見出し画像

💟綾子姫命(松良天皇皇后)の神風串呂

はじめに

このオンラインブックは、神皇正統 第九九代 「松良天皇(正良まさよし)」の皇后「綾子姫命あやこひめのみこと」(長慶天皇皇女)の神風串呂について述べたものです。

綾子姫命は、下記二つの略系図のように、明治天皇(睦仁)の遠祖である「光良みつなが親王」の母親に当る皇祖神であります。

神皇正統の皇統略系図(『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版より)

三浦芳聖は、光良親王の串呂を解明して、第百代大宝天皇(松良天皇第一皇子)と光良親王(松良天皇第四皇子)は、ご同腹の兄弟であると述べています。(『神風串呂』第168号/1971年2月11日発行)

神皇正統の皇統略系図(『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版より)

この記事は、神皇正統家極秘伝神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を分かりやすく解説したものです。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した元伊勢クシロの事です。

「元伊勢内宮皇大神社」の神風串呂

元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)のことだったのです。串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。

ここでは、「神皇正統第99代・松良天皇の皇后綾子姫(吉野朝・長慶天皇の皇女)の神風串呂や綾子姫の神霊写真」をご紹介しています。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!

串呂主宰神(伊勢神宮の大神)が、長期間掛け苦心惨憺くしんさんたんの末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助により日本民族本来の力を発揮出来るようになるでしょう。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を無視もしくは敬遠していると、無秩序な群雄割拠ぐんゆうかっきょの戦国時代(120年以上)に無辜むこの民が味わった塗炭とたんの苦しみを、国際的な規模で再体験することになるのではないかと心配しています。


🟡串呂哲学の理解を助ける予備知識

串呂について初めての方は下記を参照下さい。


1、綾子姫命概説

松良天皇の皇后綾子姫は、正平22年(丁未1367年)降誕。父は寛成親王(吉野朝・長慶天皇)、母は相模守新田義宗の女「桜姫」。

弘和元年(1381年)、松良天皇の皇后となる。元中5年(1388年)足利義満自ら率いる15万の大軍の猛攻に遭い、富士の皇居が落城したあと、京丸に集結し隠棲中の応永元年(1394年)、松良天皇の第一皇子・美良親王(大宝天皇)を出産したことが判明している。(三浦芳聖)

(注、新田義宗は、新田義貞の三男。)

神皇正統の皇統略系図(『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版より)

その後、京丸にも危険が迫ったので、宮路左太夫がお供をして遠洲光明寺村(静岡県浜松市天竜区船明ふなぎら)に落ち延びたが、追っ手が迫る中、宮路左太夫の介助で御自害され崩御。

没年不詳。御陵は、静岡県浜松市天竜区船明ふなぎらの「上臈塚じょうろうづか」(「綾姫塚」ともいう。瓢箪型をした塚で菊水の紋のついた五輪の塔があった、今はお社の中ある)。ご命日祭は7月24日。

この船明ふなぎらという地名について、山口保吉(究宗)氏は、下記のように述べています。

長慶院法皇の御陵を示すに仏説には彼岸に達するとありて船山と称す。遠江国光明村へは皇女綾姫の落ちさせ給うて、遙かの船山を拝するため一宇を建立し船明山長養寺と号し御追福を修し奉つる依て船明と称す。

伊勢国安濃郡辰水村に船山あり、遠江の船明と伊勢の船山との貫線上には、
長慶天皇の御山陵船山に貫して明瞭なり。千種交献中 寬成親王之息女綾姬
遠州光明村に落給ふ とあるは即ち船明の里なるを立証し奉る所なり。

「芳花鶴水園の聖地」145頁/新漢字・新仮名遣いに変換しました。

船山(三・津市美里町)-船山御陵(愛・豊川市八幡町)-船明(静・天竜区)

2、綾子姫命御陵(上臈塚)

綾子姫命御陵(あやこひめのみこと御陵、浜松市天竜区船明2619番地)

綾子姫命御陵は、「上臈塚(じょうろうづか)」と呼ばれている。詳細は不明であるが、お供の宮路左太夫に護衛されながら落ちてきて、この地で最期を遂げられたようだ(資料「上臈塚・日本伝承大鑑」他を参照下さい)。

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』第6章266頁-1

神皇正統第99代松良天皇皇后・綾子姫の神霊写真。円内に立ち姿の綾子姫命
が写っています。静岡県浜松市天竜区船明「綾子姫御陵」(上臈塚)。

青木文献(千種文献)には、綾子姫について下記のように書かれています。

寛成親王息女綾姫宮路左太夫遠洲光明寺村落給
(寛成親王の息女綾姫は宮路佐太夫と遠州光明寺村に落ち給う)

