冬の愛媛と香川をゆく!二泊三日で御朱印巡りと城巡りをしてきた話
2月の連休で松山に住む友人に会いに行こうと思い、二泊三日で愛媛県へ行くことにした。
手放したかったフィギュアを友人に渡すことが目的だったのだが、なんとその友人は直前になってインフルエンザに罹患してしまい会えなくなってしまった。
目的は果たせなくなったが、それなら四国の観光に全振りした日程にしてしまおう。
そう考え、愛媛や香川で御朱印巡りと城巡りを兼ねた観光旅行をすることにしたのだった。
令和6年2月のことだ。

松山へのルートは最短ルートの神戸淡路鳴門道だ。
自宅から四国へ直行する際は「いつもの」ルートになっている。
淡路SAで休憩を取るのも定番だ。





淡路SAは上下線の駐車場を相互に行き来し、合法的にUターン出来る特殊な構造になっている。

同じく本四連絡橋である瀬戸中央道の与島PAも同様の構造をしているが、これはSAやPAそのものを観光名所としてウリにしており、それだけを目的にして来た観光客をスムーズに帰路につかせるための策だろう。
いちいちICを退出させると通行料金が高くなるし、何よりIC付近に渋滞を招きかねない。

大川オアシス

四国へと渡り、いつも通り徳島県を素通りして香川県へ。
最初に目指したのは津田の松原だ。
高松道を津田東ICで退出して国道11号へと出る。
時刻は正午前だったので、まずは昼食を取ることにした。
訪れたのはレトロな雰囲気が漂うドライブインの大川オアシスだ。
瀬戸内海を眺めながら食事が出来る眺望の良さがウリであり、ちょうど私が訪れる3か月ほど前にマツコの知らない世界で取り上げられたばかりだったらしい。





私は生姜焼き定食を注文したが、ボリュームたっぷりで満足。
ごちそうさまでした。
津田の松原

津田の松原は国道11号に面しているためアクセスは良好だ。
駐車場は琴林公園として一体整備されている道の駅津田の松原を利用するようになっている。


まずは御朱印巡りのため、石清水神社へ参拝にいく。
津田の松原という場所は、江戸時代初期にこの石清水神社を守るために防風林として大量の松が植樹されたことが成り立ちだと言われている。
神社あっての松原というわけだ。





石清水神社は、元々は京都の石清水八幡宮の分霊を勧請して創建されたという。
現在では社名に八幡の名を冠さないが、この神社は全国各地にある八幡神社の一つということになる。実際、明治に現在の社名に改称するまでは津田八幡宮を名乗っていた。
八幡神社なので当然ながら御祭神は八幡神、つまり応神天皇だ。










掃除してくださいではなく、道具に使ってくださいと言わせている体なのが面白い。自発的に掃除したくなる仕掛けだ。
ちょっと使いたくなってしまうが、周辺は割と綺麗に保たれていたので私は使わなかった。






松林と砂浜くらいしかなく、景色はいいが人はほとんど見かけない。
だからこそ静かで落ち着く。
のんびりとした時間を過ごすにはよいと思う。




銭形砂絵

お次は香川県の西端に位置する観音寺市にある銭形砂絵へ。
その名のとおり砂浜に巨大な寛永通宝の砂絵が描かれており、砂絵の近くにある琴弾山という小さな山に設置された展望台から眺められるようになっていた。
なお、展望台付近には駐車場が整備されているため山歩きする必要はない。



これが銭形砂絵だ。
江戸時代に領民が藩主を歓迎するために作ったのが最初だというが、上空から確認できるわけでもないのに正確に作られており、その正確さには驚くばかりだ。
実はこの砂絵は時代劇「銭形平次」のエンディングに登場することで有名なのだが、若年層はそんな時代劇知りもしないだろう。


香川県を舞台にしたアニメ「結城友奈は勇者である」とのコラボで、結城友奈チャンがアナウンスをしてくれる。
オタクである私は迷わず下のボタンを押した。


銭形砂絵を出発したら、次は本日の宿泊先である松山まで直行した。
ルートインでチェックインを済ませ、部屋の中でテイクアウトしてきたケンタッキーフライドチキンを食べたところで初日は終了だ。

