二泊三日で四国ほぼ一周!四国の現存天守と国内唯一の"紫電改"を見に行った話
日本全国にある城のうち、江戸時代からの木造天守が残る城はわずか12か所しか存在しない。
これらは現存十二天守などと俗称され、その希少性や文化的価値の高さからいずれも重要文化財として指定されている。
今回は四国にある4カ所の現存天守を訪問し、国内で唯一現存する帝国海軍の戦闘機「紫電改」を見に行った時の話をしよう。
令和3年7月のことだ。

四国にある4つの現存天守が残る城というのは次のとおりだ。
高知城 (高知県高知市) / 土佐国
宇和島城(愛媛県宇和島市)/ 伊予国
松山城 (愛媛県松山市) / 伊予国
丸亀城 (香川県丸亀市) / 讃岐国
四国はその名のとおり「四つの国」から成り立つ島だ。
旧令制国では土佐国、伊予国、讃岐国、そして阿波国とされ、現在は高知県、愛媛県、香川県、徳島県にそれぞれ相当する。
「各県一か所づつあるのかな」と思った人もいるかもしれないが、実は徳島だけは現存天守がない。
したがって「現存天守を見ること」が主たる目的である今回の旅では徳島県は素通りしており、現存天守が残る他の三県のみを訪れている。

愛知から神戸淡路鳴門道で淡路島を経由して徳島へ上陸した。
淡路島へと渡ったのも四国へ上陸したのも初めてだったので、とても感動したのを覚えている。
高知城

最初に訪れたのは高知市にある高知城だ。
手前に見える風格のある巨大な門は追手門といい、要するに城の正門にあたる。
これも現存する建造物として天守や本丸御殿と同様に重要文化財に指定されている。


高知城には土佐藩の藩庁が置かれ、江戸時代を通じて一貫して山内家20万2600石の居城としてあり続けた。
そして、なんと初代藩主である山内一豊公は私の地元である尾張国一宮出身の武将なのだ。
一豊公は黒田城(現一宮市木曽川町)で生まれたとされており、葉栗郡木曽川町の頃からずっと一豊まつりが行われてきた。
岩倉出身という説もあるらしく、ウィキペディアには最初に岩倉出身説が記載され、後から取ってつけたように一宮出身説の記載がある。
由々しき事だ。
一豊公は一宮出身に違いない。そうに決まっている。

門の手前に置かれた石碑には「国宝高知城」と刻まれていた。
しかし、高知城は現存天守として重要文化財に登録されてはいるが、国宝ではない。
国宝五城とは、国宝に指定されている犬山城、松本城、彦根城、姫路城、松江城の五つの城のことを指す。
そもそも国宝とは「重要文化財のうち世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝たるもの」(文化財保護法第27条第2項)であり、重要文化財に指定された上でさらに国宝に指定される必要があるのだ。
それではこの「国宝」の記載は誤りかと言うと、実は誤りというわけでもない。
ここでいう「国宝」とは、昭和25年の文化財保護法施行前に施行されていた国宝保存法という法律に基づく国宝という意味であり、これらは「旧国宝」と俗称される。
旧国宝は文化財保護法施行に伴いすべて同法に規定する重要文化財に指定されたものとみなされ、その中でも格別価値が高いものが「文化財保護法に基づく国宝」としてあらためて指定された経緯があるのだ。
高知城も昭和9年に旧国宝に指定されていることから、この石碑はその際に建てられたものだろう。









ようやく登り切ることが出来た。
記事だと一瞬だが、追手門から天守まではそれなりの距離を登っていく必要がある。
灼熱の太陽に焼かれながら登城するのはかなり体力を消耗する上、天守がある場所まで登っていかなければ自動販売機すらないのだ。
途中まで登ってしまったら、もはや登るしかない。
不退転の決意をもって臨む必要がある。

高知城は現存天守の中では唯一本丸御殿が共に現存している珍しい城で、本丸御殿が入口になっている。
なお、全国で御殿が残る城は高知城の他に二条城、掛川城、川越城の4か所あるが、御殿が完全な状態で残されているのは高知城のみだ。
他の御殿は規模が大きく縮小していたり、あるいは変更が加えられているなど、残念ながら往時の姿を留めていない。







本丸御殿から天守へ移り、天守最上部の廻縁に出て外を眺める。
廻縁とはベランダのようなもので、天守最上部から建物の外に出られるようになっているのだ。
当然眺望の良さは格別なのだが、廻縁に出られる構造になっている現存天守は高知城の他には犬山城しかない。
他の城は廻縁があっても装飾と化しており、人が外に出ることを全く想定していない構造となっている。






