キョンキョンではなく小泉今日子として——2万4千人の前で憲法9条を流した夜
導入「武道館・5月2日〜3日に起きたこと」
5月2日と3日、東京・九段下。日本武道館。
小泉今日子の還暦記念ツアー『KK60〜コイズミ記念館〜KYOKO KOIZUMI TOUR 2026』の、武道館公演。2日間で2万4千人が集まった。
開演前、ステージにDJが立った。名前は高木完。日本のヒップホップ黎明期から活動してきた音楽プロデューサーで、今回のツアーで小泉今日子の音楽的パートナーを務める人物だ。
高木完は、日本国憲法第9条の条文を朗読した。
ライブが始まり、やがて打ち出された銀テープには、赤い文字でこう書かれていた。
「戦争反対!! 平和な世界希望!!」
翌5月3日は、憲法記念日だった。
この出来事がSNSで広まったとき、賛否の声が交差した。「かっこよすぎる」という声と、「音楽に政治を持ち込むな」という声が、いつものように向き合った。
しかしぼくが気になったのは、そのどちらでもない。
小泉今日子は、なぜこの場所で、この形で、これをやったのか。
そして、なぜ「小泉今日子が朗読する」ではなく、「高木完が朗読する」という形を選んだのか。
その問いを、この記事で辿ってみたいと思う。
【関連コラム】
アイドルには黙っていろ、という国で——小泉今日子が語り続ける理由とは
Part1「キョンキョンの誕生」

①1982年・花の82年組という戦場
1982年という年に、一度立ち止まりたい。
この年に芸能界にデビューした女性アイドルの顔ぶれを並べると、あらためて圧倒される。中森明菜、堀ちえみ、松本伊代、早見優、石川秀美。そして小泉今日子。「花の82年組」と呼ばれたこの世代は、日本のアイドル史において特異な密度を持っている。
その頂点には、松田聖子と中森明菜がいた。
聖子は「完璧なアイドル」だった。歌唱力、ルックス、ブランド力。芸能界というシステムの中で、最高純度に磨き上げられた存在。明菜は「翳りのあるアイドル」だった。聖子の正反対にいることで逆に輝く、システムの外縁に立つ危うさ。
では、小泉今日子はどこにいたのか。
数字だけで言えば、第三位だ。1980年代のシングル総売上は、聖子・明菜に次ぐ位置にある。しかしぼくには、この「第三位」という評価が、ずっとしっくりこなかった。
聖子でも明菜でもない何かが、小泉今日子にはあった。
ぼくが15歳のとき、それが何かをうまく言葉にできなかった。しかし今になって思う。彼女が持っていたのは、アイドルというシステムに対する、微妙な距離感だったのではないか。
中に入りながら、どこか一歩引いている。消費されながら、消費されることを内側から眺めている——そういう目を、最初から持っていた人間だったのではないか、と。
②「なんてったってアイドル」——自称と解体
1985年。17枚目シングル「なんてったってアイドル」。
「私はアイドル」と堂々と歌い上げた、この曲の奇妙さを、当時のぼくは直感的に感じていた。
アイドルが「私はアイドル」と歌う。それは何かがおかしい。「私は人間です」と人間が歌わないように、カテゴリーの内側にいる者が自分のカテゴリーを宣言することは、通常は起きない。
起きるとしたら——それは、そのカテゴリーを外側から見ている者が、あえて内側に戻ってきたときだ。
作詞した秋元康は「アイドルであることを楽しむ、新時代のアイドルの形を創り出した」と語っている。しかしぼくには、この曲は「アイドルを楽しむ」よりも、「アイドルという記号を一段高いところから扱う」という態度に見えた。
同じ1985年、小泉今日子は自分の判断でショートカットにした。他のアイドルが横並びで守っていた「聖子ちゃんカット」を、自ら捨てた。事務所の指示ではなく、本人の決断で。
「私はアイドル」と宣言しながら、アイドルの記号をひとつ手放した。
この矛盾が、彼女の本質にあったのだと思う。
③KOIZUMIX PRODUCTIONと近田春夫——1989年の実験