二日目もさほど天気はよくないが、この日も雨は降っていないことが救いだった。
相変わらず運がよい。神に感謝。

日本軍の艦上攻撃機のような名前の交差点があって驚く。
しかし、読み方は「てんざん」ではなく「あまやま」だった。
前者のほうがカッコいいから改称したらどうだろうか。
宇和島城

二日目の最初の目的地は宇和島城だ。
宇和島城は2度目の訪問であり初見ではないのだが、ここの天守は小ぶりながら美しいため気に入っており、せっかくここまで来たならと思い立ち寄っていくことにした。


宇和島城への入口の一つで、宇和島伊達家の家老桑折氏の長屋門を移築したものだと言う。

石垣の解説を読みながら現物を見る。
石垣マニアではないので石垣自体にさほど興味関心はないが、解説を読みながら見ると意外と楽しめる。





宇和島城は宇和島伊達家10万石の藩庁が置かれていた城で、藩祖は伊達政宗の長男である伊達秀宗だ。
豊臣家との関係が深かったことから本家を相続出来ず、紆余曲折あり宇和島の地に封ぜられた。
天守そのものは全国に12箇所ある江戸時代から現存する木造天守の一つであり(現存十二天守)、重要文化財として登録されている。











これは宇和島城の駐車場と道路を挟んで向かいにあるローカルチェーンの和菓子屋さんなのだが、このお店には思い出がある。
前回宇和島城を訪れた際、登城前だというのに昼食を食べ損ね臨時で栄養補給をしたのがこの一六本舗だった。
猛暑の中、ろくに昼食もとらずに登城して熱中症になっても困ると思い、ちょっとしたお菓子を食べた覚えがある。
何を食べたのかは忘れてしまったが、こういう思い出だけはいつまでも心に残っているものだ。
和霊神社

お次にやってきたのは、宇和島城よりもやや北側に位置する和霊神社だ。
祀られているのは伊達秀宗の命により殺害された宇和島伊達家筆頭家老の山家清兵衛という武士で、山家氏の祟りを鎮めるために建立された。
現在の社殿は昭和32年に再建されたもので、江戸時代の社殿は空襲により焼失している。
神社は焼けてしまった事は残念だが、空襲を受けながら宇和島城の木造天守が焼け落ちなかったのは奇跡と言っていいと思う。




大洲城

宇和島市内の観光を終え、松山へと帰る前に大洲城へ寄った。
大洲は松山と宇和島との中間地点に位置する市で、こちらも江戸時代からの城下町だ。
現存する四棟の櫓がいずれも重要文化財として指定されているほか、忠実に木造復元された天守が目を引く。
まずは最寄りである大洲市民会館の駐車場へと車をとめ、そこから坂道を登り城へと向かった。



坂を少し上がった所に立派な連結式天守が見えてくる。
これが大洲城の天守だ。
大洲城の天守は木造復元されたものだが、実は渡櫓で連結されている二つの櫓は江戸時代から現存するもので再建されたものではない。
一体的に美しく復元されているため、事前知識なしに外から見ると丸ごと全て復元されたように見えてしまう。
手前右側に写っている二重櫓は江戸時代から現存するもので、高欄櫓と呼ばれるものだ。
二階部分に外へ出るための廻縁と高欄という手すりが設けられていることがその由来であり、天守以外の櫓でこのような廻縁が設けられている例は珍しい。
現存するものではこの大洲城のほかに熊本城の宇土櫓しかないという。

天守を境に左側の二重櫓が高欄櫓、右側の二重櫓が台所櫓と呼ばれるもので、両櫓はいずれも重要文化財指定されている現存する櫓だ。
台所櫓は天守への入口も兼ねている。


城内へ入り、まずは最も距離がある高欄櫓へと向かう。

残念ながら廻縁には出られないような作りになっていた。

こちらが再建された大洲城天守の内部だ。
外から見ても木造復元か現存建築物か分からないが、内部から見ると木の明るさで再建されたものである事がはっきりわかんだね。
そして大洲城天守の面白いところは、何と言ってもこの一階から二階まで続く吹き抜け構造にある。
城内に吹き抜け構造を有する城など見たことがない。
少なくとも現存天守には存在しないのだ。

