#0336 役所は「消費者」になっていないか―行政と民間の距離を考えた【前編】
今の仕事に転職する前、木下斉さんのVoicyの生放送で相談したことがあります。
民間企業から公務員へ転職するにあたって、何に気をつければいいでしょうか。
そのとき返ってきた言葉の一つが、「役所に染まるな」でした。
この言葉がずっと頭に残っています。
実際に霞ヶ関で働き始めると、「ああ、こういうことなのかもしれない」と感じる瞬間があります。
もちろん、役所の仕事を全否定するつもりは無く、実際に中に入ってみると、外から見ていたときには分からなかった仕事もたくさんあります。国会対応もあれば、省庁間の調整もある。公文書として残す以上、一つひとつの言葉を慎重に選ばなければならない理由も分かるようになりました。
それでも時々、「民間にいた頃の自分だったら、これをどう見ただろう」と民間人おだわらは考えます。
木下さんからもらった「役所に染まるな」という言葉は、そんなときに自分を良い意味で元の場所へ戻してくれます。今の自分は、「民間人おだわら」の感覚を持っているだろうかと。
先日、木下さんのnote「地域貢献は、認定されるものではない。本業で実現されるもの」を読みました。非常に刺さる記事でした。
中でも印象に残ったのは、地域ですでに事業を成立させている企業に対して、行政が後から新しい名前をつけ、計画をつくらせ、指標を設定させ、成果を測らせ、レポートを書かせ、さらには他地域へのノウハウ移転まで求めていくという話です。
地方の経営者は、営業もしなければならないし、現場にも出なければならない。資金繰りを考え、人を採用し、日々起きる問題にも対応しなければなりません。
その限られた時間を、行政のための仕事に使わせて、本当にその企業、地域は強くなるのでしょうか。
木下さんも、こうした作業によって民間のリソースが本業から奪われ、民間の成長そのものが遅れる可能性を指摘しています。
読んでいて、霞ヶ関で日々行われている仕事のことを思いました。
霞ヶ関では「言葉」が仕事になる
私はある政府の基本文書の作成に携わりました。
複数の府省庁が連携してつくる文書で、私は自分の省庁の窓口として、省内の調整や決裁、関係省庁との調整を担当しました。
最終的に掲載された私の担当部分は、わずか2~3行です。
でも、その2~3行を決めるのに3か月かかりました。
他省庁が何を書くのか、既存の政策と整合しているか、予算上そこまで書いてよいのか、永田町からどう見えるのか。「推進する」のか「強化する」のか。一見するとほとんど同じように見える言葉でも、行政の中では意味が違います。
一つの表現を変えるために何人もの人が確認し、修正し、また上に説明して決裁する。その過程で、別の省庁から「その施策の予算を認めた覚えはない」と言われることもあります。そうなれば、また文章を直します。
そんなやり取りを何度も繰り返して、数行の文章が出来上がります。
やりながら「そんな仕事は全部無駄だ」と民間人おだわらは感じたことがありますが、行政マンおだわらとしては、「政府の基本文書として残れば、その一言が後の政策や予算、行政解釈に影響を与えることがあるので、公文書である以上、言葉を慎重に選ぶ必要がある」と思うのです。
ただ、民間企業から役所に来た人間としては、どうしても思ってしまいます。
ここまでの時間と人を使う必要があるのだろうか。
そして、それ以上に気になることがあります。
役所の中では合理性があるこの仕事の作法を、そのまま民間企業にも求めてしまってはいないでしょうか。
行政にとって必要な仕事と、企業にとって必要な仕事は違う
行政にとっては、政策の目的を言語化し、指標をつくり、説明資料をまとめ、関係者との合意を形成することが大切です。
それは行政の仕事だからです。
でも、企業にとって必要な仕事は少し違います。
企業は、商品やサービスをつくり、お客さんと向き合いながら改善を重ね、売上をつくっていきます。その売上で人を雇い、給料を払い、設備を維持し、納税し、次の投資につなげていく。そうやって事業を続けていきます。
特に地域の中小企業では、社長自身がそのほとんどを担っていることも珍しくありません。
そこへ行政から、地域の将来像を整理してほしい、ロジックモデルをつくってほしい、成果指標を設定してほしい、効果を測定してほしい、さらに成果を他地域にも横展開してほしい、といった仕事が次々と加わっていく。
行政からすれば「支援」のつもりなのかもしれませんが、地域企業から見れば、本来お客さんや商品、現場に向けるはずだった時間を、行政のために振り向けることになります。
木下さんの記事を読みながら、そこに自分が霞ヶ関で感じてきた違和感が重なりました。
霞ヶ関の仕事の作法を、そのまま地域に降ろしてはいけないのではないか。
そんなことを思います。
「それは業者にやってもらえばいい」
もう一つ、役所に入ってから違和感を持った言葉があります。
「業者」です。
「そんなの業者に任せればいい」「そこは業者にやってもらって、自分たちは別の仕事をする」といった言葉を毎日聞きます。毎日です。
「業者」という言葉を使っている人たちに悪意はないと思います。
それでも民間から入った私は、その言葉に時々、発注する側と受注する側の距離や壁を感じます。
役所が上で、民間が下。
官尊民卑
そこまで意識して使っている人は、おそらくほとんどいないでしょう。それでも、そういう関係性が無意識のうちに出来上がっているように感じることがあります。
本来、技術職であれば、自分の専門性を活かして配置計画を考えたり、修繕計画をつくったり、現場を見たりする仕事があるはずです。
ところが、そうした専門的な仕事を外部に委託し、役所側は契約や決裁、予算、説明資料、議員対応といった事務仕事に多くの時間を使う。そして専門的なことが必要になると、「業者に聞こう」となる。
専門的な能力を持った民間企業と仕事をすることは当然必要ですし、すべてを行政が内製する必要もありませんが、外部に仕事を頼むことと、自分たちまで「つくる側」から降りてしまうことは違うと思うのです。