また、地元の「遠江国風土記」には、下記のように記載されている。

「遠江国風土記」に船明の記載があり、「上臈塚」の官女流離譚が残っている。「古老曰く、昔、官女流離して生害しここに葬る。塚囲三十歩計り、雑木繁生す。その侍者自殺し傍らに葬り下賤塚と号す。相去る一町、四辺田となる。その塚の枝葉を伐る者祟る。また闇夜に鬼火出づ。」
(『富士〝隠れ南朝〟史』富士地方資料調査会314頁)

【参照】「上臈塚にお詣り」(kawaiihanachiyan-2019のブログ)

3、綾子姫命御陵(上臈塚)発見の経緯

三浦芳聖は、大正15年(1926年)11月、約2年間の兵役を終え、同年12月1日に、恵照山日曜院(蒲郡市)の住職に就任したが、6月には院代を置いて、月の内半分は遠祖の御陵探し、後の半分は東京での修養と維新運動に充てていた。

日曜院
恵照山日曜院(愛知県蒲郡市清田町門前、昭和45年頃)

東京の学生時代に家庭教師をしていた「中田弥生さん」の父親「達治」氏と漢学で意気投合した三浦芳聖は、月2回ほど中田家を訪問し、中田氏は漢詩を講義し、三浦芳聖は四書五経を講義する内に昵懇の仲となり、

中田氏の要望で娘の弥生を嫁に貰ってほしいと言われ、昭和2年〔1927年〕の11月に結婚式をする運びになり、同年9月、中田父娘は、お寺を見るため恵照山日曜院に2泊して帰宅した。

その翌日、代々三浦家に仕えていた、豊川市御油町の中西久次郎氏(明治11年~昭和26年・青木和田尉盛勝の子孫)が、中西家に伝わる南北朝時代の古文書「青木文献(千種文献)」を携えて「恵照山日曜院」を訪問した。

その青木文献(千種文献)には、「綾子姫」について下記のように書かれてあった。

寛成親王息女綾姫宮路左太夫遠洲光明寺村落給
(寛成親王の息女綾姫は宮路佐太夫と遠州光明寺村に落ち給う)

そこで、三浦芳聖は、その当時住職をしていた「恵照山日曜院」と綾子姫の夫である「松良天皇」の御陵を結んで西方に延長したところ、不思議なことに倉敷市の「弥生町」を串呂していた。

「弥生町」-「⛩湊川神社」-「卍恵照山日曜院」-「松良天皇御陵」-

岡山県倉敷市弥生町(東西に分かれている)

また、南朝忠臣大楠公奉斎の「⛩湊川神社」を串呂していたので、楠木正成公のお導きに相違ないと感涙に咽び感謝しつつ、

東方に延長すると、静岡県磐田郡光明村を串呂していたので、早速、昭和2年(1927年)9月、青木文献の記録に基づき静岡県磐田郡光明村(現在の浜松市天竜区)に調査に出かけたところ、二俣から光明村に入ると船明と云う部落があり、そこに瓢箪型をした塚(上臈塚)を発見した。
(浜松市天竜区船明2619番地、秋葉街道=152号線の東側)

-「卍恵照山日曜院」-「松良天皇御陵」-「静岡県磐田郡光明村」

芳聖が、その傍らに住んでいる「杉本宇吉」という人に聞いてみるとその塚は、通称「上臈塚」と呼ばれていると言われたので、ここに間違いないと確信し、「阿弥陀経」を一巻読経して、ねんごろに回向した。

上臈塚2
浜松市天竜区船明2619番地の南側道路沿いの古墳が上臈塚(地図マピオン)

4、綾子姫命御陵の神風串呂

松良天皇御陵と綾子姫命御陵の神風串呂
「弥生町」-「⛩湊川神社」-「元町」-「南黒田」-「市子」-「卍恵照山日曜院」-「松良天皇御陵」-「西黒田」-「綾子姫命御陵」-「黒田」

(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』269頁)

皇大神宮内宮と綾子姫命御陵の神風串呂(№96)
「⛩皇大神宮内宮」-「日出町」-「綾子姫命御陵」-「⛩香取神宮」

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第六章

御祓山」(兵庫県養父市大屋町)-「田貫町」(京都市右京区京北)-「綾子姫命御陵」(静岡県浜松市天竜区船明)

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第六章

5、資料「上臈塚」 日本伝承大鑑

浜松市内から国号152号線を北上、二俣町をさらに北へ進んだところに船明という地区がある。その国道沿いに、小規模ながら石垣が積まれた墳墓と思しき場所があり、その上に小さな祠が建てられている。これが上臈塚である。

