経て豊臣軍に加わり、戦功を挙げたとされる。
伊豆山中城攻めなどで奮戦。
「鈴鳴り武者」の逸話でも知られる。
森村吉も秀久のもとに馳せ参じ、武功をあげた。
39歳で大名復帰をかけた最大の勝負に出たことになる。
1590年(天正18年)|39歳
小田原征伐での戦功などにより、仙石秀久は再び大名となる。
信濃国小諸5万石を与えられ、小諸城主となる。
失脚から約4年で、再び大名の地位に返り咲いた。
森村吉も秀久に従って信濃へ移り、7,000石を与えられたとされる。
1590年代|39~48歳
小諸を拠点として領国経営を進める。
森村吉は仙石家中の重臣として活動したと森家関係資料に伝えられる。
仙石家は信濃で新たな領国支配を構築していく。
1600年(慶長5年)|49歳
関ヶ原の戦い。
仙石秀久は徳川秀忠に従い、信濃上田城の真田昌幸攻めに参加。
秀忠軍は上田城攻略に苦戦し、関ヶ原本戦には間に合わなかった。
秀久はその後も徳川方の大名として生き残る。
49歳。
1604年(慶長9年)|53歳
小諸領内の知行宛行など、領国支配を継続。
長野県立歴史館の『信濃史料』にも、慶長9年9月6日に仙石秀久が家臣らへ知行を与えたことが記録されている。
1614年(慶長19年)|63歳・満年齢
5月6日、仙石秀久死去。
1551年1月26日生まれ説なら、満63歳。
一方、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』では「64歳」とされており、これは数え年による表記と考えられる。
秀久の死後、小諸仙石家は嫡男・仙石忠政へ引き継がれる。
仙石秀久の「年齢」で見る劇的な人生
特に重要なポイントだけ抜き出すと、次のようになります。
29歳
↓
1580年、淡路洲本5万石
↓
31歳
↓
1582年、四国方面で活動
森村吉が秀久に仕えたとされる
↓
32歳
↓
1583年、引田の戦い
↓
34歳
↓
1585年、四国征伐後に讃岐を領する
↓
35歳
↓
1586年、戸次川の戦い
敗戦・改易
↓
35~38歳頃
↓
高野山などで失意の時代
↓
39歳
↓
1590年、小田原征伐
再起
↓
39歳
↓
信濃小諸5万石で大名復帰
森村吉も7,000石を与えられたとされる
↓
49歳
↓
1600年、関ヶ原・上田攻め
↓
63歳(満年齢)
↓
1614年、死去
つまり仙石秀久は、29歳で5万石、34歳で讃岐の大名、35歳で改易、39歳で5万石の小諸大名として復活という、極めて波乱に富んだ経歴をたどったことになります。
※年齢はすべて1551年1月26日生まれ説による満年齢で統一しています。
1552年説を採用すると、原則として各年齢が1歳若くなります。
仙石秀久の子孫――小諸から出石、そして昭和まで
仙石秀久(1552~1614)は、豊臣秀吉の家臣として出世し、戸次川の戦いで改易されたものの、小田原征伐で復活し、信濃小諸5万石を与えられた武将です。出石仙石家の祖でもあります。
1.秀久の子・忠政が家督を継ぐ
秀久の子には、久勝(久忠)、秀範、忠政らがいました。
長男の久勝は廃嫡、次男の秀範も廃嫡となり、三男の仙石忠政が家督を継ぎました。忠政は小諸藩主となり、1622年に信濃上田へ移封されます。
その後、
秀久
→ 忠政
→ 政俊
→ 政明
と仙石家は続き、1706年、仙石政明の代に信濃上田から但馬出石へ移封されました。以後、仙石家は出石藩主となります。
2.しかし、江戸後期には養子による継承が増える
ここが重要です。
出石仙石家は「秀久の男系子孫だけ」で一直線に続いたわけではありません。
歴代藩主を見ると、
政房 → 政辰 → 久行 → 久道 → 政美 → 久利 → 政固
と続きますが、途中には養子・娘婿による家督相続が入っています。
特に政美の死後、弟の仙石久利が養子として家督を継ぎ、さらに久利の養子となった仙石政固が跡を継ぎました。
したがって、江戸後期以降については、
「仙石秀久の血統がそのまま続いた」
というより、
「秀久が開いた仙石家の宗家・家名が、養子による継承を含めて続いた」
と表現するのが適切です。
・仙石氏