高知城を堪能した後は桂浜へと向かった。
城巡りが中心だが、ちゃんと定番の観光地にも足を運んでいる。









初日は高知市内で1泊し、二日目は愛媛県へと向かった。
目的地は宇和島城だが、その前に立ち寄りたい場所があったので海岸沿いなどを走る国道56号経由で大回りしている。
高速道路は所々にあるが、整備が断片的なので頻繁に一般道へ降ろされる地方あるあるといった感じの整備状況だった。


紫電改展示館

耐震強度が低いため撤去されることが決まっている。
宇和島城へ行く前に立ち寄りたかった場所とは、愛媛県南宇和郡愛南町にある紫電改展示館だ。
紫電改というのは帝国海軍の局地戦闘機で、大戦末期に本土防空戦において活躍した傑作戦闘機だった。
局地戦闘機とは地上基地から発進して敵航空機を迎撃するための戦闘機のことをいい、現代では要撃機や迎撃機とも呼ばれる。
生産数が多く現存する機体も多い零戦とは異なり、現存する紫電改は世界で僅か5機しかない。
わが国に残る紫電改のうち一機は鹿児島県阿久根市の海底に眠っており、令和8年4月8日に引き揚げられる予定だ。
どれだけ修復するかは知らないが、仮に修復するとしても長い時間を要するだろう。
したがって、現時点で国内でまともな姿の紫電改を見られるのは愛南町の紫電改展示館だけなのだ。
極めて交通の便がよくない場所にあるが、時間をかけてでも行く価値はある。



実は愛南町の紫電改も久良湾の海底から引き揚げられて修復されたものだ。
プロペラが曲がっているのは着水時の衝撃によるものだという。










本機体は大戦末期に結成された海軍の精鋭部隊である第三四三海軍航空隊(通称343空・剣部隊)所属のものだ。













宇和島城

愛南町で紫電改を見るために寄り道をしていた結果、宇和島市へ到着したのは午後2時前だ。
道中どこで昼食を取るか迷い続けているうちに宇和島へとたどり着き、宇和島の商店街を歩き回ったが飲食店は一軒たりとも営業していなかったため、この日は昼食抜きとなってしまった。
営業時間は午後2時まで、ラストオーダーは午後1時半までという店が多く、時間が遅すぎたのが原因だった。
しかし、小高い丘の上に築城された平山城である宇和島城へ登るにあたり、空腹で挑むのはさすがに避けたいところ。
まして季節は真夏だ。熱中症になるリスクは避けたい。
そこで昼食代わりに三の丸跡の入口から道路を挟んで向かいにあるお菓子屋さん(一六本舗 宇和島店)でお菓子を買って食べ、糖分を補給してから登城したのだった。


これが二箇所目の現存天守である宇和島城の天守だ。
宇和島城は宇和島藩10万石、宇和島伊達家の居城だった。
伊達という苗字から分かるように、藩祖である伊達秀宗は東北の雄として知られたあの伊達政宗の長男だ。
実質的には仙台伊達家の分家と言えるが、仙台藩の支藩というわけではなかった。
なお、秀宗は名前に「秀」の字があることから分かるように太閤秀吉から偏諱を受けており、豊臣家と近しい関係にあった。
側室の子とはいえ伊達政宗の長子だった秀宗が伊達宗家を継ぐことが出来なかった事情はそこにあり、宗家は腹違いの弟である伊達忠宗が継いでいる。
これは徳川家康の次男だった結城秀康が将軍になれず(※)、弟の秀忠が兄を差し置いて将軍になった例と似ている。
将軍職と徳川宗家を継がせられなかった負い目がある父家康と弟秀忠の配慮により、秀康は福井藩68万石という大封を与えられて越前松平家の藩祖となった経緯がある。
※長男の松平信康は天正7(1579)年に死亡しているので、それ以降は次男の秀康が長子だった

天守の形式は分かりやすい層塔型三重三階だ。
また最上階から軒唐破風、千鳥破風、そして比翼千鳥破風と、装飾性が高いつくりになっており、とても豪華な印象を受ける。
独立式天守であるため全方位から天守が見やすくなっており、写真映えもしやすい。
現存する建造物が多く眺望も素晴らしかった高知城とは別の良さがあり、現存天守の中でも気に入っている城の一つだ。
宇和島という立地によるアクセス難度の高さが唯一の難点かもしれない。