南北朝時代も終わりの頃。皇室祈願所となっていた光明寺に、身なりの良い若い女性とその供侍が訪れ、しばらくこの寺に参籠したいという。寺の者は、それなりの身分相応の者であろうとうかがい、それに応じることにした。

何日間かは何事もなく過ぎたが、ある日、一人の武者が光明寺にやって来て、若い姫とその供侍の二名が立ち寄っていないか尋ねてきた。そしてそれらしき者が参籠したことを聞くと、急ぎ戻っていったのである。

翌日、大勢の武士が光明寺に押し掛けてくると、姫と供侍が参籠していたお堂に押し入った。しかし既に二人はその場を退去しており、寺の者への感謝をしたためた書き置きが残されているばかりであった。
それから数日後、光明寺からほど近い船明にある薬師堂で、姫は自害して果てていた。もはや逃げおおせぬと観念したのであろう。憐れに思った村人は墓を築き、一人残された供侍はその墓を守るように七日の間いたが、やがて同じように自害したのであった。村人はこの侍のためにも墓を築いてやったという。

結局、この逃げてきた主従が何者であったかは分からずじまいであったが、村人はおそらく追ってきた武士は北朝の手の者であり、姫は南朝の身分ある者の子女ではなかろうかと推察した。そしていつしか、この姫は長慶天皇の第一皇女・綾姫とされ、言い伝えられることとなったのである。この姫の墓とされるのが上臈塚である。なお供侍の墓も“下賤塚”と呼ばれてあったが、既に取り壊されて現存していないという。

日本伝承大鑑「上臈塚」より

6、加茂喜三著『富士〝隠れ南朝〟史』より

『回天の秘策を胸に秘した松良天皇は、時機の到来を待つことにして、ひとまず安住の地を人馬も通わぬ深山の奥地を求めて移り住み、そこを御所と定めた。即ち静岡県周智郡春野町の京丸である。

京丸は前記した平和の真東約十キロの山中である。さらにそれより東へ約十キロゆくと大井川に出る。この地理を知れば京丸もやはり要衝であったことがわかる。ここに駐留しているとき同道してきた皇后綾子姫が皇子を生んだ。応永元(一三九四)年である。これがのちの大宝天皇である。

しかし、間もなくこの京丸御所も北朝の知るところとなり、松良天皇の皇后綾子姫は宮路左太夫らの供奉で、これより直線で約四十八キロ西南に当る天竜川沿いの船明(ふなぎら・現天竜市)へ落ちた。

「遠江国風土記」に船明を載せる。「高は五百二十九石余、天竜河の運送船揚げ場所なり。」とあり、同所に「上臈塚」の存在を記している。即ち「古老曰く、昔、官女流離して生害しここに葬る。塚囲三十歩計り、雑木繁生す。その侍者自殺し傍らに葬り下賤塚と号す。相去る一町、四辺田となる。その塚の枝葉を伐る者祟る。また闇夜に鬼火出づ。」とある。

「神皇正統家極秘伝」は、寛成親王(長慶天皇)息女で松良天皇の皇后で、大宝天皇の母である綾子姫はここで崩御し、瓢型の塚を築いて御陵とした。即ち「上臈塚」(じょうろうづか)である、と記している。この塚には菊水の紋を打った五輪の塔が立っていたというが、今は見えない。

現在、塚は竹薮に覆われていて中央の頂きに小祠が祀られている。隣の旧家が管理していて毎年七月二十四日に例祭が行われる由、この日は綾子姫の命日という。伝説がある。昔、お姫様と下男が恋に落ち二人は手に手を取って、ここまで逃げてきたが、追手が迫ってもうこれ以上逃げ切れないことを知り、下男は短刀でお姫様を殺した上、自らも喉を突いて死んだ。

土地の人が哀れんでお姫様の死骸を埋めて塚を築き、これより毎年その命日に慰霊して今日に至っているというのである。しかし身分の違う下男の死骸は一緒には葬られず、遠く一丁も離れた田圃の中に捨てられたままだったといい、今日でも祀りは姫様だけに限られているそうである。このことはお姫様の身分が高貴だったことを教えているようである。

これも悲恋物語である。富士の田貫湖、北遠の京丸、それにこの船明、何れも〝隠れ南朝〟遺跡の地であるが、これら三つの土地に残る伝説は共通してみなお姫様を中心にした悲恋物語となっているのは意味深い。
なお、この塚の前にトンガリ帽子(三角)の小山がある。この塚の道標となっている。

船明は古来天竜川を通路として遠江と信濃を結ぶ船路の要衝とされていた。秋葉山城に十一キロ、二俣に四キロ、小松に十五キロ、上神増に七キロの地点にあり、遠江に於ける〝隠れ南朝〟の基地の一つとされていた。』
(加茂喜三『富士〝隠れ南朝〟史』314頁~316頁)


