「投票に行こう」とすら言わない国で——日本の音楽と選挙の距離
選挙当日の朝、投票所に行きました。
日曜日の朝8時過ぎ。近所の小学校。体育館に設置された投票所には、もう何人かの人が並んでいました。係員に投票用紙をもらい、記入台で候補者の名前を書き、投票箱に入れる。数分で終わる、いつもの儀式です。
その足でスタジオに向かいました。午後からバンドの練習がある。
メンバーと顔を合わせ、機材をセッティングする。ドラムのAが「おはよう」と言い、ベースのBが「今日は寒いね」と言う。誰も選挙の話をしない。「投票行った?」とも聞かない。私も聞かない。
3時間ほどリハーサルをして、近くの居酒屋で打ち上げ。生ビールで乾杯して、次のライブの話、新曲のアレンジの話、最近買った機材の話。いつもと同じ会話です。
店のテレビでは、開票速報が始まっていました。自民党圧勝の予測テロップが流れている。誰もそれについてコメントしない。私もしない。テレビはBGMのように流れ続け、私たちは音楽の話を続けました。
帰りの電車で、スマホを開きました。SNSには選挙の投稿が溢れている。当選確実の速報、喜びの声、落胆の声、政治への怒り、諦め。様々な感情が飛び交っている。
しかし、フォローしているミュージシャンたちのアカウントは静かでした。
新曲の告知、ライブの宣伝、日常のつぶやき、食事の写真。「投票に行こう」という呼びかけすら、ほとんど見当たらない。選挙があったことを、知らないかのような静けさ。
アメリカだったら、どうだろう。
テイラー・スウィフトが「投票に行きました」と写真を投稿するだろう。ブルース・スプリングスティーンが候補者の応援演説をするだろう。ビヨンセがSNSで立場を表明するだろう。賛否両論、大騒ぎになるだろう。
日本は、静かだった。
民主主義の根幹で、沈黙するミュージシャンたち
選挙は民主主義の根幹だ。
国民が代表を選び、政治の方向性を決める。最も重要な政治参加の機会。4年に一度、あるいは突然の解散で、私たちに与えられる「声」を届けるチャンス。それが選挙だ。
今回の衆議院選挙、投票率はどうだっただろうか。報道によれば、相変わらず低迷している。特に若い世代の投票率が低い。「政治に関心がない」「誰に入れても同じ」「自分の一票では何も変わらない」——そういう声が聞こえる。
影響力のあるミュージシャンが「投票に行こう」と呼びかければ、少しは変わるかもしれない。
若いファンが「あの人が言うなら、行ってみようかな」と思うかもしれない。「推し」が投票所に行った写真を上げれば、「自分も行こう」と思う人がいるかもしれない。
しかし、日本のミュージシャンたちは沈黙している。
誤解しないでほしい。特定の政党を支持しろと言っているのではない。「○○党に入れよう」と呼びかけろと言っているのではない。
「投票に行こう」——それだけでいいのだ。
政治的な立場を表明しなくても、民主主義への参加を呼びかけることはできるはずだ。右も左も関係ない。保守もリベラルも関係ない。「選挙に行って、あなたの一票を投じよう」——それは、民主主義を信じるすべての人が言えるはずの言葉だ。
なぜ、それすら言わないのか。
アメリカとの温度差——「Vote」という文化
比較として、アメリカの状況を見てみたい。
アメリカでは、セレブリティが「Vote(投票しよう)」と呼びかけることは当たり前の光景だ。
テイラー・スウィフトは、長年政治的発言を避けてきたことで知られていた。しかし2018年、中間選挙を前に沈黙を破り、民主党候補への支持を表明した。それ以前から、選挙のたびに「投票に行こう」とは発信していた。
2020年の大統領選挙では、投票所に行った自分の写真をInstagramに投稿した。「投票しました」というステッカーを貼った写真。それだけで大きなニュースになり、若者の投票登録が急増したと報じられた。
ビヨンセ、リアーナ、アリアナ・グランデ、ビリー・アイリッシュ——若者に人気のアーティストたちが、こぞって投票を呼びかける。選挙シーズンになると、SNSは「Vote」の投稿で埋め尽くされる。
「Rock the Vote」という団体がある。1990年に設立された非営利団体で、音楽業界と連携して若者の投票率向上に取り組んでいる。MTV、レコード会社、アーティストたちが協力し、「投票はクールだ」というメッセージを発信し続けてきた。
特定の候補者を支持する・しないは別として、「投票に行くこと」自体は、アメリカでは超党派的に良いこととされている。共和党支持者も民主党支持者も、「投票は市民の義務であり権利だ」という点では一致している。
日本とは、根本的に空気が違う。
