砂の上の鏡に、誰を映すのか(政治信条とジェンダー)
人間という存在の深淵なゆらぎ
「私」の輪郭を整える
朝、鏡の前に立つ。歯を磨き、今日という日にふさわしい「私」の輪郭を整えていく。そのとき、私たちは鏡の中に映る自分を疑うことはありません。「男」であること、「女」であること、あるいは特定の政治的な信条を持つ自分という存在を、あたかも骨の髄まで染み込んだ不動の岩盤のように信じて疑わないのです。
しかし、ふとした瞬間に、のけぞるような違和感に襲われることはないでしょうか。私が今日選んだネクタイの色や、SNSで何気なくクリックした「いいね」の集積。それらは、本当に私の内側にある「本質」の表れなのでしょうか。
それとも――。
ジュディス・バトラーの説く「目眩」
それとも、私たちはただ、繰り返しているだけなのではないか。ある特定の役割を、求められるままに演じ続けているだけなのではないか。そう考えた瞬間、足元の強固な岩盤が、実は絶え間なく流動する「砂」に過ぎないことに気づき、呆然とするのです。
「不変の真実」があるかのような幻想
思想家ジュディス・バトラーは、この目眩を「パフォーマティヴィティ(行為遂行性)」という言葉で喝破しました 。アイデンティティとは「原因」ではなく、繰り返される行為が生み出す「結果」に過ぎない 。私たちは特定の言葉を使い、特定の振る舞いを反復することで、あたかもその背後に「不変の真実」があるかのような幻想を沈着させていくのです 。
リベラルな言説を弄しながら皇室の祈りに安らぎを見出す人々や、保守の論理を掲げながら同性婚を容認すべきだと説く人々。そういう人があなたの前に立っていたら、どう思いますか。それは単なる錯乱した人なのでしょうか。それとも、人間という存在の深淵なゆらぎなのでしょうか。
結論を急ぎましょう。生物学的な性と、自らが魂で感じる性自認が必ずしも一致しないことが、今や一つの静かな真実として受け入れられつつあるように、私たちの「信条」においても、いくらでも変容するばかりか、いま、この時でさえ、自認する姿と行動に現れる姿が違って何ら不思議はないということです。
上野千鶴子の「攪乱戦略」
誠実さの呪縛
私たちはいつから、内面の旗印と外面の振る舞いが一致していなければならないという「誠実さの呪縛」に囚われてしまったのでしょうか。政治においても、昨日までの自分と今日の自分の行動がズレていることは、決して「嘘」や「矛盾」ではありません。むしろ、そのズレこそが、人間という多層的な生き物が、流動する世界の中で必死に呼吸をしている証なのです。
あえて誠実さを裏切る「自己攪乱」という名の勇気を、誰よりも鮮やかに体現してみせたのが、社会学者の上野千鶴子氏ではないでしょうか。
かつて彼女は、その著書『女という快楽』において、「私はホモセクシュアルを差別する」とまで言い切っていました 。同性同士のカップルは繁殖に結びつかず、異質なものとの交配という「種が強いた自然」を裏切る試みであるとして、ものわかりの良さそうな同性愛容認論を真っ向から否定したのです 。当時の彼女にとって、同性愛者は国家や再生産を否定する「アナーキーな存在」に映っていました 。
しかし、それから十年以上の時を経て、彼女は『発情装置』の中で、かつての自分は「同性愛差別者だった」と潔く懺悔しています 。
これを知的誠実さに欠ける「変節」と呼ぶ人もいるでしょう。ですが、私にはこの姿こそが、バトラーの説く「既存の台本の演じ直し」の極致に見えるのです。自らがかつて堅固に築き上げた「理論」という名の牢獄を、自らの手で壊し、新たな違和感を引き受けて立ち上がる。過去の自分を裏切り、矛盾の渦中に身を投じるその姿は、一貫性という名の硬直した墓標よりも、はるかに生命の輝きに満ちているように思えます。
しかも彼女は、自らの中にある「混乱」を隠すのではなく、むしろそれを公共の場で見事に演じきってみせました。その「堂々とした演じ直し」は鉄面皮との批判も生みましたが、停滞した言論の境界を攪乱し、私たちに知的誠実さとは別の新しい視座を与えてくれたのです。
あらゆる属性や信条は「演じられたもの」
さて、私たちは、自らが演じているその役柄から、一歩外へ踏み出すことができるのでしょうか。
現代を揺るがす「アイデンティティ・ポリティクス」を、ダグラス・マレーは「大衆の狂気」と呼び、宗教を失った現代人が縋り付く新たな形而上学であると批判しました 。確かに、誰かから与えられた「正解の台本」に飛びつき、それを他者を攻撃する武器に変えてしまうことは、別の監獄に自ら入るようなものかもしれません 。
ですが、本当の自由とは、既存の台本を破り捨てることにあるのではありません。むしろ、あらゆる属性や信条が「演じられたもの」であることを自覚し、その内なる乖離を抱えたまま、あえてそれを「演じ直していく」プロセスの中にこそ宿るのではないでしょうか。
肌の色と自認人種は異なっていい
遺伝子と違った性自認を持っても何らおかしくないことを、ようやく私たちは学んだのです。であれば、肌の色が白くても黒人を自認したり、肌の色が黒くても白人を自認してもいいのです。政治信条においても、例えば共和制を求める天皇主義者がいてもいいのです。拝金主義の共産主義者がいてもいいのです。
SNSのタイムライン、街頭の路上パフォーマンス、投票場での「清く正しき一票」。それらすべては、終わりなき「再演」の連鎖です。しかし、私たちは、単なる「男」や「女」、「右」や「左」として完結する存在ではありません。その区分を何度も裏切り、書き換えていく、その不完全な運動そのものが、私たちという「人間」なのです。
世界は揺らぎ、境界は溶け出しています。だからこそ、私たちは問い続けなければなりません。「今、私が演じているこの私は、昨日の私を正しく裏切れているだろうか?」。
その問いの先に待っているのは、安易な救いではありません。
あなたは親兄弟を含めた周囲から、一貫性のない、信頼できない人間との烙印を押されるかもしれません。しかし、生まれてこの方、ずっと「男(女)」や「左翼(右翼)」を演じ続けて死んでいくよりはよほどましだと思いませんか。そこには、呪縛に囚われていては決して気づけない自由が確かに息づいているのです。
