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💟貞成親王の神風串呂——“旧宮家の原点”はどこにあるのか

⛩️内宮と貞成親王の⛩️伏見松林院陵の神風串呂(Google.Map/縮尺約47.6万分の1)

🎀串呂哲学研究ノート 第537号

後花園天皇の神風串呂が示した“室町王権の正体”。その核心へと踏み込むためには、どうしても一人の人物――貞成親王――を避けて通ることができません。

旧宮家十一家の男系共通祖。皇統断絶ののち、再び皇位をつないだ“影の中心人物”。しかし、その実像は通説史料が語ろうとしない。

本号では、貞成親王の埋葬地・⛩️伏見松林院陵を至点とし、神風串呂が描き出す“伏見宮の真相”を読み解きます。

💞はじめに

前号までの二回にわたる研究で、「⛩️後花園天皇陵を至点とする神風串呂」を四本も解明することが出来たのは、まさに「天佑神助のたまもの」であると感謝いたしております。

⛩️後花園天皇陵を至点とする神風串呂
(1)⛩️内宮…二王、上弓削町、たぬき村、新堂
(2)◎足利市役所…下武士、大芝高原、下弓削町、天狗 -🔴-🔴-🔴-
(3)⛰️源氏岳…卍清源寺、本名駅、蔵王キツネ村、蔵王町
(4)⛰️天子ヶ岳…曲り、一宮町、多利、上胡麻、胡麻、田貫町、下弓削町、上弓削町、彦根市、一宮市、一之宮、大芝

これは、後花園天皇を擁立した室町(足利)王権の本質を示す神風串呂であると思います。後花園天皇の串呂は、まだ他にも有りますが、今号からは、後花園天皇の父――貞成親王(さだふさしんのう/1372‐1456)の串呂へと歩を進めます。

貞成親王は、「旧皇族11宮家」の男系共通祖であり、日本皇統史の核心に立つ人物であるにもかかわらず、その実像は驚くほど語られていません。

まずは、『Wikipedia』が伝える基本情報の要点を確認しておきます。

🟢貞成親王とは何者か

伏見宮家 第3代当主。後花園天皇の父。 出家後は「道欽入道親王」と号し、院号は「後崇光院ごすうこういん」。 著作に『看聞日記かんもんにっき』『椿葉記ちんようき』があり、とくに『看聞日記』は33年分が現存するため、彼の行動・思想を知るうえで極めて貴重な史料である。

しかし―― 通説史料は、彼の“核心”には触れようとしない。 むしろ、避けているようにすら見える。だが、『看聞日記』『椿葉記』が残存しているお蔭で、室町王権の真実をたどることが出来る。

貞成親王は『看聞日記』と『椿葉記』を後世に残すつもりで書いたわけではない。著述の動機は、父親から愛息(天皇)へのメッセージ(私信)であり、いわば「マル秘」文書である。

🔴後花園天皇が、51歳(満齢)の若さで急死したため、父親王から繰り返し依頼されていた文書読後の焼却処分が出来ずに残ったのである。

🪷今号の構成は、下記の通りである。

1、貞成親王の神風串呂(1)
⛩️内宮と貞成親王の眠る⛩️伏見松林院陵の串呂
2、貞成親王――つたなき隠士の家より
室町(足利)王権の核心部分の考察

【参照】

🔷伏見宮貞成親王 - Wikipedia
🔷看聞日記 - Wikipedia
🔷椿葉記 - Wikipedia

🔴足利天皇論三部作が示す衝撃の結論
長島銀蔵『皇統正史』(1966)
熊沢寛道『南朝と足利天皇血統秘史』(1962)
吉田長蔵『新天皇論』(1952)

