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「朝起きた。夜寝た。」何も起きなかった日も人生そのものではないだろうか?

2024年、黒い表紙の五年日記を買った。

「一日数行だから続けられる。」

そう思っていた。

ところが、その数行が書けていない。

空白の日がある。

noteは書いているのに、五年日記は、書くのを忘れてしまう日がある。

「何も書くことがなかった。」

そんな日も少なくない。

しかし、
「何も書くことがなかった」ということも、その日の事実ではないか。

大きな出来事もなく、

誰とも喧嘩せず、

病気にもならず、

静かに一日が終わる。

それは決して「何もなかった」のではない。

平穏という出来事があったのである。

何もない穏やかな日☀️晴れ。天気だけは良かった。

五年日記は、完成した物語を書く場所ではない。

未来の自分への「痕跡」を残す場所なのだ。

例えば、

「晴天。暑い。少し散歩した。」

あるいは、

「noteを書いた。五年日記は書けなかった。」

それだけでも十分だ。

五年後、そのページを開いた自分は、その一行から、その日の空気や匂い、心の動きまで思い出すかもしれない。

記憶とは不思議なものだ。
(最近、プルーストを読み始めて、自分の記憶と向き合うことが多くなった。)

長い文章よりも、たった一行のほうが、鮮やかによみがえることがある。
(たった、ひとかけらのマドレーヌが記憶を呼び覚ますように。)https://note.com/quiet_roses9561/n/n3fa795834d77?sub_rt=share_b


私はこれから、空白になってしまった五年日記を少しずつリカバリーしていこうと思う。

空白を埋めるためではない。

毎日を立派な出来事に仕立てるためでもない。

人生は、映画の名場面ばかりではないからだ。

むしろ、その間にある、何気ない日々の積み重ねこそが人生なのだと思う。

だから、何も思いつかない日は、こう書けばいい。

「朝、起きた。 夜、寝た。」

その一行だけで十分だ。

朝を迎え、夜を迎えられた。

それだけで、その日は確かに存在した。

五年日記は、何か特別なことを書かなければならない本ではなかった。

生きていた証を残す本だったのだ。

映画のような出来事がなくてもいい。

旅に出なくてもいい。

何も起きなかった日も、人生そのものである。

そして五年後、そのページを開いた私は、きっと思うだろう。

「あの日も、ちゃんと生きていた。」と。


「静かな猫のノート」しずねこさんのnoteに何だか癒された。↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

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