3.最後の出石藩主・仙石政固
仙石久利の養子となった仙石政固(1844~1917)は、最後の出石藩主ではなく、正確には最後の出石藩知事を務めた人物です。
1871年の廃藩置県によって出石藩は廃止され、その後、1884年の華族令で政固は子爵となりました。
その後は、
仙石政固
↓
仙石政敬(1872~1935)
↓
仙石久英(1895~1960)
↓
仙石政恭(1923~1972)
と旧出石藩主仙石家の宗家が続きました。政敬は賞勲局総裁・宗秩寮総裁、久英は貴族院議員を務めています。
4.1972年、宗家・名跡が断絶
そして最後の当主が、
仙石政恭(1923~1972)
です。
政恭は仙石久英の長男で、1960年に家督を継ぎ、1972年に死去。子がなかったため、これによって旧出石藩主仙石家の宗家・名跡が断絶したとされています。
ただし、これは、
「仙石秀久の子孫が1972年に全員いなくなった」
という意味ではありません。
仙石秀久には七男・久隆から続く旗本家など複数の分家がありました。
したがって、1972年に断絶したのは「旧出石藩主仙石家の宗家・名跡」であって、仙石秀久の子孫全体ではありません。
系譜を一行で整理すると
仙石秀久
→ 三男・忠政
→ 政俊
→ 政明(1706年、出石へ)
→ 政房
→ 政辰
→ 久行
→ 久道
→ 政美
→ 久利(養子)
→ 政固(養子)
→ 政敬
→ 久英
→ 政恭(1972年没・宗家断絶)
という流れになります。
つまり、仙石秀久が築いた家は、戦国の小諸から上田、出石へと約360年間続き、江戸時代には大名、明治以降は華族・子爵となり、1972年に旧出石藩主家の宗家・名跡が断絶した――というのが、最も正確な全体像です。
※1972年、最後の当主・仙石政恭が死去。子がなく、旧出石藩仙石家の宗家・名跡が断絶したが、仙石秀久の子孫全体が断絶したわけではない。

参考資料:
森村吉


森村重

森権平久村

森村春

【讃岐秘話】 阿波水軍・森村春の生涯――豊臣秀長を土佐泊城に迎え、木津城・岩倉城を攻略、文禄の役で戦死
高松市教育委員会による『勝賀城跡Ⅲ』(高松市埋蔵文化財調査報告 第86集)

50ページ

阿波では牛岐城の香宗我部親泰と渭山城の吉田孫左衛門が土佐へ引き揚げたため、海岸地域の防御は崩れた。
そして岩倉城と一宮城が陥落する。伊予では新居郡金子城の金子元春と桑村郡高尾城の金子元宅が討たれ、7月中旬までに過半の城が攻略された。
状況を見た元親は、家臣忠澄の提言を容れ、7月25日に停戦条件を呑んで降伏する。元親の三男津野親忠が人質として大坂へ送られ、長宗我部氏は土佐一国が安堵され三国は没収となる。各地に駐屯していた兵は土佐へ帰国し、羽柴勢も大坂へ帰還した。讃岐では、居城していた有力武将は土佐へ帰国し、多くの城は廃城となった。
香川氏は天霧城を退き、信景・親和父子も土佐へと移った。香川氏の土佐移住にともない多くの家臣が同道、そのため名族のいくつかは没落する。讃岐香川氏は滅亡するのであった。
秀吉の四国平定の後、国分が行われる。
阿波は蜂須賀家政で内1万石赤松則房に、伊予は小早川隆景で内2万3000石安国寺恵瓊、1万4000石来島助兵衛、3000石得居太郎左衛門に与えられた。
讃岐は仙石秀久に与えられ、内2万石は十河存保が領した(『多聞院日記』天正13年8月23日条)。「さぬきハ安富又十河孫六両人者為与力権兵衛ニ可引選由申出候」と、安富氏と存保は秀久の与力として仕える。
安富氏には郡切として領地が。与えられた(毛利家旧蔵文書)。
秀久は十河存保の救援以後、讃岐各地で戦い讃岐の状況をよく知る適任者として命ぜられたであろう。
また淡路には脇坂安治が入る。
阿波・讃岐・淡路には豊臣系大名が配置されたが、いわゆる織田政権の国分構想が豊臣政権の国分に関与したといえる。
第2節 仙石氏の入部から生駒氏の入部まで
🔸天正13(1585)年に讃岐を拝領した仙石秀久は聖通寺城に入り、森石見守村吉を家老として1万石を与え仙石筑後守と名乗らせる。
まず8月には那珂郡松尾寺と豊田郡地蔵院に禁制を出して、入部直後の混乱を収めた。そして10月には金刀比羅宮へ10石寄進し、地蔵院には年貢免除を行った(金刀比羅宮文書・地蔵院文書)。翌年には金刀比羅宮・白峯寺・一宮神社へ寄進して寺社を保護するとともに住民の信仰心を掌握しようとした(金刀比羅宮文書・白峯寺文書・田村神社文書)。
入国時の讃岐は、戦いの傷痕が生々しく「土佐元親要望ヲナシ数年戦ノ街ト成テ国中馬踏ニカカリ荒所トナリ、民庶困窮シテ年貢ヲ闕如ス」といった状況であった。
荒廃した地域では一揆が起こり、年貢未納の農民13人が聖通寺山の麓で釜ゆでの刑に処せられた。
長宗我部方として戦った香西佳清の子女を隠まっていた咎により、香東郡安原山の山主安原甚太郎とその頭12人を磔に処し、配下100余人が獄門に処せられたという(『南海通記』巻之十七)。
新領地における徹底した厳罰主義による支配の様子を示している。
一方、在地武士たちには知行宛行状を発給し、家臣団への組み込みを図った。12月には平尾弥四郎に長宗我部氏との戦いの感状を出しており、翌年正月には金倉堅忠の跡職として金蔵寺村150石を与えた(平尾家文書・「新撰讃岐風土記」所収文書)。