下から撮影すると見栄えもよく、上から見下ろすのも楽しい。
吹き抜け構造いいゾ~これ。
しかし、この吹き抜けという特殊な構造が仇となって明治時代に当時の天守は解体されている。
これは地震や水害等により土台の石垣などが歪んだことで天守そのものの構造に歪みが生じ、建物にいびつな形で荷重がかかってしまったことにより建築当初に計算された強度を維持出来なくなったのだという。
藩の財政難や武家諸法度による法規制もあり天守の補修などしている余裕はなかったようで、まともな補修が出来ずに老朽化した結果、ついに解体せざるを得なくなったそうだ。

このように忠実に木造復元された大洲城を見ていると、わざわざ来てよかったと思う。
戦後に再建された天守は鉄筋コンクリート造りの外観復元されたものが多く、内部はただの資料館や博物館と化していて感動は薄れる。
しかし、大洲城はそうした見せかけの再建ではない。
妥協なしの木造復元であり、本物に及ばないのは年季だけだ。
これこそが天守という、そのものズバリを見ることが出来る。
感動せずにはいられない。
ここはそういう「本物」が好きな人にとってもオススメできる数少ない城の一つだと思う。
大洲城の忠実な復元を可能としたのは、天守雛形と呼ばれる城の模型が残っていたからだという。
これは天守の修築にあたりその構造を立体的に把握しておくためのもので、現存する例は少ないそうだ。




天守から大州市街地に点在している現存の櫓を櫓を探してみる。
住宅に隠れて分かりにくいが、運動場の手前にうっすら見えるのが三の丸南隅櫓だ。
近くで見てみたかったが、天守から結構離れていて時間もかかりそうだったので見送っている。

天守と連結する高欄櫓と台所櫓、そして天守から離れた場所にある三の丸南隅櫓は分かった。
残る一基の現存櫓はどこにあるのかと思い探してみると、なんと堤防の上に建っていた。

街の情景にすっかり溶け込んでいて、これはこれで面白い。



伊佐爾波神社

大洲城を出て再び松山市内へ戻ってきた。
道後温泉のやや外れの高台に位置しており、長い石段がある坂道を登っていくことになる。
しかし、実はそんな事をしなくても神社の裏にはそこそこの広さの駐車場があるので、もちろん私は迷わず駐車場を利用した。

そんな事を言いながら、実は自分の足で石段の昇り降りもしている。





社殿は全体が回廊によって囲まれており、側面にも門が設けられていた。


これが伊佐爾波神社の正面、楼門だ。
全体を朱に彩られ、随所に極彩色の彫刻が施されており非常に美しい。
回廊と一体化した楼門も派手さを感じられる。
私はこういうド派手な神社が大好きなのだ。








奥の方の建物が本殿で、手前にある建物が申殿と呼ばれる祭祀のための建造物だという。
大きな神社は本殿の手前に拝殿があることが多いが、伊佐爾波神社に拝殿は設けられていなかった。





本殿の作りは前殿と後殿という二つの建物が一体化した造りとなっており、これを八幡造という。
八幡造の社殿は全国でも三例しかなく、他には大分県の宇佐神宮と京都府の石清水八幡宮しかない。
宇佐神宮は参拝しに行ったことがあるので、そのうち最後の一か所である石清水八幡宮にも参拝へ行きたいと思っている。
なお、社名に八幡の名を冠さないが、八幡造であることからも明らかなように当社は八幡神を祀る八幡神社なのだ。






日米和親条約が締結された年だ。





伊佐爾波神社へ参拝した後は一旦ホテルへと戻り車をホテルの駐車場に預け、これより先は路面電車で市内を移動することにした。



道路中央にある停留所に人が立っている。
尾張には普段の生活に路面電車が存在しないので、こうして路面電車が生活の足として活躍している光景そのものを物珍しく感じてしまう。
現地の住民にとってはただの足だろうが、私たちのような観光客にとっては路面電車に乗るという行為自体が観光アトラクションのようなものだ。