これらの三部作は、揃ってこう断じる。
「貞成親王=足利義満の長男」

私自身もこれらを読み込み、同じ結論に達した。
🔴そして今号では、この仮説を 串呂 で検証する

熊沢寛道『南朝と足利天皇血統秘史』表紙

🔴初めての方は、下記の記事を先にお読み頂くと理解しやすいです。

🔶後花園天皇の神風串呂――地文が示す“足利王統”の影
🔶天子ヶ岳が暴く“室町王権の正体”――後花園天皇の神風串呂④


目 次

はじめに
1、貞成親王の神風串呂①――⛩️内宮を起点として
2、貞成親王――つたなき隠士の家より
(1)40歳まで伏見宮家に入れなかった“匿姓の王子”
(2)『椿葉記』が語る“血統の異例”
(3)「つたなき隠士の家」――貞成自身の境遇
(4)伏見宮内部の呼称――「御所様」「新御所様」
(5)治仁王急死――3ヶ月以内に、二代続けて連続死
(6)串呂が示す決定的地文



1、貞成親王の神風串呂①——⛩️内宮を起点として

まず、串呂哲学の定石に基づいて、伊勢の⛩️内宮を起点にして貞成親王の埋葬地・⛩️伏見松林院陵を至点とする串呂を引いて見た。

すると―― 地文は、まるで“答え”を示すかのように並び始めた。

内宮についての詳細は、下記をご覧頂きたい。
💟皇大神宮内宮の神風串呂

⛩️皇大神宮内宮(三重県伊勢市)

🟡串呂至点

この貞成親王を調査鑑定する地文としては、貞成親王の埋葬地 ⛩️伏見松林院陵(京都市伏見区新町)が最適であろう。

貞成親王の眠る⛩️伏見松林院陵(京都府京都市伏見区新町)

🔷串呂概観――北山(伊賀市)を貫通!

まず目に飛び込んできたのが、伊賀市の 北山(きたやま)

「貞成親王と北山の関係は?」といえば、 足利義満の卍北山鹿苑禅寺(卍金閣寺)を挙げることが出来る。

舎利殿(金閣)

🔴北山=足利義満(卍北山鹿苑禅寺)

鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区金閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院。大本山相国寺の境外塔頭。山号は北山(ほくざん)。本尊は聖観音。正式名称は北山鹿苑禅寺(ほくざんろくおんぜんじ)である。舎利殿「金閣」の建物の内外に金箔が貼られていることから金閣寺(きんかくじ)という通称で呼ばれることも多い。

北山文化の象徴である卍北山鹿苑禅寺は、義満の御所であった。

🔴義満の象徴「北山」が貞成親王の串呂線上に配置されていた。🎯🎯🎯

⛩️内宮と貞成親王の⛩️伏見松林院陵の神風串呂(Google.Map/縮尺約47.6万分の1)

⭕⛩️伏見松林院陵(京都市伏見区)
伏見宮 貞成親王の陵墓
      ⬇️
❇️北山(きたやま/三重県伊賀市)
卍北山鹿苑禅寺(卍金閣寺)=北山文化(足利義満を象徴)
      ⬇️
⭕⛩️内宮(三重県伊勢市)
神風串呂の一大拠点 超重要起点
主祭神 天照大御神

これは偶然ではない。 しかも、⛩️内宮 ― 北山 ― ⛩️伏見松林院陵の距離はほぼ等距離。 これは重要串呂の構築技法のひとつである。

🔷距離の一致

⛩️伏見松林院陵→北山(伊賀市)・・・53.5km
北山(伊賀市)→⛩️内宮・・・・・・・49.0km

⛩️内宮と貞成親王の⛩️伏見松林院陵の神風串呂(Google.Map/縮尺約47.6万分の1)

🔴伊賀市北山は義満を表わす地文である!

🟡北山(伊賀市)でリンクする二本の串呂

串呂は「こじつけだ!」・・・つまり地文の取り上げ方が恣意的であるという批判が有る。

この批判に対しては「重要地文は縦横無尽にリンクしている」と答えることにしている。

つまり神風串呂(地文)のネットワークが存在するということだ。
今回は特別に、その証拠を示す。

すなわち、この「伊賀市北山」が義満を示す地文であるかどうかを確認するためには、「伊賀市北山」と義満の御所であった「卍北山鹿苑禅寺(卍金閣寺)」を結んで見れば分かるのだ。