💟串呂クシロ(かんろ)とは

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)とは、元伊勢もといせ伝承で皇祖神・天照大御神が各地を巡行じゅんこうしながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。

元伊勢クシロは、皇城守護こうじょうしゅご結界けっかいのことだといわれて来ましたが、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。

神皇正統しんのうしょうとう嫡皇孫ちゃくこうそん三浦芳聖みうらよしまさ」が、生涯の精魂せいこんを込めて解明した神風串呂によって、「元伊勢クシロ」とは、皇統正史こうとうせいしを我が国の国土に埋め込んだ地文学・神風串呂であることが判明したのです。

地名(地文ちもん)に秘められた天地神明からの啓示を解明する学問(皇霊学)が神風串呂しんぷうかんろ(串呂哲学)です。

神風串呂は、地文ちもん(地名)を研究することで天地神明の存在を認識することのできる神道皇霊学しんとうこうれいがくで、真日本国再建のために皇祖神・天照大御神によって構築されました。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神・天照大御神からの神妙なる息吹を体感体得たいかんたいとくすることができるでしょう!

串呂主宰神かんろしゅさいしん(天照大御神)が、長期間掛け苦心惨憺くしんさんたんの末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助てんゆうしんじょにより日本民族本来の力を発揮はっき出来るようになります。

🔴皇大神宮内宮(大御神)の嫡皇孫は三浦佐久の子孫(三浦皇統家)である。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を無視もしくは敬遠していると、無秩序な群雄割拠ぐんゆうかっきょの戦国時代(120年以上)に、無辜むこの民が味わった塗炭とたんの苦しみを、国際的な規模で再体験することになるのではないかと心配しています。


🎀元伊勢伝承とは

元伊勢伝承の皇祖神・天照大御神の各地巡行は、神風クシロ構築の旅であり、各地の産土神うぶすなしん地霊ちれい)に神風クシロ構築計画への協力を呼び掛ける遊説ゆうぜいでありました。元伊勢クシロは神風クシロです。天照大御神が、伊勢地方にお鎮まりになったのは、串呂の超重要起点(基点・根拠地)をここに置くためだったのです!


🟢串呂哲学の理解を助ける予備知識

始めての方は、下記の記事を参照してください。


🍀祈り
全世界の全人類が みな健康で 元気で明るく豊かで楽しく 心安らかな毎日を過ごし、霊的向上の道を歩み、この世に生まれて来た使命を全うし、大宇宙の進化と発展に寄与させて頂いておりますことに心から感謝いたします!


💌イエローハットの創業者であり、NPO法人「日本を美しくする会」の
相談役でもある鍵山秀三郎氏の言葉

国民一人ひとりが、自分にとって、もしくは誰にとってよいかどうかではなく、本当に何が正しいかどうかを考えて行動するようになれば、どんな問題も解決できるでしょう。

あなた方の議論はすべてどちらが正しいかという議論ばかりで、何が正しいかという議論を聞いたことがない。泥棒と詐欺師どちらが正しいかという議論をして、どちらが勝ったという結論を聞かされても、私から見ると意味がない。


🔴神風串呂を学びましょう!


💟串呂文庫

🔴三浦芳聖著「神皇正統家極秘伝 明治天王(睦仁)の神風串呂」復刻版
🟢三浦芳聖著「五皇一体之八幡大明神 三浦芳聖 降誕号」復刻版
🟠三浦芳聖 著「神風串呂神伝」
🟢三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(デジタル復刻版)
・・・・・
🔴神風串呂入門-神皇正統家極秘伝(鈴木超世志著)
天照大御神の子育て 御子 三浦芳聖 の教導録 青春編 第一分冊(🌷新着)
💟開鏡の神風串呂-天の岩戸開きへの道


🟡バックナンバー(総合)

🟠情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の皇統を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。

ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。


著者 鈴木超世志のプロフィール
中学一年満13才の時、神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖師に師事し爾来60年間、
串呂哲学(神風串呂)を研究して来た老学徒。1950年愛知県生れ74才。
串呂哲学研究家。串呂哲学研究会代表。神社本庁神主、元高校教諭。

著 書
神風串呂入門
ここまで解った元伊勢伝承
開鏡の神風串呂-天の岩戸開きへの道
天照大御神の子育て 御子 三浦芳聖 の教導録 青春編
など多数

ブログ
串呂哲学研究ノート

*******************
🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
*******************

いいなと思ったら応援しよう!

串呂哲学研究ノート 串呂哲学研究ノートは、読者の皆様方の財政的ご支援により活動が維持されています。理解しやすい記事作成のために諸般の費用が掛かります。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。読者の皆様方のご支援に感謝しています!