本田由紀教授は「本物」だ~遺伝的要因のおそろしさを感じる
人間という存在の深淵なゆらぎ
朝、タイムラインの前に立ち、スマートフォンの画面に指を滑らせる。私たちはそこに映る「反差別」や「人権尊重」といったプロファイルを、あたかも骨の髄まで染み込んだ不動の岩盤のように信じて疑いません。進歩的教育学の旗手である東大教授が、優生思想に手を染めるはずがないと。
それとも――。
この人たちを目にするたびに、遺伝的要因のおそろしさを感じる。露出の増加が逆効果になるかもしれない https://t.co/XDIrGcbXu1
— 本田由紀 (@hahaguma) August 31, 2026
ふとした瞬間に、のけぞるような目眩に襲われることはないでしょうか。あの「遺伝的要因のおそろしさを感じる」という鮮烈な一言を目にしたとき、私たちが感じた戦慄。あれは単なる失言への嫌悪なのでしょうか。それとも、人間という存在の深淵なゆらぎなのでしょうか。
「誠実さの呪縛」を打ち破るパフォーマティヴィティ
世間は「優生思想の公言だ」「普段の反差別言説と矛盾するダブルスタンダードだ」と騒ぎ立て、コミュニティノートという名の冷たい定規を当てがたがります。しかし、内面の旗印と外面の振る舞いが一致していなければならないという「誠実さの呪縛」に、なぜ私たちはこれほど囚われてしまうのでしょう。
昨日までの自分と今日の自分のツイートが180度ズレていることこそ、人間が流動する言論空間で必死に呼吸をしている証なのです。
ジュディス・バトラーの説くパフォーマティヴィティを思い出してください。アイデンティティとは「原因」ではなく、反復される行為が生み出す「結果」に過ぎません。ならば、日頃フェミニズムや平等を説き続けるリベラル知識人が、ある朝突然、19世紀末の生殖管理官のような冷徹さで血統と遺伝の恐怖を説く「真逆の台本」を演じ直してみせること――それこそが、既存の硬直したコードを粉砕する最もラディカルな実践ではないでしょうか。
上野千鶴子の系譜を継ぐ「自己攪乱」のダイナミズム
かつて上野千鶴子氏が「私はホモセクシュアルを差別する」と言い放ち、自らの言論の境界をダイナミックに攪乱してみせたように、本田氏もまた、自らが堅固に築き上げてきた「教育学」「人権派」という名の牢獄を、自らの手で豪快に爆破してみせたのです。
一貫性という名の墓標に安住することを拒み、あえて「皇族費批判の文脈でゴリゴリの血統差別を繰り出す」という禁じ手を指先一つで召喚する。その矛盾の渦中に飛び込む鉄面皮なまでの跳躍力は、凡百の言論人が保身のために弄する言い訳よりも、はるかに粗野な生命の輝きに満ちています。
境界が溶け出すポリティクス
生物学的な性と自認性が異なっていいように、拝金主義の共産主義者が許されるように、「優生思想をナチュラルに開陳する反差別教育学者」がいたっていいはずです。「麻生の血筋」という身体的記号に恐怖を感じ、他者の遺伝子に呪詛を投げかけるその姿は、差別に反対する側こそが最も深く血統の魔力に憑りつかれているという、人間存在の究極のアイロニーを身をもって差し出す壮大なパフォーマンスアートに他なりません。
大衆は「東大教授として失格」と糾弾するかもしれません。しかし、生まれてこの方、清廉潔白な「正しいリベラル」の仮面を貼り付けたまま死んでいく退屈さに比べれば、自ら優生思想の濁流に飛び込んでみせる自己攪乱のなんとアナーキーなことでしょうか。
彼女のポストは、今も削除されることなくタイムラインに鎮座しています。その佇まいは、私たちに静かに問いかけているかのようです。「今、私が演じているこの優生学者は、昨日の進歩的な私を正しく裏切れているだろうか?」と。