🔶伊賀市北山と卍金閣寺(北山第)の串呂

「伊賀市北山」が、義満と関係が有るかどうかを調査するために、この伊賀市北山と義満の御所であった「卍北山鹿苑禅寺(卍金閣寺)」を結んでみた。

伊賀市北山を中心にリンクする二本の串呂(Google.Map)

北西から
⛩️元伊勢内宮(もといせないくう/京都府福知山市大江町内宮)
起点 ここは元伊勢クシロの最初の逗留地であり、主祭神は天照大御神だ!
      ⬇️
❇️胡麻(ごま/京都府南丹市日吉町)
誤魔化す、隠す。
      ⬇️
❇️大北山(おおきたやま/京都市北区)
北山 三串 -🔴-🔴-🔴-
      ⬇️
卍北山鹿苑禅寺(卍金閣寺/京都市北区金閣寺町)
北山 三串 -🔴-🔴-🔴-
至点 足利義満の御所
      ⬇️
北山(きたやま/三重県伊賀市)
北山 三串 -🔴-🔴-🔴-

🎯北山 三串 -🔴-🔴-🔴- の絶対確証の神風串呂である!


義満の御所(卍北山鹿苑禅寺)そのものが、貞成親王の串呂に呼応(リンク)している。
卍北山鹿苑禅寺は、義満の住居であり、実証の串呂である。

距離の一致もある。ほぼ同距離だ。

元伊勢内宮 → 卍金閣寺……70.5km
卍金閣寺 → 北山(伊賀市)…60.6km

🟡日吉町胡麻でリンクする二本の串呂

この際だから、この串呂に出て来た胡麻(ごま/南丹市日吉町)についても言及しておきます。

胡麻(日吉町)は、後花園天皇の串呂(4)の胡麻です。

(4)⛰️天子ヶ岳…曲り、一宮町、多利、上胡麻胡麻、田貫町、下弓削町、上弓削町、⛩️後花園天皇陵、彦根市、一宮市、一之宮、大芝

天子ヶ岳と後花園天皇の神風串呂(Google.Map)
日吉町「胡麻」でリンクする二本の串呂(Google.Map)

この二つの串呂が、日吉町「胡麻」でリンクしていることで、室町王権が、武力を背景にして「誤魔化し隠す」を本質とした王権であったことが、より明確になりました。

さらに、後花園天皇の神風串呂で解明した(1)~(3)の串呂をリンクさせますと、だんだん複雑になって参りますが、串呂のネットワークが形成されて参ります。

本来なら、このようにして、取上げる地文ごとに関連性(リンク/連鎖)を見るべきかもしれませんが、煩雑だし、時間がないので実施していないだけで、地文を恣意的に取り上げているとか、こじつけであるとかの批判は当たりません。


💞元の貞成親王の串呂にもどります。

北山貫通を受け、この串呂線上の関連地文を調査したところ、 驚くべき配置が現れました。的確なる関連地文が、多数配置されていました。

⛩️内宮と貞成親王の⛩️伏見松林院陵の神風串呂(Google.Map/縮尺約95.2万分の1)
⛩️内宮と貞成親王の⛩️伏見松林院陵の神風串呂(Google.Map/縮尺約47.6万分の1)
⛩️内宮と貞成親王の⛩️伏見松林院陵の神風串呂(Google.Map/縮尺約47.6万分の1)

