思考停止した組織ほど、「ルールですから」が増えていく。
ある契約を進めようとしたときのことだ。
まず、「この会社と契約してよいか」という申請を出し、上まで決裁を取る。ところが、それが終わったあと、今度は「その契約書に印鑑を押してよいか」という別の申請が必要だという。
最初に聞いたとき、意味がよく分からなかった。
契約してよいと承認したのだから、その後の手続きまで一度で終わらせればいいのではないか。
私はこういうことが気になるので、これまでも何度か上に意見を出してきた。
「この手続き、本当に二回必要なんでしょうか」
ところが、担当する側から返ってくるのは、
「昔からそう決まっていますから」
だったりする。
それ相応の理由があるなら、もちろん構わない。不正を防ぐためなのか、法的な理由なのか、二重に確認しなければならない重大なリスクがあるのか。それを説明してもらって、必要だと納得できるなら守ればいい。
私が疑問なのは、なぜ必要なのかを説明することもなく、「決まりだから」で思考が止まってしまうことだ。
ルールというのは、本来、何かをうまく進めるために考えて作られたもののはずだ。
ところが時間がたつと、そのルールが「考えなくていい理由」に変わることがある。
「決まりですから」
「前からこうですから」
「この手順になっていますから」
そう言えば、自分で改めて考える必要はなくなる。
しかし、仕事には相手がいる。
こちらが内部で申請を回している間にも、相手は待っている。手続きが遅れれば、契約そのものが流れることもある。他社に先を越されることだってある。
それでも、
「社内ルールに則って、正しく手続きをしました」
だけで終わってしまったら、何かがおかしい。
そもそも仕事の目的は、社内のルールに則って、手続きを完璧にこなすことだったのだろうか。
違うはずだ。
必要な確認をしたうえで仕事を進め、成果につなげる。そのためにルールや手続きがある。
もちろん、何でも簡略化すればいいとは思わない。
安全、公平、不正防止など、効率より優先すべきものもある。確認が必要なら二重でも三重でも確認すればいい。
ただ、そのときにも、
「なぜ、この手続きが必要なのか」
は説明できた方がいい。
時代が変わる。システムが変わる。人員も仕事のスピードも変わる。
ならば、目的は守りながら、やり方を変えることはできる。
二段階だったものを一段階にできるかもしれない。人が確認していたものをシステムで確認できるかもしれない。
必要なら守る。今の状況に合わなければ変える。役割を終えたならなくす。
ところが、その一方で、
「人手が足りない」
「残業を減らしたい」
「生産性を上げたい」
という話が出てくる。
それなら、人を増やす前に、今ある仕事のやり方を一度疑ってみてもいい。
そして最近、もう一つ思うことがある。
ルールを守る能力と、ルールを運用する能力は違う。
決められた手続きを正確にこなすことは必要だ。
しかし、それだけなら、
「規定ではこうなっています」
で仕事はできる。
もう一段難しいのは、
「この規定は何を守るためにあるのか」
まで理解して仕事をすることだ。
目的が分かっていれば、環境が変わったときに考えられる。
このまま残すべきなのか。
目的は残しながら、やり方を変えられないか。
そもそも、もう役割を終えていないか。
そこには判断が必要になる。
そして、ルールを変えるなら、その判断に対する責任も生まれる。
だからこそ、「昔からこうです」「決まりですから」の方が楽なのかもしれない。
考えなくていい。
判断しなくていい。
変えた理由を説明する必要もない。
でも、それを繰り返しているうちに、仕事の環境だけが変わり、手続きだけが昔のまま残っていく。
私は、組織の生産性を左右するのは、ルールが多いか少ないかではないと思う。
厳しいか、緩いかでもない。
ルールの向こう側にある目的まで見て、必要ならそのやり方を変えられる人が、組織の中にどれだけいるか。
そこなのだと思う。
「ルールですから」で仕事を終えるのか。
「そもそも、何のためのルールなのか」から考えるのか。
ルールは、考える代わりにあるものではない。
考えたうえで、仕事をより良く進めるために使うものだ。