黒塗りで正面が流線型の近代的な車両がやってきた。
私は鉄オタではないので詳しくはないのだが、調べたところモハ5000形というらしい。


利用した路線は伊予鉄道松山市内線といい松山城を中心とした環状路線になっているほか、環状路線から分岐して道後温泉駅が設置されている。
JR松山駅からのアクセスも分かりやすく容易であるため、鉄道利用の観光客にとっての利便性も高そうだ。



こちらは先ほど乗車した2100形よりも古い昭和の車両で、内装からも相当なレトロ感を漂わせている。
近代的な車両もいいが、こういうレトロな車両も好きだ。
車両の外観は撮影しそこねてしまったが、運転台の写真で検索したところモハ50形という車両のようだ。
昭和26年から昭和40年までの間に製造された車両であり、最後に製造された昭和40年の車両でも半世紀以上経っているのが驚きだった。
松山に限った話ではないが、路面電車は更新が遅いのかどえらい古い車両と最新車両が併存している都市が多いように思う。




商店街に美味しそうなチーズケーキを販売しているお店があったので立ち寄ってみる。
店内飲食なのだが、チーズケーキをわざわざ木製の湯桶に入れて渡されるのがとてもユニークで面白い。


瀬戸内レモンの酸味がさっぱりとして、コクのあるチーズケーキとベストマッチ。
ごちそうさまでした。

3年前に訪れた際は工事中だった道後温泉本館だが、なんとまだ工事が終わっていなかった。
さすがにいつまでやっているんだと思わざるを得なかったが、調べてみると私が訪れてからわずか5か月後の令和6年7月11日にすべての工事が終了したとあり、タイミングが悪かっただけのようだ。


道後温泉の商店街でお土産などを買い、帰りにすき家で牛丼をテイクアウトしてホテルへと戻った。
買ってきたみかんのお酒で晩酌をしながらリンクラの活動記録を読む。
贅沢な時間だ。

松山城

いよいよ三日目、これが最終日だ。
最後の日は、これまた二度目となる松山城を見てから帰路につくことにした。

松山城天守は勝山という小高い山の頂上にある。
徒歩で登ることも可能だが、標高約130メートルを歩いて登るのはさすがにきついので、ロープウェイかリフトで登るのが一般的だ。




天守のある山頂へと向かう。
右に見えている櫓は復元された巽櫓だ。

(昭和61年復元)




(昭和48年復元)

これは太鼓櫓の下から撮影した天守だ。
松山城は天守の周りを渡櫓などで囲まれた連立式天守ゆえに、近距離から見ると天守が渡櫓で隠れてしまう。
そのため、天守を正面から見栄えよく撮影するためには距離をとる必要がある。
太鼓櫓の下はちょうど遮蔽物もないので、天守を正面から撮影する絶好のポイントでもあるのだ。


(重要文化財)
戸無門は復元されたものではなく江戸時代から現存する門で、当初より戸(扉)が無かったという。
これは進行してきた敵を誘い込むためのものだろう。
そう、この先の筒井門で。

戸無門を過ぎた場所にはあるのは、一般的な「戸有り」の門である筒井門だ。
しかし、この筒井門にはちょっとした仕掛けがある。
手前に突出した渡櫓が邪魔をして分かりにくくされているが、実は奥の空間にはもう一つの門があるのだ。
それがこの隠門だ。

(重要文化財)
こちらも江戸時代から現存する建造物で重要文化財に指定されている。
筒井門で行く手を塞がれ足止めされた敵軍に対し、この隠門から兵を出して後背から襲撃するのだ。
防備のための門というよりは攻勢に出るための門だと言っていいだろう。
もっとも、広い目で見たら防備ではあるが。

筒井門を抜けると広い場所へ出るが、この先にも更に太鼓門が待ち構えている。
この太鼓門を抜けた先にある広い空間が本丸だ。

ようやく天守まであと少しというところへたどり着いた。
天守の全景をやや斜めから見ることが出来るこの位置は大変見映えがよく、松山城でも一番のフォトスポットだと思っている。