日本ではなぜ言えないのか
日本では、「投票に行こう」という呼びかけすら、あまり見かけない。特定の政党を支持する発言は、さらに稀だ。
なぜだろうか。いくつかの理由が考えられる。
まず、「政治的発言=炎上リスク」という認識がある。
この連載の④で見た高橋まことの例が典型だ。政治的な発言をしたミュージシャンは、激しく叩かれる。「音楽に政治を持ち込むな」「黙って歌っていろ」という反発が来る。
「投票に行こう」だけでも、リスクがある。「なぜわざわざ言うのか」「特定の政党を支持しているのでは」「何か裏があるのでは」と勘ぐられる。何も言わないのが、一番安全だ。
次に、「公職選挙法」の縛りがある。
日本の公職選挙法は複雑で、何が許されて何が許されないのか、専門家でも判断が難しいことがある。選挙期間中の発言には様々な制約がある。「うっかり違反してしまうかも」という恐れが、発言を萎縮させている面がある。
アメリカにも選挙に関する法律はあるが、日本ほど細かい規制はない。「投票に行こう」という呼びかけは、完全に自由だ。
さらに、「政治的中立」という建前がある。
日本では、テレビ、新聞、公共の場——あらゆる場所で「政治的中立」が求められる。偏った発言をしてはいけない。どちらかの味方をしてはいけない。
ミュージシャンも、その空気の中にいる。メディアに出る以上、「中立でいなければならない」という圧力を感じている。結果として、何も言わないのが一番安全、ということになる。
「投票に行こう」は政治的発言か
考えてみれば、奇妙なことだ。
「投票に行こう」は、政治的な発言だろうか。
特定の政党を支持しているわけではない。「○○党に入れよう」と言っているわけではない。民主主義のプロセスに参加しよう、と言っているだけだ。
投票は権利であり、義務でもある。民主主義国家の市民として、選挙に参加することは当然のことだ。それを呼びかけることが、なぜ「政治的」なのか。
しかし、日本ではそれすら「政治的」と受け取られる。
「なぜわざわざ言うのか」「何か意図があるのでは」「特定の候補者に入れさせたいのでは」——そういう詮索が始まる。
発言した人は、意図を疑われる。「あの人は実は○○党支持なんだ」とレッテルを貼られる。ファンの一部が離れていくかもしれない。
だったら、何も言わない方がいい。余計なことは言わない。音楽だけをやっていればいい。
その計算が働く。
ファンを失いたくないという計算
ミュージシャンには、様々な政治的立場のファンがいる。
自民党支持者もいれば、野党支持者もいる。保守的な人もいれば、リベラルな人もいる。政治に強い関心を持つ人もいれば、まったく関心がない人もいる。
政治的な発言をすれば、どちらかのファンを怒らせる可能性がある。
「あの人は自民党支持なのか、がっかりだ」と言って離れていく人がいるかもしれない。逆に「野党を支持するなんて、見損なった」と言う人もいるかもしれない。
「投票に行こう」だけでも、反発を受ける可能性はある。「政治に興味ないのに、押し付けないでほしい」と思う人もいるだろう。
商業的に考えれば、沈黙が最も合理的だ。誰も怒らせない。誰も失望させない。音楽だけを楽しんでもらう。ファンとの関係を壊さない。
しかし、その計算は、民主主義にとってプラスなのだろうか。
影響力のある人が沈黙することで、「政治について語らないのが普通」という空気が強化される。若い世代は、「大人たちも政治の話をしないから、自分もしなくていい」と学ぶ。投票率は低いまま。政治への関心は薄いまま。
沈黙は、個人にとっては合理的でも、社会全体にとってはマイナスかもしれない。

忌野清志郎だったら
日本にも、選挙について声を上げたミュージシャンはいた。
忌野清志郎。
この連載で何度も名前を出してきた。やはり、彼のことを考えざるを得ない。
清志郎は「選挙に行こうぜ」と呼びかけていた。ライブのMCで、インタビューで、「投票に行け」と言っていた。政治的な立場を隠さなかった。批判されても、怯まなかった。
「サマータイムブルース」で原発を歌い、「君が代」をパンクでカバーし、言いたいことを言い続けた。それがロックだと信じていた。
清志郎が亡くなって、もう15年以上が経つ。
彼の後を継ぐ者は、どれだけいるだろうか。「選挙に行こうぜ」と呼びかけるミュージシャンは、今、何人いるだろうか。
探せばいるのかもしれない。しかし、メインストリームには見当たらない。若者に人気のアーティストが「投票に行こう」と言っている姿を、私はほとんど見たことがない。
清志郎の遺産は、引き継がれていない。少なくとも、広くは引き継がれていない。
海外アーティストなら許される?
