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高市早苗という「変化」を、なぜ誰も歌わないのか

高市早苗が首相に就任した日のことを、覚えています。

夕方、仕事から帰ってテレビをつけたら、就任会見が流れていました。スーツ姿の高市首相が、記者たちの前で所信を述べている。隣で夕食の準備をしていた妻が、ふと顔を上げて言いました。

「女性初なんだね」

「そうだね」

私はそう答えました。それだけでした。

テレビを見ながら、何か特別な感慨があるかと自分に問いかけてみました。歴史的な日だ、とは思う。日本初の女性首相。私が生きている間にこの日が来るとは、正直、思っていなかった。

でも、それ以上の感情が湧いてこない。嬉しいのか、そうでもないのか。支持するのか、しないのか。自分でもよく分からなかった。

その夜、ライブハウスで音楽仲間と飲む約束がありました。

いつものメンバー、いつもの店。小さなテーブルを囲んで、5人で生ビールを飲みながら話す。新しい機材の話、次のライブの日程、誰それのバンドが解散したらしいという噂話。いつもと同じ会話でした。

誰も高市首相の話をしなかった。

私も話を振らなかった。

帰りの電車で、ぼんやり考えていました。今日、日本の歴史が変わったはずだ。でも、誰もそのことについて話さなかった。音楽仲間たちは、何を思っているんだろう。私自身、何を思っているんだろう。

もしアメリカで初の女性大統領が誕生したら、どうなるだろう。レディー・ガガが歌を作るかもしれない。ブルース・スプリングスティーンがコメントを出すかもしれない。テイラー・スウィフトがSNSで立場を表明するだろう。賛否両論、大騒ぎになるに違いない。

日本では、静かだった。

祝福の歌も、批判の歌も、聞こえてこなかった。それは良いことなのか、悪いことなのか。私には分からなかった。


歴史的な日の、奇妙な静けさ

日本初の女性首相が誕生した。

歴史の教科書に載る出来事のはずだ。明治以来、150年以上にわたって男性だけが占めてきた地位に、初めて女性が就いた。どんな政治的立場であれ、賛成にせよ反対にせよ、何らかの反応があってもおかしくない出来事だった。

しかし、音楽シーンからは——ほとんど何も聞こえてこなかった。

祝福の歌はなかった。「ついに時代が変わった」と高らかに歌う者はいなかった。

批判の歌もなかった。「こんな政治は間違っている」と拳を突き上げる者もいなかった。

SNSでは様々な意見が飛び交った。支持する人、批判する人、冷笑する人、無関心な人。言葉は溢れていた。しかし、それが「歌」になることはなかった。メロディを持った言葉として、誰かの声で届けられることはなかった。

なぜだろうか。

日本のミュージシャンたちは、なぜ沈黙したのか。それは「成熟」なのか、「無関心」なのか、それとも別の理由があるのか。

海外アーティストたちの「距離感」

比較として、海外の状況を見てみたい。

アメリカでは、アーティストが政治的立場を表明することは珍しくない。

テイラー・スウィフトは2018年、長年の沈黙を破って民主党支持を公言した。彼女のInstagramの投稿は大きな反響を呼び、投票登録者数が急増したと言われている。

ブルース・スプリングスティーンは、何十年にもわたって労働者階級の声を歌い、民主党の選挙キャンペーンでパフォーマンスを行ってきた。彼の音楽と政治的立場は、切り離せないものになっている。

ビヨンセはオバマ大統領の就任式で国歌を歌い、黒人としての誇りと政治的メッセージを作品に込め続けてきた。

イギリスでも同様だ。ザ・スミスのモリッシーは、物議を醸す政治的発言で知られている。レディオヘッドのトム・ヨークは、環境問題や政治について積極的に発言する。

彼らは批判も受ける。「音楽に政治を持ち込むな」という声は、海外にもある。「お前の意見なんか聞いていない」「黙って歌っていろ」——そういう反発は常にある。

しかし、それでも彼らは発言する。賛同者もいれば反対者もいる。議論が起きる。それがひとつの文化になっている。

日本のミュージシャンと政治の「壁」

日本では事情が異なる。

政治的な発言をするミュージシャンは少数派だ。いないわけではない。坂本龍一は反原発を訴え、社会問題について積極的に発言した。忌野清志郎は原発や天皇制についての歌を作り、放送禁止になったこともある。