券売所から歩き、最初の門である一ノ門の手前から大天守を見る。
このように間近で見ると上半分しか見えない。
松山城は連立式天守で規模は大きいが、天守そのものは三重三階(地下一階)とさほど高くないことに起因するのだろう。
例えば、同じく現存する連立式天守である姫路城の天守ではそのような事は感じない。
両者の天守の高さを比較すると、松山城が約20.1メートルであるのに対して姫路城は約46.5メートルと倍以上の差があるのだ。
天守台の高さに至っては松山城が約4.1メートルに対して姫路城は約15メートルもあり、実に4倍近くの差がある。
櫓の配置なども異なるので高さや大きさだけではないが、いずれにせよ松山城の大天守は下半分が見えにくいという事実は変わらない。









三ノ門を過ぎると筋鉄門が現れる。
正面の筋鉄門は再建されたものだが、左にある筋鉄門東塀は江戸時代から残る現存建造物で重要文化財だ。

左に見えるのが北隅櫓、その右に見える向唐破風の屋根は天守の玄関だ。
立派な玄関だが立入禁止となっており、ここから天守へ入ることは出来ない。
本来玄関から出入りすることを許されるのは地位や身分が高い者だけだったことを思えば、我々のような庶民が玄関からの出入りを許されないのは当然なのかもしれない。




この天守台に切り抜かれた入口の中は天守の地下一階にあたる部分で、穴蔵と呼ばれる倉庫として使用されていた空間だ。
ここにある下足箱に靴を入れてスリッパを履き、階段から天守へと上がっていく。





松山城の連立式天守は現存する建造物と復元された建造物が混在している。
大天守はもちろん現存するものだが、それ以外の櫓や塀、門は復元されたものも多くあるのだ。
たとえば小天守や北隅櫓などは復元された建造物なのだが、綺麗に復元されて溶け込んでいるため素人が見ても全く見分けがつかない。
当時から現存しているものに価値があると思う反面、こうした修復事業の凄さには舌を巻く。
ゆえに国の登録有形文化財となっているのだろう。
これが今後の歴史として蓄積され、いずれは重要文化財として指定される日も来るかもしれない。

(北側)





石鎚山ハイウェイオアシス

松山城を出て松山道に乗り帰路につく。
休憩を取るために石鎚山SAに入ってみるとハイウェイオアシスが併設されており、せっかくなので寄ってみる事にした。
最初に目についたのは巨大な円形状の商業施設だ。
何かと思って近くへ行ってみると、なんとアウトドア用品店のmont-bellだった。



石鎚山ハイウェイオアシスにあるmont-bellは「モンベルアウトドアオアシス石鎚」という名前の複合施設となっているそうで、アウトドア洋品の販売だけでなくボルダリングなどの体験も出来るようになっていた。
ここでスポーツを体験してもらって興味関心を惹き、スポーツ用品等を買うきっかけにして欲しいのだろう。
建物の内側には人工の滝も再現されており、アウトドアを意識したmont-bellらしい作りだと感じた。

なお、私は全く知らなかったが、石鎚山は標高1982メートルの西日本最高峰の山だった。
アウトドア用品とも縁があるわけだ。
中部地方に住んでいると富士山をはじめ2000メートル級の山岳地帯が林立する飛騨山脈や赤石山脈などがそこら中にあるため、他の地域の山が低く思えてしまうことがある。
だからこそ中部以外では滅多に目にすることがない2000メートル級の山が四国にあったことに驚いてしまった。
世の中は本当に知らないことだらけだ。





さいごに
愛知県からは決して近いとは言えない愛媛県だが、意外と愛媛県を訪れている回数は多かった。
令和3年に四国の現存天守と紫電改を見るために旅行したのを皮切りに、本記事で書いた令和6年2月の旅行、そして同年11月には大分へ行った際に愛媛経由でフェリーを利用している。
直近では本年(令和8年)2月に芸予諸島を回っているほか、7月には宮崎へ行くために愛媛経由でフェリーを利用する予定もある。
実は愛媛県とは縁があるのかもしれない。


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令和3年(初・愛媛)
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令和6年11月(二度目の愛媛)
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令和8年2月(三度目の愛媛)
