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性悪説は「人は生まれつき悪い」という意味ではない|2300年、ずっと誤解されている


性悪説という名前から、「人は生まれつき悪い」という説だと思っていた。

調べたら、荀子が言ったのはそれではなかった。むしろ逆に近い。

そして「生まれながらに罪を背負っている」のほうは、キリスト教の話だった。

まず5行でまとめると

性善説は孟子、性悪説は荀子。どちらも古代中国の儒家で、紀元前の思想になる。

そして両方とも、結論は同じところに着地する。 「だから教育と礼が必要だ」。

荀子の性悪説は「人は生まれつき悪人だ」という説ではない。 「放っておくと欲に引っ張られる。だから学びで整えよう」という、前向きで実践的な主張だ。

「人は生まれながらに罪を背負っている」はキリスト教の原罪で、まったく別の系統になる。 ここが混同されている。

そして現代の行動遺伝学では、性格の遺伝の影響は50%前後とされる。 生まれか育ちかではなく、両方が効いている。

まず、よくある理解を並べる

まず、自分がどう理解していたかを書く。性善説:人は生まれつき善い。悪くなるのは環境のせい。性悪説:人は生まれつき悪い。だから管理と罰が必要。

そしてビジネスの文脈では、だいたいこう使われている。「性善説で運用する」= 信頼して任せる。 「性悪説で設計する」= 不正を前提に監視する。

この使われ方は、実は本来の意味とかなりずれている。というより、荀子が言ったことと逆になっている場合が多い。

孟子の性善説:善いが、放っておくと悪くなる

孟子は、人の心は生まれつき善だと言った。ここまでは、一般的な理解と合っている。ただし、続きがある。

「人の本性は善であっても、放っておけば悪を行うようになってしまう」だから聖人の教えや礼が必要だ、と言っている。 つまり孟子の主張は、「人は善いから何もしなくていい」ではない。

「善い芽があるから、育てれば伸びる」という話になる。教育が要る、という結論は同じだ。 この「放っておくと悪くなる」の部分が、たいてい落ちている。

荀子の性悪説:悪いのではなく、欲に引っ張られる

ここが、この記事でいちばん書きたいところだ。荀子の性悪説は、「人は生まれつき悪人だ」という説ではない。言っているのは、こういうことになる。

人は放っておくと、欲に引っ張られる。自分から学ぼうとはしない。 だから、社会の仕組みと礼を設計して、半ば強制的に学ばせる必要がある。

これは、悲観というより実務的な話だと思う。「人間はそんなに賢くないから、仕組みで支えよう」 性悪説という名前が強すぎて、内容が誤解されている。

一橋大学の特任教授が「日本で誤解され続けている」と書いているくらい、定着した誤解になっている。そして皮肉なことに、ビジネスで「性悪説で行こう」と言うとき、荀子の趣旨とは逆の意味で使われていることがほとんどだ。荀子が言ったのは「だから教育しよう」であって、「だから信用するな」ではない。

もう少し補足する。荀子は、人が学べば変わると考えていた。 だから礼を整え、制度を作り、教える必要があると言った。

変われないと思っているなら、教育を説く意味がない。つまり性悪説は、人間への諦めではなく、人間が変わることへの信頼で成り立っている。名前だけ見ると、いちばん人間を信じていない説に見える。

中身は逆だった。

2人は、実は対立していない

並べると分かる。孟子:本性は善い。でも放っておくと悪くなる。だから教育が要る。荀子:本性は欲に傾く。放っておくと崩れる。だから教育が要る。

結論が同じだ。違うのは、出発点の見立てだけになる。 善い芽を伸ばすのか、崩れやすいものを支えるのか。

どちらも「人は放っておけない」という点で一致している。そして両方とも、教育と礼にたどり着く。僕はこの一致がいちばん面白いと思う。

人間観が正反対でも、やるべきことは同じになる。逆に言えば、「人が生まれつき善いか悪いか」という問いは、実務的にはあまり意味がないということでもある。どちらでも、答えが変わらないからだ。

「生まれつき罪を背負っている」は、別の話

性悪説と混同されやすいのが、キリスト教の原罪だ。これは系統がまったく違う。 原罪は、人類が最初に犯した罪を、生まれながらに引き継いでいるという考え方になる。

個人の資質の話ではなく、人類全体の状態の話だ。そして、そこからの救済は信仰によってもたらされる。荀子には、この構造がない。

荀子が言っているのは、学べば変えられる、ということだ。救済が要る話と、教育で足りる話は、根本的に別物になる。 この2つが日本で混ざっているのは、たぶん「性悪」という日本語が強すぎるせいだと思う。

「悪」という字が入っていると、罪や道徳の話に聞こえる。実際に荀子が言っているのは、もっと素朴な「欲」の話だ。具体的に言えば、こういうことになる。

楽なほうを選ぶ。目先の得を取る。 面倒なことを後回しにする。

これらは悪ではない。でも、放っておくと積み上がって、まずいことになる。だから仕組みで支える。

「性悪」という字面から想像するものより、ずっと日常的な話だ。

では、現代の科学はどう見ているのか

ここからが、もうひとつの問いになる。環境が人を作るのか、生まれた時点で基盤があるのか。これは、行動遺伝学という分野が扱っている。

方法は、双生児の比較になる。一卵性双生児は、遺伝的に同じで、育った環境も同じ。 二卵性双生児は、育った環境は同じだが、遺伝的には半分しか同じでない。

この2組を比べて、結果が似ていれば遺伝の影響が強い。差が出れば環境の影響が強い。そして分かっていることを書く。 多くの形質で、遺伝の寄与が50%を超える。

性格については、遺伝と「非共有環境」で説明できるとされている。

意外なのは、「共有環境」がほとんど効かないこと

ここが、この分野でいちばん驚かれる部分だと思う。環境は、2つに分けられる。 共有環境:きょうだいが共通して受けるもの。家庭の経済状況、親の教育方針、住んでいる地域。