しかし、彼らのような存在は例外的だ。主流のミュージシャンたちは、政治について沈黙を守ることが多い。

その理由はいくつか考えられる。

ひとつは、商業的なリスクだ。政治的発言は「炎上」を招く可能性がある。右でも左でも、どちらかの立場を取れば、反対側のファンを失うかもしれない。レコード会社やスポンサーとの関係も悪化するかもしれない。

テレビ出演が減るかもしれない。CM起用が見送られるかもしれない。音楽で食べていくために、政治的なリスクは避けたい——そう考えるのは、ある意味で合理的だ。

もうひとつは、日本社会の空気だ。政治の話は「場を荒らす」と思われている。

飲み会で政治の話をすると、空気が重くなる。「そういう話はやめようよ」と言われる。支持政党が違う人がいるかもしれない。口論になるかもしれない。だから、政治の話は避ける。それが「大人の付き合い」だとされている。

音楽の場に政治を持ち込むことへの抵抗感も強い。「ライブを楽しみに来たのに、なんで政治の話を聞かされなきゃいけないんだ」——そう思う観客もいる。アーティスト側も、その空気を読む。

「高市早苗」を歌うことの難しさ

高市早苗という存在には、もうひとつの複雑さがある。

彼女は「女性初の首相」だ。それは事実だ。ガラスの天井を破った、と言うこともできる。女性がこの国のトップに立てるということを示した、とも言える。

しかし、彼女はフェミニストから支持されているわけではない。保守的な政治家として知られ、その政策はリベラル派からは批判されることも多い。

ここに、アーティストたちのジレンマがある。

「女性初の首相、おめでとう」と歌えば、高市早苗の政治姿勢を支持していると受け取られかねない。

「高市早苗の政治は間違っている」と歌えば、女性が首相になることを批判しているように聞こえるかもしれない。

「女性初」という歴史的意義と、「高市早苗」という個人の政策は、本来は切り離して考えることができる。しかし、歌にするとき、その区別は曖昧になる。

立ち位置が難しい。どう歌っても、どこかから批判される。だから、歌わない方が安全だ。

沈黙が、最も合理的な選択肢になる。

「私には関係ない」という感覚

もうひとつ、考えてみたいことがある。

多くの人にとって、首相が誰であるかは、日常生活にそれほど大きな影響を与えない——という感覚があるのではないか。

税金は変わらず引かれる。仕事は変わらず続く。電車は変わらず走る。ライブハウスは変わらず営業する。スーパーの物価は、首相が誰であっても上がり続ける。

首相が男性から女性に変わっても、私の生活は劇的には変わらない。そういう感覚だ。

だから、歌にする動機がない。「私」の物語に、首相は登場しない。

前回の記事で、「女性シンガーたちは『私』を歌うことで戦っていた」と書いた。ジョニ・ミッチェルやキャロル・キングは、「社会」ではなく「私」を歌った。

日本のミュージシャンたちも、多くは「私」を歌っている。恋愛、青春、日常の喜びや悲しみ。J-POPの主流は、個人の感情だ。

「社会」を歌う言葉の蓄積が薄い。だから、社会的な出来事が起きても、それを歌にする言葉を持っていない。

これは批判ではない。「私」を歌うことの価値は、前回書いた通りだ。ただ、「社会」を歌う筋肉が鍛えられていない、という面はあるかもしれない。

沈黙という「態度」

ここで、ひとつ確認しておきたい。

私は「ミュージシャンは高市首相について歌うべきだった」とは言わない。沈黙が「間違っている」とも思わない。

歌うも歌わないも、アーティストの自由だ。政治について発言する義務は誰にもない。沈黙する権利もある。

ただ、沈黙が存在した、という事実は確認しておきたい。なぜ沈黙が生まれたのか、その構造は考えてみたい。

