創作大賞2026応募中:「残酷な夢」と「奇跡の拍手」~中卒(溶接工)が医学博士になる軌跡~
がんの宣告と、残酷な一言
1987年、私が42歳の初夏のことだった。
母の葬儀を終え、心身ともに疲労困憊していた翌日。
ふと視線を落とした便器に、濁った赤い血液が垂れるように付着していた。
「えー、なにこれ……」
動揺を隠せなかった。臨床検査技師として医療の現場に身を置いていた私には、それが何を意味するのか、嫌でも直感できてしまったのだ。
慌てて受診した泌尿器科での内視鏡検査。
主治医からその場で「膀胱がんですね」と告げられた瞬間、頭の中が真っ白になった。
初期のがんであり、内視鏡手術を経て2週間後には職場復帰を果たしたものの、膀胱がんは再発率が非常に高い。
それからというもの、数ヶ月、半年、1年と続く定期検査のたびに、火箸を突っ込まれるような激痛に耐えながら、常に死の恐怖と隣り合わせの日々を送ることになった。
妻は、まだ幼かった小学1年の長女と幼稚園児の長男を抱き寄せ、「家族で頑張っていこうね」と悲壮な覚悟を決めていた。
心身ともにすり減り、見えない未来に怯えていたある日。
追い打ちをかけるように、ある友人から思いがけない言葉を投げかけられた。
「俺の友人が、能勢さんの死ぬ夢を見たよ」 そのあまりに無神経な一言に、私は言葉を失い、絶句した。
一瞬、周囲の雑音が遠のき、冷たい沈黙が耳の奥でキーンと鳴った。
しかし、激しい怒りをぶつけて相手をなじる代わりに、私の口元からは自然と苦笑いが漏れていたが、腹の底では静かに、しかしマグマのように生への執念が燃え上がり始めた瞬間であった。
苦笑いの奥で燃えた「元溶接工」の意地
なぜ、「能勢さんの死ぬ夢を見たよ」のひと言を、私は人生最大の絶望の中で、笑うことができたのだろうか。
それはきっと、私の人生が最初から、誰かがきれいに舗装してくれたような平坦な道ではなかったからだ。
思えば、小学3年生の凍てつく冬の朝、大きなジャンパーに身を包み新聞配達に駆け回っていた。
時には理不尽な大人に泣かされながらも、「どんなことがあっても明るく笑って生き抜いてやる」と幼心に誓った日々。
中学を卒業し、15歳で飛び込んだボイラー製造の現場。
数千度の火花を浴び、作業着から塩が吹き出すほどの過酷な労働の中で、私は「中卒の溶接工」として泥臭く歯を食いしばってきた。
学歴という分厚い壁に何度も跳ね返されながらも、夜間高校へ通い、短大へと死に物狂いで這い上がり、臨床検査技師という現在の職を自らの手で掴み取ったのだ。
あの火花散る現場で流した汗と涙に比べれば、他人の不吉な夢などに負けてたまるか。
「人生は有限だ。残された時間を、1秒たりとも無駄にしてなるものか」
友人からの残酷な言葉は、図らずも私の心に強烈な火をつけた。
死の恐怖は、いつしか凄まじい「生への執念」へと姿を変えていた。
私は何かに憑かれたように、それまで以上に取り組んでいたHLA(白血球の血液型)の研究に没頭し始めた。
焦燥感をエネルギーに変え、ひたすらデータを集め、論文を書き続けた。
奇跡の拍手が鳴り響いた会議室
そして、運命の日が訪れる。
大阪で開業している友人の鍋谷医師のクリニックに設けられた会議室。
そこに立つ私の前には、大阪市立大学の一色教授の教室に所属する、若く優秀な現役の医師たちがずらりと並んでいた。
中卒の元溶接工であり、短大卒の臨床検査技師である私が、医学部の医師たちに向けて最先端のHLAについてのミニ講演をしている。
傍から見れば、いささか奇妙な光景だったかもしれない。
しかし、私にとっては「1秒も無駄にしない」という執念の延長線上にある、真剣勝負の場だった。
いつものように熱を込めて講義を終え、ふうっと息をついた時だった。
最前列で聴いていた一色教授が、静かに口を開いた。
「能勢さん。あなたの医学部大学院への入学が認められましたよ」
一瞬、教授が何を言っているのか理解できず、頭の中が真っ白になった。
通常、「大学院」への入学は4年制大学の卒業が必須条件である。
短大卒の私が、ましてや医学部の大学院に入れるはずなどないのだ。