法律や規則で決められた行政事務やシステムを介在せずに人の手と目でダブルチェックをする作業ばかりが肥大化して、本来、魂を込めてやり抜かねばならないことにリソースを投入できていない。
なにかそんなことを考えているうちに、一つの仮説を持つようになりました。
霞ヶ関は「消費者」になっていないか
東京で生活していると、お金を払えば大抵のものが手に入ります。
食事も、移動も、物も、情報も、専門的なサービスもそうです。欲しいものがあれば、お金を払う。すると、誰かが提供してくれる。
あまりにもそれが当たり前なので、行政もどこか同じような感覚になってはいないだろうかと思うことがあります。
地域に課題が見つかれば、予算をつける。事業者を公募し、委託や補助を行い、最後に成果物や実績報告を受け取る。
実際の行政の仕事はそんなに単純ではありませんが、それでも、この仕組みの中に長くいることで、知らず知らずのうちに、「お金を出せば、必要な成果も手に入る」という感覚になってしまう危険はないでしょうか。
私はそれを「行政の消費者思考」と呼んでみたいと思います。
自分たちで商品やサービスをつくる苦労から離れるほど、そのサービスが成立するまでに、どれだけの人が動き、どれだけの時間を使い、どれだけのリスクを負っているのかが見えにくくなります。
すると、どうしても価格の絶対額に目が向きます。
そして「もっと安くできないのか」という話になっていく。
民間は、本当に「儲けすぎ」なのか
PPP/PFIの仕事でも、似たような違和感を感じたことがあります。
長期にわたって施設を維持管理・運営する民間企業に対して、「あの会社はこの事業でかなり儲けた」という話を耳にすることがあります。
でも、私は以前金融の仕事をしていたこともあって、その言葉を聞くと引っかかります。
例えば20年間の事業なら、その20年間に何が起こるかを契約時点ですべて正確に予測することなどできません。
物価や人件費は変わります。災害が起きることもあれば、社会情勢が大きく変わることもあります。その中で、事業者は様々なリスクと闘いながら契約したサービスを長期間にわたって提供し続けます。
民間企業は、発注者には見えないところで相当「泣いている」こともあるのではないかと思います。
しかも、従来型の維持管理とPFIによる維持管理では、そもそも行っていることの水準が違う場合があります。
壊れてから最低限直す事後保全と、長期的な視点で施設の状態を維持する予防保全では、同じ「維持管理費」と言っても中身は同じではありません。
予防保全によってライフサイクルコストを抑え、施設を良い状態で長く使えるのであれば、単年度の支出額だけを比べて「昔より高い」「企業が儲けている」と評価するのは違うのではないかと思います。
さらに、その結果として長期間仕事を担ってきた企業から、「もうこの発注者の仕事はやりたくない」と思われてしまったらどうでしょう。
これは、かなり大きな問題です。
人手不足や物価上昇が進む中、民間企業にも仕事を選ぶ余地が生まれています。公共工事や公共サービスでも、発注しても応札者が集まらないということが起こっています。
これまで行政は、「どの民間企業に仕事を任せるか」を選ぶ側だと思ってきました。
でも、これからは逆なのかもしれません。
行政も民間から選ばれる側になる。
行政が「いかに安く買うか」ばかりを考えていたら、そもそもその価格では仕事を引き受けてくれる人がいなくなる。
そんな時代に入りつつあるように感じます。
行政と民間の間にある壁
同じ職場の上司が関わった、ある施設整備の写真を見せてもらったことがあります。
発注者、設計者、施工者、工事監理者、庭師、警備員など、関係した人たちが完成した施設の前で一緒に笑っていました。
話を聞くと、設計図通りにつくって終わりではなかったそうです。現場を見ながら、「ここはこうした方がいい」「この材料を使ってみよう」と皆で考え、走りながら改善していった。
上司が散歩中に見つけた石が、最終的に庭に使われたという話までありました。
もちろん、ずっと仲良く仕事をしていたわけではないと思います。意見がぶつかったことも、うまくいかないこともあったはずです。
竣工時の写真に写った皆さんの表情を見ていると、その過程まで何となく伝わってくるようでした。
私は、こういう関係が好きです。
「発注者」と「業者」という関係だけではなく、一つのものをつくるパートナーになる。
行政も現場に出て、民間と一緒に考える。民間も行政を単なる「御上」「お客様」として扱うのではなく、同じ目的を持つ相手として率直に意見を言う。
時にはぶつかりながら、それでも一緒に手を動かしていく。
きれい事かも知れませんが、公民連携とは、本来そういうものではないかと思っています。
「公共」とは何だろう
木下さんの記事を読みながら、自分が霞ヶ関で感じてきたことをつなげて考えていると、そもそも公共とは、行政が税金を使って提供するものなのだろうかという一つの問いに行き着きました。
これから人口は減っていきます。働く人も減り、社会全体が少しずつ縮小していく。
そんな中で、これまでの人口増加社会と同じように行政が何でも「公共サービス」として提供し続けることはできるのでしょうか。
そしてもう一つ。
民間企業が利益を出すことと、公共の利益を実現することは、本当に反対側にあるのでしょうか。
私は、そうではなく、むしろ、これからの縮小社会では、この二つをもう一度つなぎ直さなければ、社会そのものが回らなくなるのではないか。
そのことを、後編で考えてみたいと思います。
民間でも、公共はできる。
そして私自身も、少しずつ「公共を提供してもらう側」ではなく、自分で公共をつくる側について考えるようになっています。
――後編へ続く
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