来日する海外アーティストの中には、ステージ上で政治的な発言をする人もいる。
環境問題について語る。人権問題について語る。「この曲は、自由のために戦うすべての人に捧げる」と言う。
日本のファンは、それをどう受け止めるのか。
「さすが海外のアーティストは意識が高い」と感心する人もいる。「グローバルな視点を持っている」と尊敬する人もいる。
一方で、「音楽に集中してほしかった」と不満を漏らす人もいる。「政治の話は要らない」と言う人もいる。
しかし、海外アーティストの場合、激しい「炎上」にはなりにくい。「外国人だから」「文化が違うから」という免責がある。
同じ発言を日本のアーティストがしたら、どうなるだろうか。
おそらく、もっと激しい反発を受ける。「日本のことを分かっていない」「偉そうに」「黙って歌え」——そういう声が殺到するだろう。
「海外アーティストなら許されるが、日本人がやると叩かれる」——そういう二重基準がある。それは、日本社会の「政治を語るな」という圧力の強さを示している。
「和を乱さない」という文化
日本には「和を乱さない」という文化がある。
空気を読む。波風を立てない。みんなと同じでいる。異なる意見を持っていても、表に出さない。対立を避ける。調和を重んじる。
政治の話は、和を乱す。意見が分かれる。対立が生まれる。場の雰囲気が悪くなる。だから、政治の話はしない。
飲み会で政治の話をすると、空気が重くなる。「そういう話はやめようよ」と言われる。選挙の話題も同じだ。誰に投票したかなんて、聞かないのがマナーだとされている。
ミュージシャンも、その文化の中にいる。
ファンとの「和」を大切にする。ライブの楽しい雰囲気を壊したくない。対立を生むような発言は避ける。政治の話は、しない。
それが「大人の態度」だとされている。
「お上に任せる」感覚
もうひとつ、日本には「お上に任せる」という感覚がある。
政治は政治家がやること。選挙は関心のある人が行くもの。自分たちは関係ない。誰が当選しても、生活はそれほど変わらない。だから、わざわざ声を上げる必要はない。
この感覚が、投票率の低さにもつながっている。
「どうせ変わらない」「自分の一票では何も変わらない」「政治家は誰も信用できない」——そういう諦めが、投票所に足を運ばない理由になっている。
ミュージシャンの沈黙も、この感覚と無関係ではないだろう。
「自分が何か言っても、変わらない」「政治は自分の領域ではない」「音楽をやっていればいい」——そういう感覚が、沈黙を正当化している。
58歳の私は、何を言えるのか
今回の選挙、私は投票に行きました。
朝、近所の小学校に行って、投票用紙をもらって、名前を書いて、箱に入れて。数分で終わる、いつもの儀式です。
誰に入れたかは、言いません。
それが「大人の態度」だと思ってきました。政治的立場は個人的なもの。人に言う必要はない。聞かれても答えない。それがマナーだと。
でも、この連載を書きながら、少し考えが変わってきました。
「言わない」ことは、本当に中立なのだろうか。
投票に行ったことすら言わない。「投票に行こう」とも言わない。それは「中立」ではなく、「沈黙」ではないのか。
沈黙は、現状維持に加担することかもしれません。投票率が低いままでいい、と言っているのと同じかもしれない。「政治の話はしない」という空気を、自分も強化しているのかもしれない。
何も言わないことで、何かを言っているのかもしれない。
私はライブのMCで、一度も「投票に行きましょう」と言ったことがありません。