🔶主要地文一覧
❇️居組(いぐみ/兵庫県美方郡新温泉町)
居候
      ⬇️
❇️⛰️蘇武岳(そぶだけ/兵庫県豊岡市日高町羽尻)
武家。ここでは足利氏。
      ⬇️
❇️舞狂(ぶきょう/兵庫県養父市八鹿町)
まともな精神状況ではないこと。
      ⬇️
❇️大薮(おおやぶ/兵庫県養父市)
複雑混乱、真相不明
      ⬇️
❇️⛩️若宮神社(兵庫県朝来市和田山町高生田)
ここでは、義満の長男(貞成親王)を示す。
      ⬇️
❇️(兵庫県朝来市和田山町)
宮 四串 -🔴-🔴-🔴-🔴-
      ⬇️
❇️夜久野町(福知山市)
夜の世界になって久しい
      ⬇️
❇️北山(京都府福知山市)
北山 二串 -🔴-🔴-
      ⬇️
❇️親不知(おやしらず/京都府福知山市榎原)
景勝地。
母は西御方父不詳
近くにある「親不知城 北曲輪跡(おやしらずじょう きたくるわあと/京都府福知山市榎原)」は、北朝の皇統を捻じ曲げたと解読できる。
      ⬇️
❇️宮代(みやしろ/兵庫県丹波篠山市)
宮 四串 -🔴-🔴-🔴-🔴-
宮家代行。宮家交代。
伏見宮家を背乗りしたことを示す地文。
      ⬇️
❇️宍人(ししうど/京都府南丹市園部町)
鳥獣の肉を調理する宍人部。武士=首狩り族の暗示。
      ⬇️
❇️宮前町(京都府亀岡市)
宮 四串 -🔴-🔴-🔴-🔴-
      ⬇️
❇️三宅町(みやけちょう/京都府亀岡市)
宮家(伏見宮家)を示す地文。
      ⬇️
❇️王子宮ノ本(おうじみやのもと/京都府亀岡市篠町)
宮 四串 -🔴-🔴-🔴-🔴-
旧宮家の大元=旧宮家のルーツ。
      ⬇️
❇️大枝塚原町(おおえつかはらちょう/京都府京都市西京区)
大枝=子孫。北山(義満=大樹)の枝。
      ⬇️
⭕⛩️伏見松林院陵(京都市伏見区新町)
至点 貞成親王の埋葬地。
      ⬇️
❇️北山(きたやま/三重県伊賀市)北山 二串 -🔴-🔴-
北山第=北山文化(義満の象徴)
      ⬇️
⭕⛩️内宮(三重県伊勢市)
神風串呂の一大拠点 超重要起点
主祭神 串呂主宰神 天照大御神
      ⬇️
❇️的矢(まとや/三重県志摩市磯部町)
的中を示す地文。
      ⬇️
❇️的矢湾(まとやわん/三重県志摩市)
的中を示す地文。

宮 四串 -🔴-🔴-🔴-🔴-
北山 二串 -🔴-🔴-

解説(順不同)

貞成親王の⛩️伏見松林院陵(京都市伏見区新町)の調査結果は、義満を象徴する伊賀市北山を貫通し、旧宮家のルーツを示す王子宮ノ本が配置されていました。

宮、宮代、宮前町、宮の本、「宮 四串 -🔴-🔴-🔴-🔴-」 と呼ぶべき超絶対確証の並びである。三宅も文字こそ違うが読みは「みやけ」だ。

居組(いぐみ)

居候を連想させる地文です。
貞成親王は、生まれてから40歳になるまでは、今出川家の居候でした。また義満の死後、3年目、40歳になって、伏見宮家の居候となったのでした。


宮代(みやしろ)

皇統交代(家交行)すなわち宮家を背乗りしたと読めます。これについては第二部の「貞成親王――つたなき隠士の家より」で詳述しました。


舞狂
は、まともな精神状況ではないことを示す。国内唯一の地名であろう。
一体、貞成親王は、どんな狂態を演じたのか。これについては第二部の「(5)治仁王急死――3ヶ月以内に、二代続けて連続死」で詳述した。

住所の養父市八鹿町については、幼少時から今出川家で養育され、実父の義満には育てられていないことを示すと解釈できる。


⛩️若宮神社、王子宮ノ本は、義満(北山)の息子(貞成親王)が宮家のルーツであると読める。


親不知
(景勝地)は、明治10年に刊行された纂輯系図に、「貞成親王・・・母は西御方父不詳」と記載されていた事、すなわち「貞成親王が、真の父親を隠していること」を示す地文と読める。

付近にある親不知城 北曲輪跡(おやしらずじょう きたくるわあと)の北曲輪は、北朝を捻じ曲げた(背乗りした)と解釈できる。

親不知(おやしらず/京都府福知山市榎原)

