やさしいひと【掌編+詩】
【掌編】やさしいひと
「話したいことがある」
あなたは玄関先でそう言った。まだ靴も脱いでいなかった。
部屋に上がると、あなたは上着も脱がずにテーブルについた。
あなたらしくない。今日は本当に疲れているみたい。
わたしは上着を脱がせてハンガーに掛けてあげる。
そして、いつものように紅茶を淹れる。
「アッサム淹れたけど、お砂糖は入れる?」
「いらない」
あなたの声には、疲れが混じっていた。
でも、アッサムなら砂糖も合う。
それに、疲れているときには甘みが必要だわ。
「ひとつだけ入れるね」
わたしが差し出したティーカップの中で、角砂糖が溶けていく。
あなたは黙って、それを見つめていた。
わたしはあなたの向かいに座って聞いた。
「話したいことって?」
あなたはスプーンで軽く混ぜて、一口飲んだ。
それから、小さく息を吐いた。
「別れてほしい」
あなたはそう言った。
「なんで?急に変なことを言わないで」
紅茶もまだ残っている。
「なにかあったの?」
あなたは答えなかった。
やっぱり、と思った。
あなたは優しいから、言いづらいことを胸の中にためてしまう。
誰かを傷つけるくらいなら、自分が苦しくなればいいと思ってしまう。
そういうところがある。
だから、わたしが先にわかってあげないといけない。
「別れたいって……理由は?」
「疲れたんだよ。もう」
ようやく出てきた言葉は、それだった。
それを言うまでに、どれだけ考えたのだろうと思った。
あなたは、ティーカップの底に溶け残った砂糖を見ながら言った。
「さっきだってそうだよ……いらないって言ったのに、砂糖を入れた」
「でも、疲れているなら甘い方がいいでしょう?」
わたしに気を遣って、いらないって言ったんでしょう。
気を遣わなくてもいいのに。
あなたは立ち上がった。
「おれは、砂糖はいらないって言った」
そんなに嫌なら、そう言ってくれればいいのに。
ほんとうにやさしいひと。
そんなあなたが別れたいだなんて、いったい何があったの。
「どうしたの?あなたがそんなことを言うなんて、おかしいわ」
「そうやって決めつけられるのが、嫌なんだよ。疲れるんだよ」
あなたは目を伏せ、わたしの方を見ずに言った。
いつも、疲れているときはこういう言い方をする。
本当はそんなことを言いたいわけではないのに、つい言ってしまうとき。
「ごめんなさい……そんなふうに言わせて」
「ねぇ、座って。紅茶、冷めちゃうよ」
あなたは座って、また黙ってしまった。
ごめんなさい、気づけなくって。
「なにか、事情があるんでしょう?」
大丈夫。
わたしが一緒にいてあげる。
【詩】やさしいひと
あなたはとても優しいひと
わたしは知ってるの
あなたはとても優しいひと
そんなこと言うのはおかしいわ
あなたはとても優しいひと
なにか事情があるのでしょう
あなたはとても優しいひと
わたしはぜんぶ知ってるの
だから話してごらんなさい
きっとかなえてあげるから
