人はなぜ生きる?
人は、食べ、眠り、働く。
それだけを見ると、人生はただの「生命維持」のようにも映る。
もし、人生の目的が「ただ生きること」にあるのなら、人は「食べ、眠り、働く」というサイクルを繰り返しながら、ただ死を待つだけの存在になってしまう。
それは、車を所有者することに似ている。
車を運転する人は、定期的にガソリンスタンドへ行き、給油する。
車で仕事へ向かうため、大切な人に会うため、まだ見ぬ旅先の景色を見るために。
たとえ目的地のないドライブへ行くことがあるとしても、走れば必ずどこかにはたどり着く。
けれど、もしある人が「わたしはガソリンを入れるために、この車を走らせています」と言ったら、誰もが違和感を覚えるだろう。
ガソリンの補給は手段であり、目的ではないからだ。
だから、人生の目的が、もし「生きるために、生きる」のだとしたら、かなり奇妙である。
それは、「ガソリンを入れるために、車を走らせ続ける」と言っているように聞こえるからだ。
同じように人間もまた、寿命がくるまでの間、ただ死なないためだけに生きているわけではないはずだ。
人は皆、それぞれの人生という車を走らせている。
──どこへ向かって?
「人生には、最初から意味などない。だから好きなように生きればいい」
あるいは「人生は死ぬまでの暇つぶし」という考えもある。
きっとそこには、もっとゆったりした気持ちで楽しく生きようよ、という温かい気持ちと良い意図があるに違いない。
人生はただ義務を果たすためだけにあるのではない。
自分が喜ぶ生き方をすればいい。
その考えのおかげで気持ちが軽くなったり、救われたりする人がいる。
「人生に目的はない」と感じている人でも、日々の暮らしの中で何かを大切にし、何かを守ろうとして生きている。
そう考えると、人生に目的がないわけではないのかもしれない。
健康でありたい。
平穏に暮らしたい。
幸せになりたい。
誰かを支えたい。
その一つひとつの思いの中に、その人が大切にしているものが表れている。
それらの目的は日常に溶け込み、あまりにも自然なものになっているため、改めて「人生の目的」として意識する機会が少ないだけなのかもしれない。
だとすると、人生を楽しむことと、人生の目的を大切にして生きることは、決して対立するものではない。
わたしたちは皆、それぞれ違う人生を歩み、違う経験を重ねてきた。
そのため、大切にするものや守りたいものが異なるのは自然なことである。
ただ、その違いがぶつかり合うこともある。
歴史を振り返ると、世の中の争いの多くは、人々がそれぞれ「何を大切に思うか」という価値観がすれ違った結果起きた。
もし、自分や自分が属する集団の幸せだけを人生の目的として考えるなら、異なる価値観を持つ人々と向き合うとき、何をよりどころにして互いを尊重すればよいのだろう。
だから人生には、「自分は何をしたいか」「何が嬉しいか」という問いに加え、「自分の生き方は他者に何をもたらすのか」という問いも必要になってくる。
「与えられた命を、自分はどのように使いたいか」と自問するとき、思い出す言葉がある。
精神科医のヴィクトール・フランクルは、ナチスの強制収容所という極限の絶望を生き抜いた経験から、こう語っている。
人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなく
むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである
人生の目的は、どこか遠くに隠されているものではない。
当人がまだ気づいていなくても、それぞれの人の足もとに、絶えず送り届けられている。
そしてその人に見出され、実現されるのを待っているのだとフランクルはいう。
それは、必ずしも大きな偉業を成し遂げることを意味するものではない。
人生の目的を見出している人は、困難な状況の中でも、生きる理由を失いにくい。
なぜなら、それは「人はなぜ生きるのか」という根源的な問いへの答えに直接つながっているからである。
その問いを持ち続ける人は、いつか答えを見つける。
そこには、時代の変化を超えて存在するプリンシプルがある。