夜久野町は、皇統の交代によって、我が国は「夜の世界となって久しい」と解釈できる。夜の世界は、明治・大正時代を除いて、今も続いていると思われる。

北山については、既に述べたので繰り返さない。

大枝は、将軍の子息を表わす。
枝は、子孫を表わす。例、金枝玉葉。
将軍のことを大樹というので、将軍(大樹)の子を大枝と言っているのであります。


⛰️蘇武岳は、武家を表わす。


宍人
興味深いのは鳥獣の肉を調理する職業を示す「宍人/ししうど」というユニークな地文だ。おそらく国内唯一の地名だろう。

この地文から、武士(首狩り族)を連想することが出来る。その住所が皇室を示す「園部町」であるのも興味深い。


大藪は、物事が複雑に入り組んでいる状況や、人間関係が混乱している状態を表す。芥川龍之介の「藪の中」という小説が有る。貞成親王の人生は、まさに大藪の中だ。


的矢
は、的中🎯を示す地文である。
この串呂は⛩️内宮を起点とした神風串呂である。すなわち、天照大御神が、太鼓判を押されている神風串呂である。


🔴貞成親王=義満の長男説は、もはや否定しがたい。
⭕従って、旧宮家のルーツは、足利義満だ!


2、貞成親王――つたなき隠士の家より

貞成親王――。 その名は静かだが、現在の皇室と旧宮家の“共通祖”として、日本王統史の中心に立つ人物である。にもかかわらず、その実像は驚くほど語られてこなかった。通説史料は、彼の核心に触れようとせず、むしろ避けているようにすら見える。

その理由は明白だ。 貞成親王は、「二つの王統」――表の皇統と裏の室町(足利)王権――が交差する“接点”に立つ人物だからである。

(1)40歳まで伏見宮家に入れなかった“匿姓の王子”

貞成親王は伏見宮家の王子とされながら、40歳になるまで伏見宮家に迎えられなかった。

幼少期から青年期まで、彼は伏見宮家ではなく今出川家で育てられ、まるで存在を伏せるように静かに暮らしている。

この異様な経歴は、「貞成=足利義満の長男」説を採ると驚くほど整合する。

義満と西御方(陽照院)との不義の子であれば、公表できず、今出川家に預けられた理由が明瞭になる。(西御方・陽照院については詳細不明)

1358年 義満 誕生
1368年 義満 元服
1369年 義満 征夷大将軍となる。12歳(数え)
1371年 貞成 受胎・・・義満14歳(数え)
1372年 貞成 誕生・・・義満15歳(数え)
1374年 義満 日野業子を正室に迎えた。17歳(数え)

(2)『椿葉記』が語る“血統の異例”

貞成親王は、『椿葉記』で次のように述べている。
「院の御猶子の儀にて践祚あり。よろず旧規にかはらず。御歳十歳にならせまします。めでたさも世の不思議なれば、天下の口遊にてぞ侍る。大かたはむかしも皇統の絶えたるのち両三代をへても、又皇統をつがせ給ふためしのみこそあれ、おなじくは我一流の絶えたる跡をおこさせ給はば、いかに猶めでたさも色そはまし。さりながらそれはともかくもあれ、つたなき隠士の家より出させ給ひて、かたじけなくも天日嗣を受けさせ給ふ事。天照太神 正八幡大神の神慮とは申しながら、ふしぎなる御果報にて渡らせ給へば、これもわたくしの幸運眉目にてあらずや」(送り仮名を補うなど編集した。)

これは、息子の彦仁(後花園天皇)が後小松天皇の猶子となって践祚した時の想いを述べたものだ。

🟢問題となる箇所を見て行こう!

