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映画『バックルームズ』とEverywhere at the End of Timeのつながり

9/4、公開日当日に『バックルームズ』を観てきた。

映画『バックルームズ』を語るためにはまず、その原点となった『バックルームズ』について説明する必要があるだろう。

その起源は2019年。匿名掲示板4chanに投稿された、黄色い壁紙と蛍光灯に照らされた無人の空間の画像だった。

これがバックルームズの原点

どこまでも続いていそうな、何の変哲もない部屋。
見覚えがあるような気がするのに、実際にはどこなのかわからない。
そこには人の姿もなければ、何かが起きているわけでもない。

なのに、妙に不安になる。

この奇妙な感覚を伴う空間は「バックルームズ」と呼ばれ、やがてインターネット上で独自の世界観を形成していくことになる。

そして2022年、当時16歳だったケイン・パーソンズが、このミームから着想を得た短編ホラー『The Backrooms (Found Footage)』をYouTubeに投稿した。

今回公開された映画『バックルームズ』は、そのケイン・パーソンズが監督を務めた長編映画である。

観終わった感想としては「これは好きな人はとことん好きだろうし、嫌いな人はとことん嫌いだろうな」ということだった。

感覚としては『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999)に近い。

何が起きているのか。
なぜこんな空間が存在するのか。
そして、この不気味に連続する部屋たちは一体何なのか。

映画を観ていても、その答えはほとんど与えられない。

ラストも含めて解釈の余地が非常に大きく、10人が観れば10通りの考察が生まれるような作品だ。

そして私には、この映画を観ながらどうしても頭から離れない作品があった。

The Caretakerの『Everywhere at the End of Time』である。

バックルームズとは何だったのか

以前、「時の終わりのあらゆる場所」というタイトルで『Everywhere at the End of Time』についてレビューを書いたことがある。

詳しくはそちらを読んでもらいたいが、ざっくり説明すると、The Caretakerというアーティストが制作した、アルツハイマー病によって記憶が失われていく過程を音楽によって疑似体験する、全6時間半にも及ぶ作品だ。

Stage 1からStage 6までの6部作で構成され、序盤では比較的鮮明だった音楽が、進行するにつれて少しずつ崩壊していく。

旋律は歪み、ノイズに侵食され、断片化し、やがて元の形を保てなくなる。

それはまるで、記憶そのものが劣化し、失われていく過程のように設計されている音楽作品だ。

そんな『Everywhere at the End of Time』と『バックルームズ』。

映画を観終わったとき、私にはこの二つが偶然とは思えないほど強く結びついているように感じられた。

まず、非常に直接的な共通点が二つある。

一つは、バックルームズへの「入り口」だ。

主人公クラークは、自身が経営する家具屋の地下でバックルームズへの入り口を発見する。

一度そこへ足を踏み入れた彼は、その奇妙な空間に強く惹かれ、探索のために店の地下室とバックルームズを何度も行き来するようになる。

入り口は何の変哲もない壁に存在するため、クラークは場所を見失わないよう、その周囲をビニールテープで囲う。

その姿が、『Everywhere at the End of Time』Stage 6のカバーアートに酷似している。

似ている

そしてもう一つ。

劇中の重要なシーンにおいて『Everywhere at the End of Time』の「B1 - All That Follows Is True」が使用されている。

もちろん、この二つだけで作品全体を『Everywhere at the End of Time』と結びつけるのは早計かもしれない。

しかし、私が最も強いつながりを感じたのは、こうした直接的な引用以上に、両作品が扱っている「記憶」というテーマそのものだった。

ここから先は作品のテーマについて触れるため、これから何の情報も入れずに観たいという方は注意してほしい。

ただし、具体的なシーンの展開や結末については触れない。


「どこかで見たことがある」という恐怖

この映画におけるバックルームズは、明らかに「記憶」と結びついている。そして、ここで描かれる記憶は永遠に保存されるものではない。

劣化し、変容し、やがて失われていくものだ。

主人公クラークが最初に訪れる部屋には、大量の家具が山積みにされている。ほかにも、椅子やソファーで埋め尽くされた空間や、「Everything Must Go」と書かれた吊り下げ広告が登場する。

家具屋のオーナーであるクラーク――あるいはバックルームズへの入り口が存在する家具店そのもの――の記憶が、空間に何らかの形で影響を与えているように見える。

そして映画には、こうした明確な記憶だけではなく、もっと曖昧な空間が大量に登場する。

どこかで見たような住宅街。
どこかで見たようなクリスマスツリーのある部屋。
どこかで見たような間取り。
どこかで見たような、白いタイル張りのプール。
いつか高熱を出した夜に見た悪夢のような部屋。

どれも「知っている」気がする。
けれど、「どこで見たのか」と問われると答えられない。

この感覚こそ、リミナルスペースが持つ不気味さの正体なのだと思う。

記憶の中には残っている。
しかし、その出所が失われている。
あるいは、そもそも本当に見たことがあるのかさえわからない。
記憶が劣化する過程で複数の断片が混ざり合い、本来存在しなかった「偽物の記憶」が作り出されているのかもしれない。