道後温泉

2泊目となるこの日は松山市の道後温泉付近で宿を取った。
道後温泉といえば道後温泉本館で入浴をしてみたい。
そう思い向かったが、入浴するのに整理券が必要とのことでこの日は入ることが出来なかった。
ちなみに朝6時から入浴可能と聞いたので翌朝再訪したが、その時点で整理券の時刻は午前10時からだった。
正確な時間は覚えていないが、6時半くらいだったと思う。
これにより前に来ていた人間は一体何時に来ていたのだろうかと思うほどの人気っぷりで、時間に余裕がなければ入浴するのは厳しい。















(小説「坊ちゃん」の劇中に登場したことに由来する)





道後温泉の商店街を歩いていた際に声をかけられて買ったおにぎりで、なんとみかんの汁でご飯を炊いているのだという。
そんな甘ったるいおにぎりが美味しいわけがないと思って気乗りはしなかったが、お店の方が強く勧めてきたので食べてみることにした。
食べてみると、これが意外といける。美味しかったのだ。
味は忘れてしまったが、美味しかったことだけは覚えている。
強く勧めてくるだけの事はある。
道後温泉へ行った際には騙されたと思って是非食べてみてほしい。
松山城

最終日となる三日目は朝一で松山城へと向かった。
松山城もまた平山城であり、天守がある山頂まではロープウェイもしくはリフトによって登ることになる。
もちろん徒歩で登ることも可能だが、修行しにきたわけでもないし時間もないためロープウェイで登った。

松山城は連立式天守であり、天守と連結する櫓なども丸ごと残っているため非常に見応えがある。
これは現存天守の中では他に姫路城だけだ。
一方、大天守が周囲の渡櫓などに囲まれているため、独立式天守や連結式天守と比して大天守そのものは見にくいのが難点と言えるだろうか。
このように遠目で撮影しないと全体が写らないのだ。












松山城を出て、いよいよ四国最後の現存天守である丸亀城へと向かう。
その途中にどうしても寄って行きたい場所があった。
松山道を途中で退出して向かったのは、香川県にある道の駅豊浜だ。
ここは香川県を舞台にしたアニメ「結城友奈は勇者である(略称ゆゆゆ)」を推しており、売店にはグッズなどが大量に売られていることから一度立ち寄ってみたかったのだ。








店内はことごとく「ゆゆゆ」の関連商品で埋め尽くされていた。
作品のファンが来ることを見越しているのだろう。
令和3年時点でアニメ第一期の放送(平成26年)から7年が経過していたにもかかわらず、これほど「ゆゆゆ」を前面に押し出してくれていた。
この時からさらに5年が経過した今、どうなっているのか気になるところではある。








丸亀城

四国で最後の現存天守である丸亀城は、合計四段の石垣の総高が60メートルに達する日本一の石垣を有することで有名だ。
つまり丸亀城天守までは高低差が60メートルあるということであり、真夏の午後2時頃という炎天下でこの高さまで歩いたのは本当に修行だったと思う。
その上、天守までの道のりは階段ではなく傾斜した斜面だったのだが、これが何より辛かった。
斜面をそのまま歩くと足が斜めになってしまい、接地面が平面の階段に比べて非常に疲れるのだ。

手前にある大手門も天守と同じく江戸時代のものが現存している。
天守と大手門の両方が現存している城は、全国では丸亀城の他に高知城のみだという。


お堀には大量の亀がいた。
在来種には見えないし、池の水全部抜いたほうがいいかもしれない。

これが丸亀城の天守だ。
現存天守の中では天守としての大きさが最小である上、入り口がある側面には小さな千鳥破風があるだけなので、この向きからみると大変しょぼく感じてしまう。
しかしながら、下からみると石垣の高さと相まって実際の大きさよりも大きく見える。
そういう効果も狙って石垣を高くして築城したのだろう。




瀬戸内海の離島に設けられた巨大なPAで、自動検札所があるためUターンすることができるようになっている。
与島パーキングエリアまで来て、本土や四国に引き返すという「施設を利用するだけ」という選択肢が取れるのが特徴だ。
本四連絡橋では淡路サービスエリアも同じ仕様となっている。

無事に三日間で4つの現存天守と紫電改を見て回ることが出来た。
当初は四日間で周るつもりが一日短縮したために余裕のある日程とは言えなかったが、目的は全て達成したので満足感は十分だ。
じっくり周ることが出来なかった部分は、また次の機会に見よう。
当時そんなことを思っていたが、実はそこから5年の間に四国には四回ほど訪れており、そのうち2回は既に記事にしている。
残りの2回についてもそのうち記事にしようかと思っているので、そちらもよかったら読んでほしい。
四国へ行ったときの記事
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