後花園天皇が践祚した時、貞成親王は『椿葉記』にこう記す。

「天下の口遊にてぞ侍る」 (人々が噂しあった)

「椿葉記」

これは単なる「幼年即位の珍しさ」ではない。第101代 称光天皇が男子を残さず崩御し、北朝皇統が完全に断絶した直後に、後花園天皇が猶子として皇位を継いだ――その“血統の異例”こそが、京の人々をざわめかせたのである。

貞成親王はさらに、

「我一流の絶えたる跡をおこさせ給ふ」

「椿葉記」

と記す。

長島銀蔵『皇統正史』が指摘するように、

「我一流」とは足利義満 — 後小松 — 称光という“足利王統の流れ”である。

称光の死で断絶した足利一流が、後花園の即位によって再興した―― 貞成親王はそう受け止めている。

これは、「貞成=義満長男」説と完全に整合する。

🔴百歩ゆずって、我一流=崇光院流 と解釈しても、
「我一流は絶えた」のである。

皇統断絶の跡を興したのが後花園天皇だ。

(3)「つたなき隠士の家」――貞成自身の境遇

貞成親王は、後花園天皇の即位を

「つたなき隠士の家より出させ給ひて」

「椿葉記」

と記す。

隠士とは、俗世を離れて静かな生活をしている人を意味する。不倫で出来た自分(貞成)のような隠士の家から皇統を継承する人物が出たと言って喜んでいるという解釈が一番すっきりする。(士=武士の士だろう)

伏見宮家は皇族であり、宮様を“隠士”と呼ぶのは不自然だ。 しかし、40歳まで伏見宮家に入れず、今出川家で“匿姓の王子”として育てられた貞成自身の境遇ならば、この表現は驚くほど自然である。

不義の子として伏せられ、静かに育てられた「隠士の家」から天皇が出た―― 貞成親王はその事実を「身に余る果報」と記している。

さて、貞成親王が伏見宮家にやって来た40歳の時(1411年4月4日)には、足利義満は既に他界(1408年)していた。4代将軍義持と後小松天皇の時代である。さすがに、不倫を行った当事者の義満が生きている間は、表に出てこれなかったのだろう。

義満が他界して3年経ったので、活動を開始したと解釈できる。すなわち、義持と後小松、貞成の三者(足利三兄弟)で協議の結果、伏見宮を乗っ取って、足利王権を樹立しようという合議が成立した。その結果、室町幕府の威力をバックにして伏見宮家に迎えられ、そのまま伏見宮家の後継者へと押し上げられていく。

通説では説明できない貞成親王の異様な経歴は、以上のように解釈するとすっきりする。

こうした解釈が出来るのも、前々号、前号でご紹介した4本の「後花園天皇の神風串呂」や、今号の冒頭でご紹介した⛩️内宮と⛩️伏見松林院陵の神風串呂があればこそである。

(4)伏見宮内部の呼称――「御所様」「新御所様」

伏見宮に入った後、貞成親王は栄仁親王を「御所様」、治仁王を「新御所様」と呼んだ。

この呼称は、『看聞日記』に明確に記録されている事実である。

自分の父や兄をこのように呼ぶのは不自然である。むしろ、外部から迎えられた“居候”としての立場を示す呼称であり、義満と栄仁親王の妾三条治子の子であるという状況証拠と一致する。

(5)治仁王急死――3ヶ月以内に、二代続けて連続死

栄仁親王が薨去したあと家督を継いだ治仁王(1370年‐1417年)は、その2ヶ月と20日後、突然中風を発し急死する。

1411年4月4日      貞成親王 伏見宮家へ入る
1416年12月9日 栄仁親王 薨去
1417年2月28日 治仁王  薨去

伏見宮家の当主が、3ヶ月以内に、二代続けて連続死し、その直後に貞成親王が家督を継いだ。通説は治仁王の享年を47歳とするが、37歳とする説もある(看聞日記)。いずれにしても若すぎる。