言おうと思ったことはあります。選挙前のライブで、「明日は選挙ですね、投票に行きましょうね」と一言だけ言おうかな、と。
でも、言えませんでした。
なぜか。
「政治の話をするな」と思われるのが怖かった。「音楽に集中しろ」と言われるのが怖かった。せっかくの楽しい雰囲気を壊したくなかった。お客さんの中に、政治の話を嫌う人がいるかもしれないと思った。
結局、私も「空気を読んで」いたんです。
58歳になって、ライブ経験も積んで、それでもまだ「空気を読む」ことから自由になれない。情けないと思います。
でも、正直なところ、次のライブでも言えないと思います。「投票に行きましょう」という一言すら。
それは私の弱さです。言い訳はしません。
ただ、「言えない自分」を自覚しておきたいとは思います。沈黙していることを、「当たり前」だと思わないでいたい。本当は言った方がいいのかもしれない、でも言えない——その葛藤を、なかったことにしたくない。
忌野清志郎だったら、何と言うでしょうか。
「何をビビってんだよ。言いたいことがあるなら言えよ。それがロックだろ」
そう言われる気がします。
清志郎さん、すみません。私にはまだ、その勇気がありません。

沈黙の意味を、もう一度
選挙が終わった。
結果は出た。この国の民主主義が、ひとつの形を示した。
この選挙期間中、日本のミュージシャンたちは何を語っただろうか。
ほとんど何も語らなかった。「投票に行こう」という呼びかけすら、メインストリームからはほとんど聞こえてこなかった。
それを「怠慢」と言うこともできる。影響力のある人間が、民主主義のために声を上げなかった。若いファンに投票を促すこともしなかった。投票率の低さに、間接的に加担した。
それを「賢明」と言うこともできる。政治に首を突っ込んで炎上するリスクを避けた。音楽に集中した。ファンとの関係を壊さなかった。余計なことを言わなかった。
どちらが正しいか、私には分からない。
私自身が「言えない側」にいる以上、他人を批判する資格はない。
ただ、こうは言える。
沈黙には意味がある。
何も言わないことは、何かを言っていることだ。「政治の話はしない」という選択は、「政治の話をしなくていい」という空気を強化する。「投票に行こう」と言わないことは、「投票に行かなくてもいい」というメッセージになりうる。
この連載で、何度も「沈黙」について考えてきた。
「高市早苗という「変化」を、なぜ誰も歌わないのか」で日本のミュージシャンが高市首相の誕生に沈黙したことを見た。「高橋まことは、なぜ炎上したのか——「語る」と「黙る」の境界線」で沈黙を破った高橋まことの炎上を見た。「クラプトンもペイジも、政治を語らなかった——ギターヒーローの沈黙」でギターヒーローたちの沈黙の意味を考えた。
今回、選挙という具体的な場面で、改めて沈黙について考えた。
「投票に行こう」——たったこれだけの言葉すら、言えない空気がある。
その空気を作っているのは誰だろうか。ミュージシャンだろうか。ファンだろうか。メディアだろうか。社会全体だろうか。
たぶん、全員だ。私たち全員が、その空気を作り、その空気の中で生きている。
変えることはできるのだろうか。
分からない。でも、「変えられないから仕方ない」と諦めるのは、また別の沈黙だ。
答えは出ない。
ただ、問いだけは残しておきたい。
あなたは、投票に行きましたか。
ミュージシャンは「投票に行こう」と呼びかけるべきだと思いますか。
それとも、沈黙で良いと思いますか。
その問いを、静かに置いて、この文章を終えたいと思います。