1989年。アルバム『KOIZUMI IN THE HOUSE』。
プロデュースは近田春夫。当時の邦楽シーンではまだマイナーだったハウスミュージックを、メジャーアイドルの作品に全面導入した。これが「KOIZUMIX PRODUCTION」の始まりだ。
ぼくはこのアルバムをリアルタイムで聴いた。正直に言うと、最初は戸惑った。これは何だ、という戸惑いだ。アイドルのアルバムに、こんな音がある——という驚き。しかしその驚きの底に、確かな熱量があった。
誰かが、何かを本気でやろうとしている。
近田春夫という人物は、日本のポップミュージック史において独特の位置にいる。テクノ、ニューウェーブ、ヒップホップ——常にシーンの先端を嗅ぎつけ、それを日本語のポップと接続してきた。
その近田が小泉今日子と組んだことは、当時の「業界の常識」からすれば異色だった。アイドルとクラブカルチャーは、異なる回路で動いていた。
しかし小泉今日子には、その「別の回路」に踏み込むことへの抵抗がなかった。
なぜか。
ぼくはこう思う。彼女は最初から「アイドル」という回路だけで動いていなかったからだ。松田聖子も中森明菜も、その圧倒的な才能をもって「アイドル」という回路を極めた。
小泉今日子は、アイドルという回路に入りながら、同時にその外側を歩いていた。
④永瀬正敏——消費を拒む男と、消費されないための結婚
1995年。俳優・永瀬正敏との結婚。
当時、なぜこの結婚が「イケている」と感じられたのかを、59歳になった今、改めて考える。
永瀬正敏は、商業映画の文脈ではない俳優だ。ジム・ジャームッシュの「ミステリートレイン」に主演し、国際的な評価を得ていた。「売れる」ことよりも「残る」ことを選ぶような、そういう仕事の仕方をしてきた人物。
消費されるアイドルが、消費を拒む男と組んだ——この組み合わせに、ぼくたちの世代は何かを感じた。それは単なる「意外なカップル」への興味ではなかった。二人が共鳴している何かへの、羨望に近い感覚だったと思う。
どちらも、「自分が何者か」を自分で決めようとしていた。
2004年に離婚している。その事実は事実として受け止めながら、ここで言いたいのはこの結婚の「行方」ではなく、この結婚が体現していたものの話だ。
⑤豊原功補とのパートナーシップ——説明しないことの倫理
少し補足しておきたいことがある。
小泉今日子は2010年代以降、俳優の豊原功補との長年のパートナーシップが報じられている。この件について彼女は、詳しく語っていない。
語らないことを責める意図はない。誰もが、語らない権利を持っている。しかしこの「語らなさ」が、彼女の政治的発言の「語ること」と対になっているように見えることは、指摘しておきたい。
何を語り、何を語らないかを、自分で選んでいる——そのことが、小泉今日子という人間の一貫した態度を形作っている、とぼくは読む。
⑥独立——「株式会社明後日」、50歳の誕生日に
2015年2月4日。小泉今日子、50歳の誕生日。
この日、彼女は「株式会社明後日」を設立した。所属事務所から独立し、自ら会社の代表取締役になった。
設立挨拶にはこうある。「少なくてもあと十年はアクティブに攻めの姿勢で生きたいものです」。
後に彼女は、独立の理由をこう語っている。「広告の仕事をたくさんやっていたときは、その中にいるわけなので、仕事に対してマイナスなイメージがあることはできない、というのがあった。そういうのが嫌で独立した」。
この言葉は、重い。
芸能人タブー——「語るな」という圧力の正体は、多くの場合、スポンサーへの配慮だ。広告という回路の中にいる限り、政治や社会について語ることは、ビジネスリスクになる。語るためには、まずその回路から出なければならない。
彼女は50歳で、その回路から出た。
語るための「場所」を、自分で作った。
そのことの意味を、次のパートから辿っていきたいと思う。
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