この異様な継承劇は、京の人々に「毒殺」の噂を生じさせ、『看聞日記』にもそのまま記録されている。

通説では説明できないこの矛盾は、室町王権の強大な武力を背景にした“皇統再編”として理解すると一本の線になる。

(6)串呂が示す決定的地文

❇️⛰️蘇武岳(そぶだけ/兵庫県豊岡市日高町羽尻)
武家。ここでは足利氏。
      ⬇️
❇️舞狂(ぶきょう/兵庫県養父市八鹿町)
まともな精神状況ではないこと。
人倫に悖る犯罪的行為をしたのであろう。
      ⬇️
❇️宮代(みやしろ/兵庫県丹波篠山市)
宮 四串 -🔴-🔴-🔴-🔴-
宮家交代。宮家代行。伏見宮家を背乗りした象徴。
      ⬇️
❇️宍人(ししうど/京都府南丹市園部町)
鳥獣の肉を調理する宍人部。武士=首狩り族の暗示。
      ⬇️
❇️王子宮ノ本(おうじみやのもと/京都府亀岡市篠町)
宮 四串 -🔴-🔴-🔴-🔴-
旧宮家の大元=旧宮家のルーツ。
      ⬇️
⭕⛩️伏見松林院陵(京都市伏見区)
伏見宮 貞成親王の陵墓
      ⬇️
❇️北山(きたやま/三重県伊賀市)
北山第=卍金閣寺=北山文化(足利義満を象徴)
      ⬇️
⭕⛩️内宮(ないくう/三重県伊勢市)
神風串呂の一大拠点 超重要起点
主祭神 天照大御神

この並びは、 伏見宮家の継承が“偶然ではない”ことを示す。
歴史叙事詩として描くなら、こう言うほかない。

伏見宮家は、“足利王権”に塗り替えられた。 その中心に立っていたのが、貞成親王――足利義満の長男である。


🟡読者の皆様に!
【神風串呂】は、皇祖神・天照大御神が日本民族に授けられた、目に見える啓示であり、二千年の時を超えて今、私たちの前に顕れた「神の言葉」です。

このページに辿り着かれた貴方様とのご縁に、心より感謝申し上げます。 本記事は、天照大御神の御神意を体現し、地上に遣わされた神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖師が創始された「串呂哲学(神風串呂)」の真髄をお伝えするものです。

『神性敬遠の二千年史-皇祖神からの伝言』が明かすように、我が国が「天皇を日本国および日本国民統合の象徴と仰ぐ王政」を未来に継承したいと願うならば、皇祖神の御神意に添い奉る道を選ばねばなりません。 さもなくば、我々はこのまま異民族の支配に甘んじ、日本民族本来の尊厳と特性を失い続ける危機に直面し続けるでしょう。

神風串呂には、日本民族が進むべき道が明確に示されています。今こそ、真実に目覚め、御神意に立ち返る時です。 この情報を一人でも多くの方に届けるため、どうか拡散のご協力をお願い申し上げます。

なぜ天照大御神は、長きにわたり神風串呂を構築し、神皇正統家を顕彰されるのか? この問いに真摯に向き合い、串呂哲学の核心を学ぶことで、我々が今なすべき第一義が明らかになります。 そこにこそ、日本民族の再生と未来が懸かっているのです。

神風串呂、そしてそこに示された神皇正統家は、日本民族の魂の根幹であり、かけがえのない宝です。 二千年の歳月をかけて神風串呂を築かれた天照大御神の御心と、命を賭してその真理を解き明かされた三浦芳聖師のご労苦が、今こそ日本国と国民の幸せの礎となることを、心より願ってやみません。

🟡祈り
全世界の全人類が みな健康で 元気で明るく豊かで楽しく 心安らかな毎日を過ごし、霊的向上の道を歩み、この世に生まれて来た使命を全うし、大宇宙の進化と発展に寄与させて頂いておりますことに心から感謝いたします。

🟡神風串呂を学びましょう!

🟡バックナンバー(総合)


出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。


著者 鈴木超世志のプロフィール
中学一年満13才の時、神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖師に師事し爾来60年間、
串呂哲学(神風串呂)を研究して来た老学徒。1950年愛知県生れ75才。
串呂哲学研究家。串呂哲学研究会代表。神社本庁神主、元高校教諭。

著 書
神風串呂入門
ここまで解った元伊勢伝承
開鏡の神風串呂-天の岩戸開きへの道
神性敬遠の二千年史-皇祖神からの伝言
天照大御神の子育て 御子 三浦芳聖 の教導録 青春編
など多数

ブログ
串呂哲学研究ノート
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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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