そして、もうひとつ確認しておきたいことがある。

沈黙は中立ではない。

「何も言わない」ということは、「意見がない」ということではない。「言わないことを選んだ」ということだ。

商業的リスクを避けるために黙る。場の空気を壊さないために黙る。面倒なことに巻き込まれたくないから黙る。それらはすべて、「黙ることを選んだ」ということだ。

その選択自体を批判するつもりはない。私自身、同じ選択をしているからだ。

ただ、「黙ることにも意味がある」ということは、意識しておきたい。

日本人と「様子見」の文化

日本人は、変化に対してすぐには反応しない傾向があるかもしれない。

新しいことが起きたとき、まず様子を見る。良いか悪いか、判断を保留する。周りの反応を見る。空気を読む。すぐに賛成したり反対したりすることは、軽率だと感じる。

高市首相の誕生も、そうだったのではないか。

「女性初」という事実は認識している。歴史的なことだとは分かっている。しかし、それをどう評価していいのか、すぐには分からない。まず様子を見よう。他の人がどう言うか、見てみよう。

そうこうしているうちに、時間が経つ。話題が古くなる。今さら歌にするタイミングでもない。結局、何も言わないまま終わる。

これは「慎重さ」とも言えるし、「優柔不断」とも言える。どちらの見方も成り立つ。

逆に、批判することへの躊躇もある。

日本では、誰かを名指しで批判することは「攻撃的」と見なされやすい。特に、就任直後の人物を批判することは、「まだ何もしていないのに」と言われる。「とりあえずお手並み拝見」という態度が求められる。

結果として、祝福も批判もできない。判断を保留する。黙って見守る。それが「大人の対応」とされる。

私自身のこと

正直に言うと、私自身、高市首相の誕生をどう受け止めていいか、分かりませんでした。

テレビで就任会見を見ながら、「歴史的な日だな」とは思いました。でも、それ以上の感情が湧いてこなかった。支持するのか、しないのか。嬉しいのか、そうでもないのか。自分の中に、はっきりした気持ちがなかった。

その夜、ライブハウスで音楽仲間と飲みました。

誰も首相の話をしなかった。私も話を振らなかった。

なぜだろう、と今になって考えます。

たぶん、「政治の話をすると面倒なことになる」と思っていたんでしょう。仲間の中には、いろんな考えの人がいます。高市さんを支持する人もいるかもしれないし、批判的な人もいるかもしれない。自民党支持の人もいれば、野党支持の人もいるかもしれない。

その話を始めたら、場の空気が変わってしまう。楽しい飲み会が、気まずい議論になるかもしれない。

だから、黙っていた。みんな、黙っていた。

これが「大人の付き合い」なんだと思います。政治の話はしない。宗教の話もしない。プロ野球の話は……まあ、するけれど、あまり熱くなりすぎない。そうやって、関係を壊さないようにしている。

でも、ふと思うんです。

それでいいのだろうか、と。

アメリカのミュージシャンが選挙について歌うとき、彼らは何かを賭けています。ファンの一部を失うかもしれない。批判を浴びるかもしれない。CMの仕事がなくなるかもしれない。それでも、自分の意見を表明する。

ブルース・スプリングスティーンは、自分の音楽と政治的立場を一体のものとして引き受けている。それに反発する人もいる。でも、彼はそれを覚悟の上でやっている。

私にはそれができません。いや、できないというより、「しない」ことを選んでいます。

58歳のミュージシャンとして、何百回とライブをしてきました。でも、政治について歌ったことはほとんどありません。MCで政治の話をしたこともない。お客さんに「選挙に行きましょう」と言ったことすらない。

