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うじきつよしは、なぜ「投票に行こう」という一般論ではなく政党名を挙げたのか

2026年2月8日、衆議院議員総選挙の投開票日を迎えた。その数日前、Xのタイムラインに一人のミュージシャンの投稿が流れてきた。「次は絶対に『自民党』に投票しないで下さい」

投稿の主は、うじきつよし。ロックバンド「子供ばんど」のボーカルであり、俳優やタレントとしても知られる彼は、さらに踏み込んだ。

「比例は『共産・れいわ・社民』のいずれかに」

政党名を挙げた。明確に。躊躇なく。

SNSは賛否で揺れた。「勇気ある発言」「はっきり言ってくれて貴重」という支持の声がある一方で、「押し付けに見える」「逆効果では」という批判も少なくなかった。うじきはれいわ新選組の街頭演説にも登壇し、さらに踏み込んだメッセージを発信した。

日本の音楽界で、誰も踏み込まなかった「一線」がある。

それは、政党名を挙げることだ。


「投票に行こう」と「この政党に投票して」の間にある深い溝

以前、私はこんな記事を書いた。

「投票に行こう」とすら言わない国で——日本の音楽と選挙の距離

日本の音楽家たちは、投票を呼びかけることすら避けてきた。それは「政治的」だとみなされ、ファンを失うリスクがあるからだ。海外のアーティストがSNSで当たり前のように「Vote!」と叫ぶのとは対照的に、日本では沈黙が「プロ意識」とされてきた。

しかし、うじきつよしは「投票に行こう」ですら留まらなかった。

彼は政党名を挙げた。

この違いは、どれほど大きいのだろうか。

「投票に行こう」は、形式的には中立だ。どの政党を選ぶかは個人の自由であり、投票参加そのものを促すだけなら、民主主義の理念に沿っている。多くの企業や公的機関も、選挙のたびに「投票に行こう」キャンペーンを展開する。それは安全で、誰も傷つけない。

だが、政党名を挙げた瞬間、その「安全性」は消える。

ファンの半分を敵に回すかもしれない。スポンサーが離れるかもしれない。メディアが扱いづらくなるかもしれない。事務所やレコード会社から止められるかもしれない。そして何より、「押し付けがましい」「傲慢だ」という批判に晒される。

日本の音楽界では、これが暗黙のタブーだった。

海外では違う。ブルース・スプリングスティーンは2004年の大統領選でジョン・ケリーを支持し、ツアーまで組んだ。彼は「Vote for Change」ツアーで全米を回り、明確に共和党政権への批判を歌った。それでもファンは離れなかった。むしろ、政治的メッセージを求める層が集まった。

U2のボノは政治家と対話し、政策提言を行ってきた。貧困撲滅や債務免除を訴え、G8サミットにも参加した。音楽活動と政治活動の境界が、彼の中には存在しない。

ビリー・アイリッシュは2020年にジョー・バイデンへの投票を呼びかけた。若い世代に向けて、気候変動や銃規制を語り、特定の候補者を支持することを躊躇しなかった。

政党名を挙げることは、彼らにとって表現の一部だった。リスクではなく、責任だった。

しかし、日本では「中立」という名の沈黙が、長らく「大人の振る舞い」とされてきた。音楽は娯楽であり、政治とは切り離されるべきだという暗黙の了解がある。それを破る者は、「空気を読めない」と見なされる。

うじきつよしは、その沈黙を破った。

うじきつよしという「例外」——なぜ彼は踏み込めたのか

うじきつよしは、突然、政治的発言を始めたわけではない。

子供ばんど時代から、彼の歌詞には社会への視線があった。2024年のインタビューでは、反戦や政権批判を歌やXで表現してきたことが語られている。2025年10月には、当時の高市早苗首相や米大統領来日をめぐる動きについても批判的な投稿をしていた。

彼の反戦意識には、深い背景がある。

父親は旧軍人で、戦後、戦犯として収監された。その記憶が、うじきの中に刻まれている。戦争を「遠い過去の話」として片付けることができない重みを、彼は背負ってきた。

68歳のキャリア。タレントや俳優としても活動してきた多角的な立ち位置。そして、失うものと得るものを計算した上での「覚悟」。

彼は、踏み込むことを選んだ。

だが、他の音楽家たちは違った。

高橋まことは、高市早苗首相のドラム演奏を批判した。しかし、彼は政党名を挙げなかった。政治家個人への批判に留め、政党への支持・不支持は表明しなかった。

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日本の音楽家たちは、それぞれの方法で「一線」を守ってきた。