非共有環境:本人だけが受けるもの。友人関係、たまたま入ったクラス、個別の経験。そして性格については、共有環境の影響がほとんど検出されない。 つまり、同じ家で同じ親に育てられたことは、性格をあまり似せない。

効いているのは、遺伝と、その人だけが経験したことになる。これは直感に反すると思う。 「あの家庭で育ったからああなった」という説明を、僕らは日常的にしている。

でもデータ上は、家庭より「その人だけの経験」のほうが効いている。

これは、子育てが無意味という話ではない。 性格が似るかどうかの話であって、健康や学力や安全は別だ。

ただ「親の関わり方で子の性格が決まる」という前提は、少し緩めていい。 「あなたのため」が実は親の不安から出ている、という話は前に書いた。

もうひとつ、性格の遺伝の影響は児童期から青年期にかけて減っていくという報告もある。代わりに、非共有環境の比重が上がる。 年齢を重ねるほど、生まれ持ったものより、自分が何を経験したかで決まっていく。

2300年前の問いに、いま出ている答え

孟子と荀子の問いは、こう言い換えられる。人間の出発点は、どちらに傾いているのか。 現代の答えは「両方が半分ずつ効いている」になる。

遺伝で50%前後。残りが環境。そして環境のうち、効いているのは家庭ではなく個人の経験のほう。これは、実は孟子とも荀子とも矛盾しない。

どちらも「放っておけない」と言っていた。遺伝が50%ということは、残りの50%は決まっていないということでもある。決まっていない部分に働きかけるのが、彼らの言う教育と礼だ。

2300年前の実践的な結論が、いまのデータとそれほどずれていない。ただし、ずれている部分もある。 孟子も荀子も、教育の主体を「聖人」や「制度」に置いていた。

上から与えるものとして考えている。でも行動遺伝学が言っているのは、効いているのは共有環境ではなく非共有環境だ、ということだった。つまり、全員に同じものを与える教育より、その人だけが出会うもののほうが効いている。

同じ授業を受けても、隣の席の人とは別のものを持ち帰る。この差が、性格を作っている。 制度で一律に整えるという発想は、そこまでは届かない。

「性悪説で設計する」という言い方について

最後に、実務の話に戻す。仕組みを作るとき、「性悪説で設計しろ」と言われることがある。 不正が起きる前提で、チェックと監視を入れる、という意味で使われる。

この考え方自体は、正しいと思う。

人は疲れるし、忘れるし、都合よく解釈する。 仕組みで支えたほうがいい。

ただ、言葉の使い方としては荀子と逆になっている。荀子は「人を信用するな」と言ったのではない。 「人は弱いから、支える仕組みを作ろう」と言った。

この2つは、結果として似た制度になるが、運用したときの空気がまったく違う。前者は監視になり、後者は支援になる。 同じチェック体制でも、「疑っている」のか「助けている」のかで、受け取られ方が変わる。

僕はここが、実務でいちばん差が出る部分だと思う。制度の中身より、その制度が何のためにあるかの説明のほうが、人の動き方を変える。 ルールが「守るもの」ではなく「疑われている証拠」に見えた瞬間、人は抜け道を探し始める。

規約を読まずに怒る人の話は、前に別の角度で書いた。 あれも結局、ルールが何のためにあるかが伝わっていない例だと思う。

まとめ

性善説は孟子、性悪説は荀子。どちらも「放っておくと崩れるから、教育と礼が必要だ」という同じ結論に着地する。人間観が正反対でも、やるべきことは同じになる。荀子の性悪説は「人は生まれつき悪人だ」ではない。「放っておくと欲に引っ張られるから、学びで整えよう」という前向きな主張で、日本では逆の意味で使われることが多い。「生まれながらに罪を背負っている」はキリスト教の原罪で、別系統の考え方。救済が要る話と、教育で足りる話は根本的に違う。

現代の行動遺伝学では、多くの形質で遺伝の寄与が50%を超える。性格は遺伝と「非共有環境」で説明され、家庭という共有環境はほとんど効いていない。そして年齢が上がるほど、遺伝の影響は下がり、その人だけの経験の比重が上がる。「生まれか育ちか」ではなく、両方が効いていて、育ちのほうは家庭ではなく個人の経験だった。

出典

※遺伝率の数値は形質・調査によって幅があります。本記事では「多くの形質で50%を超える」という一般的な整理を採用しました。

※遺伝率は集団についての統計であり、個人の将来を決める数字ではありません。

※孟子・荀子の解釈には学説の幅があります。本記事は一般に流通している整理に基づいています。

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YG|元編集者・クリエイティブディレクター 引き続き記事を書いて欲しいと思ったら!頑張るよ。

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