しかし、一色教授は医学部長に直談判し、私が地道に積み上げてきた和文80編、英文61編という膨大な論文実績を提示してくれていた。
それは、「教授就任にも匹敵する実績である」と高く評価され、前例のない特例での入学審査を見事に突破したというのだ。
呆然と立ち尽くす私の耳に、ふいに音が飛び込んできた。
パラパラと始まり、やがて会議室全体を包み込むような大きく温かい音。
講義を聴いていた医師たちからの、割れんばかりの拍手だった。
彼らは、学歴という色眼鏡ではなく、純粋に私の研究への情熱と実績を認め、心からの敬意をもってこの「異端の大学院生」の誕生を歓迎してくれていたのだ。
鳴りやまない拍手の中、視界が少し滲んだ。
「絶対に負けてなるか」というあの日の決意は間違っていなかった。
私は拍手の鳴り響く会議室で、静かに、しかし力強く、新たな戦いへのスタートラインに立っていた。
1秒を惜しんだ4年半と、手にした栄光
あの会議室での温かい拍手は、ゴールではなく、壮絶な戦いの幕開けであった。
大学院での4年半は、まさに「1秒を惜しむ」日々の連続だった。
通常の研究業務に加え、40代後半にして英語とドイツ語の試験という高い壁が立ちはだかり、日々仕事が終わった深夜、辞書が手垢で真っ黒になるまで勉強した。
記憶力との戦いに苦闘しながらも、私には立ち止まる選択肢はなかった。
いつ再発するかもしれないがんの恐怖と背中合わせの中で、机に向かい続けること自体が、私にとって「生きている証」だったのだ。
私が挑んだ研究テーマは、HLA遺伝子と、カビの一種であるカンジダ抗原に対する免疫力との関係である。
これまで漠然と「体質」と呼ばれていた謎が、実はHLA遺伝子に支配されていることを科学的に証明する、世界初の論文執筆に心血を注いだ。
そして1991年。
48歳になった私は、ついに大阪市立大学から医学博士の学位を授与された。
教授会での満場一致の可決だった。
「短大卒で医学博士」という記事が、1991年6月4日付の毎日新聞に掲載された朝、これまでの泥臭く、遠回りばかりだった道のりがすべて報われた思いがした。
さらに翌年、その学位論文が優秀と認められ、「大阪市医学会市長賞」という身に余る栄誉を頂くことになった。
授賞式の壇上から見渡した景色。
そこには、私の可能性を信じてくれた一色教授をはじめ、絶望のどん底から私を掬い上げ、背中を押し続けてくれた多くの人々の笑顔があった。
82歳の現在地と「3C」の誓い
あの日、無神経な友人の言葉に絶望しそうになった時から、長い年月が流れた。
82歳になった今、私は手に入れたばかりの軽快な13インチのノートパソコンを相棒に、noteの画面に向かっている。
「人生つぶやき語録」という連載を通じて読者の皆様と交流し、誰もが無料で読めるスタイルを取りながら、温かいサポートの輪を広げていく。
さらに現在は「渇いた雨」という純文学の執筆にも没頭し、新しい表現の世界へ挑戦する日々を楽しんでいる。
がんという試練が私に教えてくれたのは、「人生は有限である」という厳しくも尊い事実だった。
絶望の淵に立たされた時こそが、人生を変える「Chance(機会)」となる。
そこから歯を食いしばって「Challenge(挑戦)」を続ければ、人は必ず大きく「Change(成長)」することができる。
これが、私が這い上がってきた軌跡の中で掴み取った「3C」の信条である。
人生に遅すぎるということはない。
たとえ今、深い暗闇の中で立ちすくんでいる人がいたとしても、どうか自分自身の底力を信じてほしい。
結果がどうであれ、目標に向かって泥臭く汗を流し続けるその生き様こそが、何よりも美しく輝き、尊いのだから。
これからも私は、次の目標を持ち、我が友人、仲間たちとともに、この有限の人生を笑って、前向きに生き抜いていく。
将来どんな結果が出るだろうか、これからが楽しみである。
了
クリエイターさまから、身に余る感想を俳句にして頂きました。
感謝!感謝!です。
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