うじきつよしは、その一線を越えた。

「踏み込み」がもたらすもの、もたらさないもの

彼の投稿は、日本の音楽界に何をもたらすのだろうか。

ひとつの可能性は、沈黙の壁に風穴を開けることだ。うじきの「踏み込み」を見て、他の音楽家が声を上げるかもしれない。「政党名を挙げても、終わりではない」という前例ができるかもしれない。

しかし、もうひとつの可能性もある。

うじきつよしは「例外」として消費され、他の音楽家たちは「やはりリスクが大きすぎる」と判断するかもしれない。

日本の芸能界には、「炎上」を恐れる文化が根強い。一度SNSで批判が集まれば、それが長く記憶され、仕事に影響する。うじきの投稿に対する「押し付けがましい」「逆効果」という批判は、他の音楽家にとって「やはり政党名を挙げるべきではない」という教訓として機能するかもしれない。

「うじきつよしだからできた」という言い方で、彼の行動は特殊化される。子供ばんどというキャリア、タレント・俳優としての多角的な立ち位置、父親の戦争体験という背景——それらが揃っていたから「例外的に」許された、と。

そうして、構造は温存される。

沈黙する音楽界の構造は、揺るがないかもしれない。

うじきつよしの「踏み込み」は、孤立した一点かもしれない。日本の音楽界全体を動かす起点にはならないかもしれない。

それでも、彼は踏み込んだ。

その事実だけが、残る。

ヌータローの視点

私は会社員として管理職を務め、週末にはギターを抱えてステージに立つ。投票には必ず行く。しかし、SNSで政治的な発言をしたことは一度もない。

うじきつよしの投稿を見たとき、正直に言えば、複雑な気持ちになった。

「勇気があるな」と思う一方で、「ここまで踏み込む必要があるのか?」とも感じた。政党名を挙げることで、対話の余地が狭まるのではないか。「投票に行こう」という呼びかけだけでも、十分に意味があるのではないか。

しかし、同時に思う。

「投票に行こう」では、何も変わらないのではないか、と。

日本の投票率は低い。特に若い世代ほど、選挙に行かない。「投票に行こう」という呼びかけが、どれほどの効果を持つのか。そもそも、その呼びかけすら、日本の音楽家たちは避けてきた。

うじきつよしは、その先に踏み込んだ。

「どこに投票するかは自由だ」という建前を超えて、「この政党に投票してほしい」と言った。それは確かに「押し付け」かもしれない。しかし、沈黙し続けることもまた、「現状への黙認」という形の意思表示ではないのか。

私自身、この連載で「音楽と政治」を書き続けている。しかし、私は特定の政党を支持していない。ヌータローという架空のペルソナを通じて、問いを投げかけているだけだ。

それは卑怯なのだろうか。

うじきつよしは、自分の名前で、自分の顔で、政党名を挙げた。彼は父親の戦争体験を背負い、反戦の思いを抱え、68年間生きてきた。その重みが、彼を「踏み込み」へと駆り立てたのだろう。

私には、その重みがない。

週末ミュージシャンとして、ステージで政党名を挙げることができるか?できない。観客の半分が席を立つかもしれない。次の出演機会がなくなるかもしれない。

だが、それは「リスク」の問題だけではない。

私には、うじきつよしほどの確信がない。

「この政党に投票すべきだ」と言い切れるほどの、確信が。

だから私は、問い続ける。答えを出さずに。

一線の向こうに何があるのか、誰も知らない

うじきつよしの「踏み込み」が照らし出したのは、日本の音楽界の現在地だ。

彼の発言は正しかったのか?効果があったのか?

その問いに、答えは出せない。

選挙結果がどうであれ、うじきつよしの投稿が何票を動かしたのかは、誰にもわからない。彼の発言に賛同した人もいれば、反発した人もいる。それは民主主義の当然の姿だ。

ただ、彼が「一線」を越えたという事実だけが残る。

その一線の向こうに何があるのか、誰も知らない。

他の音楽家が続くのか、うじきつよしだけが「例外」として記憶されるのか。

沈黙する音楽界が変わるのか、変わらないのか。

答えは、まだ出ていない。

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