・森水軍の成り立ちとその活躍 (PDF資料)
https://satoyama4.omiki.com/mori060216.pdf?utm_source=chatgpt.com

小田原攻め
天正18年(1590)3月秀吉は北条氏政征伐の軍を起こし、織田信雄をして伊豆に向かわしめた。
蜂須賀家政は蒲生氏郷・福島正則らと信雄に属して北条氏規(氏康の子。氏政の弟。)の守る伊豆の韮山城を攻めた。
信雄・氏郷らはのちに引き上げて小田原包囲に従い、家政・正則らが残ってこれを包囲していた。
この時四国・九州の兵艦は下田港に入った。
その近くの下田城(守将は北条氏の将清水上野介)を攻めるに当たり、家政の臣森村重(甚五兵衛)は先登してこれを抜いた。
七月ついに北条氏は滅んだ。
🔸この戦いで、森村吉(森村重の父)は仙石秀久の元で大戦果を上げた。その後、村吉は、仙石氏が小諸に所領を与えられた時、7000石の筆頭家老となっている。
阿波水軍と朝鮮の役
天正18年 小田原に北条氏を滅ぼした豊臣秀吉はもはや国内には征服すべき者がなくなったので、その武威を海外に示さんとの大志を固めた。
しかし、水軍の準備が充分ではなかった。
朝鮮の役の不成功の最大原因は水軍の不振であったと言われている。
翌年に始めて軍船建造に着手し、しかも水戦の訓練を行わなかったことは水軍下振の重大な一因をなした。
また水軍にはこれを統轄する総指揮官がなく、ために数度の海戦に一致協力の実を失った。
藤堂と加藤・脇坂の争いなど抜けがけの功名をこととし、功名争いを繰返したことは水軍敗戦の重大な素因ともなった。
・森村春と文禄の役 (森甚一郎氏)
・森水軍の成り立ちとその活躍
https://satoyama4.omiki.com/mori060216.pdf?utm_source=chatgpt.com
・森村春
プロフィール

“インバウンドと語学で、地域と人の価値を高める専門家”
Bizconsul Office代表
森啓成(Yoshinari Mori)
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企業・自治体のインバウンド支援と、個人の語学×キャリア支援を行っています。
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■事業領域
・TOEIC × キャリア戦略コーチング
・直島・瀬戸内 VIP対応 通訳ガイド
(全国通訳案内士〈英語・中国語〉)
・インバウンド戦略コンサルタント
(観光庁インバウンド研修認定講師)
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■経歴
米国大学経営学部でマーケティングを専攻。
大手エレクトロニクス企業で20年間、海外営業職に従事し、中国・北京オフィス所長を務める。
その後、外資系商社の設立に参画し、副社長を経て顧問に就任。
米国・シンガポール・中国で計16年間の滞在経験を持ち、海外ビジネスと異文化コミュニケーションの経験を積む。
現在は、これまでの海外ビジネス経験と語学力を生かし、TOEIC × キャリア戦略コーチ、企業・自治体へのインバウンド戦略コンサルタント、直島・豊島での富裕層向け通訳ガイドとして活動している。
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■ 資格
語学・教育
・全国通訳案内士(英語・中国語)
・英検1級
・TOEIC 970点(Listening満点)
・国連英検A級
・TESOL(英語教授法)
・HSK6級
・香川せとうち地域通訳案内士(中国語)
観光
・観光庁インバウンド研修認定講師
・総合旅行業務取扱管理者
・国内旅行業務取扱管理者
・国内旅程管理主任者
・せとうち島旅ガイド認定
(瀬戸内国際芸術祭2019公式ガイド)
⸻
■ 所属
四国遍路通訳ガイド協会
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■ 登録
香川県登録通訳案内士サイト
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■座右の銘
雨垂れ石を穿つ
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■公式LINE
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・TOEIC x キャリア戦略コーチング