それは「賢明な選択」だったのかもしれません。余計なトラブルを避け、音楽に集中する。お客さんを楽しませることに専念する。それはそれで、ひとつの生き方です。

でも、「何も言わないこと」にも意味がある、ということは覚えておきたいと思います。

沈黙は中立ではない。沈黙もまた、ひとつの態度表明なんです。

私は高市首相について歌を書くつもりはありません。書けないし、書く言葉も持っていない。政治的な立場を音楽で表明する訓練を、私は積んでこなかった。

ただ、「書かなかった」という事実は、心に留めておこうと思います。それは「書けなかった」のか「書かないことを選んだ」のか。その違いは、自分でも分かりません。

三つの記事を振り返って

この連載で、三つのことを書いてきた。

最初の記事で、「イマジン」は世界を変えられなかった、と書いた。ジョン・レノンの祈りは本物だった。しかし、届いたかどうかは分からない。想像することと行動することの間には、深くて広い川がある。

【関連記事】
「イマジン」が世界を変えられなかった理由——ジョン・レノンの祈りは何処へ

二番目の記事で、女性シンガーたちは「私」を歌うことで戦っていた、と書いた。ジョニ・ミッチェルやキャロル・キングは、社会を告発しなかった。しかし、彼女たちは逃げていたわけではない。「私」を語ることで、別の戦場で戦っていた。

【関連記事】
ジョニ・ミッチェルは社会を告発しなかった——それでも彼女は戦っていた

三番目の今回、日本のミュージシャンたちは高市首相の誕生に対して沈黙した、と書いた。祝福も批判もなかった。それは商業的リスク、社会の空気、「私」を歌う伝統——いくつもの要因が重なった結果だった。

この三つは、どこかでつながっている気がする。

「歌うこと」と「歌わないこと」。「社会」と「私」。「世界を変える」と「変わらない」。

ジョン・レノンは世界を変えようとして、「イマジン」を歌った。しかし、世界は変わらなかった。

ジョニ・ミッチェルは世界を変えようとはしなかった。彼女は「私」を歌った。しかし、その歌は多くの人の心を変えた。

日本のミュージシャンたちは、どちらも選ばなかった。世界を変えようとする歌も、「私」の深みに降りていく歌も、今回の出来事に対しては生まれなかった。

それを批判することは簡単だ。「何も言わないなんて、情けない」と言うことはできる。

しかし、私自身がその「何も言わない」側にいる以上、批判する資格はない。

問いを残して

高市早苗という「変化」を、誰も歌わなかった。

日本初の女性首相という歴史的な出来事に対して、日本の音楽シーンは沈黙で応えた。祝福の歌も、批判の歌も、生まれなかった。

それを「怠慢」と呼ぶこともできるだろう。社会の変化に反応しない音楽に、何の意味があるのか。アーティストには社会に対して声を上げる責任があるのではないか。そう批判することもできる。

それを「成熟」と呼ぶこともできるだろう。何でもかんでも歌にする必要はない。政治と音楽は別のものだ。距離を保つことが大人の態度だ。そう評価することもできる。

私には、どちらが正しいか分からない。

ただ、こうは言えると思います。

沈黙には理由がある。日本のミュージシャンたちが黙っていたのは、偶然ではない。構造的な理由がある。

そして、沈黙もまたひとつのメッセージだ。「何も言わない」ということは、「言うことがない」のではなく、「言わないことを選んだ」ということだ。

その選択の是非は、ここでは問わない。

ただ、問いだけは残しておきたい。

あなたは、高市首相の誕生をどう受け止めましたか。

誰かがそれを歌うべきだったと思いますか。

それとも、沈黙で良かったと思いますか。

もし誰かが歌を作ったとしたら、あなたはそれを聴きたいと思いますか。

その問いを、静かに置いて、この文章を終えたいと思います。

【関連文書】
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