そう考えると、バックルームズの無秩序に連続する空間は、単なる異世界ではない。それは、壊れかけた記憶の内部を歩いているようにも見えてくる。

人の記憶――スティル・ライフ

そして、そんな曖昧な記憶を「人」という存在に置き換えたものが、本作に登場するエンティティ「スティル・ライフ」なのではないだろうか。

いつか見た、あの人の顔。

目は細かっただろうか。
眉毛は薄かっただろうか。
髪はブロンドだった。
髭は……あっただろうか。

確かに知っている人のはずなのに、その顔を正確に思い出すことができない。そんな朧げな「人の記憶」を具現化した存在が、スティル・ライフなのだと私は思う。
本作のスティル・ライフは、人間のようでいて人間ではない。

感情もない。
意思があるのかどうかもわからない。
ただ、そこに「いる」。

顔は不気味に歪み、人ならざる姿をしている。
しかし、その異常さは遠くからではわからない。
近づいて初めて、「何かがおかしい」と気が付く。
目から入ってくる情報と、自分の記憶にある「人間」というイメージを照合した結果、辛うじて人として認識できてしまう程度の異常。

人間だと思っていた。
でも、よく見ると違う。

この微妙なズレが、恐ろしく気持ち悪い。
そしてそれは、映画全体を覆っている「記憶のズレ」と非常によく似ている。

人は自分の記憶を書き換える

興味深いのは、バックルームズという空間だけではない。
そこに足を踏み入れる登場人物たち自身もまた、記憶と向き合っている。

クラークは現実の問題に対して、「しかたなかった」「自分は悪くない」と、自分にとって都合の良い形へと解釈を変えている。
事実そのものを変えることはできない。
だからこそ、その事実に対する自分の記憶を変えようとする。
偽物の記憶を、本物の記憶にしようとしているようにすら見えた。

一方、もう一人の主人公メアリーはセラピストとして活動しているものの、自分自身が抱えるトラウマを解決する術を見つけられずにいる。
彼女もまた過去に囚われている。
ただしクラークとは違い、それを書き換えるのではなく、どうにか直視しながら生きている。
落ちたら二度と這い上がれない穴の縁を、ギリギリのところで歩いているような人物だ。

つまりこの映画では、バックルームズだけが記憶を扱っているわけではない。そこへ入り込む人間たちもまた、それぞれ異なる形で「過去」と「記憶」に囚われているのだ。

記憶は深く潜るほど壊れていく

そして、バックルームズを深く、さらに深く潜っていくにつれて、そこに存在するものは少しずつ劣化していく。

記憶のディテールは失われる。
情報量が減っていく。
失われた部分を埋めるように、偽物の記憶が入り込む。
そして最後には、元が何だったのかさえ判別できないほど抽象化されていく。

ふと、非常に鮮明な記憶が蘇ることがある。

あの場所だ。
あの時だ。
確かにこうだった。

しかし、よく見ると何かが違う。

細部が違う。
配置が違う。
知っているはずなのに、知らない。

そんな、輪郭のぼやけた不安が映画全編を通して漂っている。

ここまで来ると、私には『Everywhere at the End of Time』との類似を無視することができなかった。
『Everywhere at the End of Time』では、Stageが進むにつれて音楽が崩壊していく。『バックルームズ』では、深く潜るにつれて空間が崩壊していく。

片方は「音楽」を使い、もう片方は「空間」を使う。表現方法こそ違うものの、そこで起きていることはよく似ている。

記憶が変容し、劣化し、失われていく。
しかも一度失われたものは、二度と完全な形には戻らない。
その不可逆性である。

リミナルスペースやインターネットミームとしての「バックルームズ」という皮を被っているため、その主題は意図的に見えにくくされている。

けれど、その皮を一枚ずつ剥いでいくと、中心に残るのは「記憶」という非常に人間的なテーマなのではないだろうか。

記憶の変容と劣化。
失われていくディテール。
それを補完するために生まれる偽物の記憶。
そして、決して元には戻れないという不可逆性。

そう考えると私には、この映画がまるで、あの6時間半にも及ぶ『Everywhere at the End of Time』を「空間」と「映像」に置き換えた作品のように思えてならなかった。

『Everywhere at the End of Time』を映像化したもの。
それが、映画『バックルームズ』だったのではないか。
私はこの作品を観終えて、そんなことを考えていた。


とりとめのない考察になってしまったが、映画『バックルームズ』を観た方、そしてThe Caretakerの『Everywhere at the End of Time』を聴いたことがある方に、この二つの作品の奇妙なつながりを少しでも感じてもらえたなら幸いです。

作中でかかったEverywhere at the End of Timeの曲はこちら。


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