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2000年の日本と1歳の息子 ― 日比谷線脱線事故・雪印食中毒・世田谷一家殺害事件の年に守られた家族の時間

2000年という年を振り返るとき、
まず思い出すのは、社会全体が絶えず軋んでいたという感触だ。
3月、日比谷線で電車が脱線し、都市という巨大なシステムが実はこんなにも脆いものだったのかと、多くの人が肌で知った。
あの日、ニュースで繰り返し流れる現場の映像を見ながら、毎日当たり前に乗っている電車というものへの信頼が、音を立てて崩れていくのを感じた人は少なくなかったはずだ。
普段は車で動くことの多かった僕でさえ、
たまたま電車で出かける用事があるたびに、
扉の閉まる音や車輪の振動にしばらく敏感になっていたのを覚えている。
同じ3月には北海道で有珠山が噴火し、
夏から秋にかけては三宅島も噴煙を上げ続けて、島民は長期の避難生活を強いられた。
テレビには火山ガスのマスクをつけた住民の姿が映り、自然というものが、いつでも人間の生活を一瞬で奪い得るのだということを思い知らされた。
全島避難という言葉をニュースで初めて真剣に
聞いたのもこの年で、住み慣れた場所を丸ごと
手放さなければならない人々がいるという事実が、妙に生々しく胸に残った。
5月には西鉄のバスが少年に乗っ取られるという事件が起き、少年犯罪という言葉がニュースの
たびに重く繰り返された。
当時すでに父親になっていた僕は、その種の
ニュースを以前とはまったく違う感情で見るようになっていたことを覚えている。
加害者にも被害者にも、誰かの息子という背景があるのだと思うと、画面の向こうの出来事が、
急に自分の生活と地続きのものに感じられた。
6月には雪印の集団食中毒事件が発覚し、
子供の頃から信頼していた大企業のロゴが、
急に疑わしいものに見え始めた。
スーパーの棚から牛乳パックが消えていく光景は、安全だと信じていたものが一夜にして疑わしいものに変わる、その速さを象徴していた。
生鮮を扱う仕事をしていた身としては、その一件はどこか他人事には思えず、安全とか信頼とかいうものが、案外あっけなく崩れるのだという
緊張感を、現場の感覚として受け取っていた気がする。
そして年の瀬、世田谷で一家が殺害されるという、未だに解決していない事件が起きて、その年は静かに、しかし不穏な後味とともに終わった。家族という、いちばん守られているはずの場所が、いちばん無防備でもあるのだという事実を、誰もが突きつけられた一件だった。
あの事件の報道を見ながら、自分の家の鍵をもう一度確かめたという人は、きっと僕だけではなかったはずだ。
事件や事故だけではない。
バブル崩壊から続く「失われた10年」はこの年もまだ底を打たず、リストラと倒産のニュースが
日常の一部になっていた。
就職氷河期という言葉がもっとも切実な響きを
持っていたのもこの頃で、同世代の何人かが、
希望していた進路を諦め、望んでいなかった場所で働き始めるのを横目で見ていた。
久しぶりに会った友人が、以前とは別人のように疲れた顔で「贅沢は言ってられない」と笑っていたのを、今でもふと思い出すことがある。
居酒屋で交わされる会話も、景気のいい話より、会社が危ないだの、ボーナスが出なかっただのという話のほうが圧倒的に多かった時期だ。
その一方で、インターネット関連の企業だけが
妙な熱を帯びて急成長し、社会の中に静かな分断が生まれていくのも感じていた。
携帯電話はiモードの普及によって、もはや電話ではなく生活そのものに変わりつつあった。
電車の中で小さな画面を覗き込む人の姿が、
少しずつ珍しくなくなっていった年でもある。
テレビは黄金期の名残のなかでまだ強い力を持っていたが、どこかマンネリの気配も漂い始めていた。
音楽はCDがいちばん売れていた時代で、
宇多田ヒカルや浜崎あゆみ、ミスチルやGLAYの新曲が、街じゅうのどこにいても流れてくるような感覚があった。
映画館では『バトル・ロワイアル』や
『ホワイトアウト』が話題を呼び、3月にはPS2が発売されて、ゲームという娯楽がまたひとつ新しい時代に入っていった。
発売日に行列ができたというニュースを見ながら、自分にはもう、そんな時間も余裕もないのだと、少し寂しく、けれど不思議と悪くない気分で眺めていたのを覚えている。
子供を抱えてゲーム機の行列に並ぶ生活というのは、もう僕の側にはなかった。
アナログがゆっくりと終わり、
デジタルがