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【時よ止まれ、お前は美しい】子育て中にふと『ファウスト』を読みたくなった


【時よ止まれ、お前は美しい】子育て中にふと『ファウスト』を読みたくなった


「時よ止まれ。そなたは美しい・・・」

離乳食を食べ終わり、口周りをぐしょぐしょにした我が子を目の前に、ふとそんな言葉が浮かんできた。

はて、これは一体どこで語られた言葉だったか・・・

しばらく考えてふと思い出した。

そうだ、『ファウスト』だ。ファウストが言っていたあの言葉だ。

子育てをしながら『ファウスト』が出てくるなんて自分でも驚きだったが、まあ、それにしても35歳を過ぎて初めての子供である。そしてその子が最近とても表情が豊かになり、よく笑ってくれるようになったのである。

口周りをぐしょぐしょにしながら何気ないことでキャッキャしてくれるこの日常が私には狂おしいほど愛おしい。

だが、そんな日もいつかは終わる。

子供は日々成長してゆく。だんだん手がかからなくなる。そして願わくば私の手を借りなくとも生きていけるような「一人前の大人」になってほしいと思う。

だが、「一人前の大人」になってしまったらそれはそれで寂しいものである。大変だ大変だと言いながらずっと世話してあげたい気持ちもあるのである。今こうして世話をしていると、それは本当にそうとしか思えない。

親というのはそもそも矛盾した存在なのだ。

なってみて初めてわかるというのはこういうことなのだろう。

「時よ止まれ」という言葉が私の口をついて出てきたのもそんな思いからなのだろう。我が子と妻との何気ない日々がずっと続くのならなんと幸福なことかと願わずにはいられない。そして私はこの幸せに恐怖も抱いている。この幸せが失われることを本気で恐れている。

私は基本的にネガティブな人間だ。楽観的な人間ではない。つまり、今がこんなにも幸せなら、良くないことも確実に襲ってくるだろうことを確信しているのである。

まあ、だからこそ今が幸せだと感じられるというのも間違いではあるまい。ネガティブな性格も捨てたものではないのである。ちなみにであるが、私は自分のことを前向きなネガティブだと考えている。

「時よ止まれ」は誤読?

さて、まあこんなわけで子育て中にふと再会した『ファウスト』の言葉。これは何かのご縁に違いない。

ちょうど『カラマーゾフの兄弟』も読み終わったところだし、久々に読んでみるのも悪くない。そしてこの「時よ止まれ、そなたは美しい」の箇所をじっくり味わうのも粋なものである。

というわけで勇んで読んでみたのであるが私は驚いた。

この「時よ止まれ」の箇所が次のようなものだったのである。

己がある刹那に向って、「とまれ、
お前はあまりにも美しい」といったら、
己はお前に存分に料理されていい。

新潮社版、ゲーテ、高橋義孝訳、平成26年82刷版『ファウスト』P129

ん?「時よ止まれ、そなたは美しい」ではない?

・・・これは私の記憶違いだったのか?

そしてファウストが実際に「時よ止まれ」と言ってしまうそのシーンがこれである。

己は自由な土地の上に、自由な民とともに生きたい。
そういう瞬間に向って、己は呼びかけたい、
「とまれ、お前はいかにも美しい」と。

新潮社版、ゲーテ、高橋義孝訳、平成26年71刷版『ファウスト』P517

全編を通して、「時よ止まれ」に関するセリフはこの2つのみ。

つまり、私は勝手に「時よ止まれ、そなたは美しい」というセリフだと思いこんで記憶していたのである。何てことだ・・・!

念のため私は他の出版社版で「時よ止まれ、そなたは美しい」となっていないか調べてみたのだがさらに驚いた。

日本では一般的に「時よ止まれ、お前は美しい」という言葉が『ファウスト』の名言として人口に膾炙しているのだそうだが、そもそもこの「時よ止まれ、お前は美しい」も本文には存在しないというのである。

たしかに、言葉の意味としてはそうかもしれない。だが、実際のドイツ語の原文でも「時よ」は省略されていて書かれていないのだそうだ。

う~む、これは実に興味深い。

『ファウスト』を実際に読んだのなら「時よ」が書かれていなくてもその文脈でその意味がわかる。だが、そうでないならば「時よ」がなければなんのことかわからない。

そしてこの「時よ」があることで、格言としての強さが増し、どんな場面でも使える汎用性が生まれた。たしかに原文には「時よ」がないかもしれないが、こうした意図せぬ?誤読が強力な化学変化を生むことがあるのである。

となれば私の「時よ止まれ、そなたは美しい」もあながち間違いとは言い切れないのではないだろうか・・・うむ、そういうことにしておこう。

久々に読んだ『ファウスト』での思わぬ発見であった。

子育て中に「時よ止まれ」と言わなかったファウスト

そしてもうひとつ、今回私が気になった箇所がある。

私は子育て中に「時よ止まれ」と思わず口ずさんでしまったわけだが、ファウスト博士はどうもそうではなかったようなのである。

ではなぜファウストは子育てに対し「時よ止まれ」と言わなかったのだろうか。これも読んでみればたしかに「なるほど」と思わずにはいれないものがあったのである。

流れとしてはこうだ。

ファウストは女神ヘレネーと結婚し、息子エウポリオーンが生まれた。美しい妻と愛する我が子。一見幸せとしか言いようのないこの3人の生活であったが、この子がとんでもなくやんちゃで、ファウスト夫妻は心労が絶えなかったのである。

エウポリオーン 
撥ねさせて下さいね、
飛ばせて下さい。
空高くどこへでも
昇ってみようというのが、
ぼくの望みなんです。
この望みは棄てられません。
ファウスト
それもほどほどにしなければ。
堕ちたり、怪我をしたりするような
事故に遭って、
大事な息子に万一のことがあっては
大変だから、
余り大胆なことはしないでくれ
エウポリオーン
もうこれ以上、
地面に縛りつけられていたくはないのです。
両手や
髪の毛や
着物を放してください。
だって、ぼくのものじゃありませんか。
ヘレネー
お前というものが誰のものなのか、
よく考えておくれ。
やっとの思いで手に入れた
わたしの、お前の、あの方のものを、
お前がこわしてしまったら、
わたしたちがどんな気持になるか、よく考えてみて頂戴。
合唱
どうやらこの三人の結びつきも、
ほどなく解けてしまいそうな気がします。
ヘレネーとファウスト
どうかわたしたちのために、
元気のよすぎる
烈しい望みを
抑えておくれ。
ここに大人しくしていて、
この場所を賑やかにしておくれ。

新潮社版、ゲーテ、高橋義孝訳、平成26年71刷版『ファウスト』P381-383

いかがだろうか。きっと世のお父さんお母さんも深く頷けるものがあるのではないだろうか。そして実際、この直後にエウポリオーンは高く飛び上がってそのまま墜落し亡くなってしまう。最愛の子を失ったヘレネーは悲嘆のあまり後を追い、ファウストはまた独りぼっちになってしまったのである。

これがファウストの家族の悲劇だ。家族の団らんという幸せが、あっという間に壊れてしまったのである。

ただ、これはファウストが「時よ止まれ」と願うほど幸せでなかったゆえの悲劇なのだろうか。ファウストは元々家庭的なタイプの人間ではないのでここは何とも難しい所だが、それにしてもやんちゃな子供のことを心配してしまう両親の心というのは私達にも深く頷けるものがあると思う。

だが、恥ずかしながら、私はこのエピソードをすっかり忘れてしまっていた。今回の再読でようやく「ああ!こんな話もあったな」と思い出したくらいなのである。

ただ、もしかすると、私が子育て中に「時よ止まれ」と口ずさんだのはこのエピソードが記憶の片隅にあったからなのかもしれない。

いずれにせよ、初めての子育てで毎日てんやわんやだが、私は今、幸せである。時が止まってほしい。いや、ずっとこの幸せが続くように願わずにはいられないのである。

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