責任を負わない人ほど、正解を言い切れる
新しい組織づくりについて話し合っていたとき、経験のある人が言った。
「最初からルールを徹底した方がいい」
「全員が同じ方法で進めるべきだ」
「途中から変えようとしても、うまくいかない」
言葉に迷いはなかった。
実際、その人は同じ方法で組織をつくり、成果も出している。
言っていることも正しい。
それでも、私はその場ですぐに「そのとおりです」とは言えなかった。
頭に浮かんだのは、実際に働く人たちの顔だった。
今いる職員に、その仕事を担う余力があるのか。
すでに抱えている業務と両立できるのか。
一度に仕組みを変えて、現場はついてこられるのか。
必要な人員や時間を確保できるのか。
新しい方法が正しくても、それを実行する人と時間がなければ、組織は動かない。
正論は、現実に触れる前が一番きれいだ。
実際に導入しようとすると、準備する人が必要になる。
職員に説明する人も必要になる。
反発や混乱が起きれば、調整する人も必要になる。
新しい仕事を増やせば、何かを減らさなければならない。
しかし、助言する側からは、その負担がすべて見えるとは限らない。
「こうするべきだ」
「それでは不十分だ」
「最初から徹底しなければ意味がない」
なぜ、これほど迷いなく言い切れるのだろう。
最初は、経験があるからだと思っていた。
もちろん、それもある。
ただ、もう一つ理由がある。
その正解を実行した後の混乱まで、自分が引き受ける立場ではないからだ。
だからといって、助言する人が無責任だという話ではない。
経験者が正しい方向を示してくれることには、大きな価値がある。
問題は、その助言を完成した答えとして受け取ってしまうことだ。
助言は、意思決定そのものではない。
あくまで、意思決定の材料の一つである。
以前の私は、経験者から強く言われると、その意見を尊重しなければならないと思っていた。
実績がある。
自分より詳しい。
善意で助言してくれている。
そう考えると、違う判断をすることに気を使ってしまう。
しかし、助言を尊重することと、判断を明け渡すことは違う。
責任者が考えなければならないのは、その意見が正しいかどうかだけではない。
今、導入するのか。
段階的に進めるのか。
一部だけ採用するのか。
今回は見送るのか。
誰が実行するのか。
そのために、何をやめるのか。
そこまで決めなければ、正論は現場を動かす力にはならない。
組織には、一つの正解しかないわけではない。
教育としての正解がある。
事務としての正解がある。
経営としての正解がある。
現場で働く人にも、それぞれの事情がある。
すべての正解を、同時に実現することはできない。
だから責任者は、複数の正解の中から、今の組織が引き受けられるものを選ばなければならない。
そして、選ばなかったことで起きる結果も引き受ける。
責任者の仕事は、正解を当てることではない。
正解を、現実が耐えられる形に編集することだ。
正論をそのまま採用しないことは、逃げではない。
人員や時間を見て、順番を変える。
方法を変える。
ときには採用しない。
それも、結果を預かる人にしかできない判断である。
会議では、迷いなく言い切る人の方が強く見える。
しかし、責任者が簡単に言い切れないのは、弱いからではない。
その判断によって、誰に負担がかかるのか。
何が止まるのか。
失敗したときに、誰が立て直すのか。
そこまで見ているからだ。
責任を負わない人ほど、正解を言い切れる。
責任を負う人は、その正解が生む結果まで考えなければならない。
決定権とは、正解を知っている人に与えられる特権ではない。
正解を現実に変え、その結果まで引き受ける人に必要なものなのだ。
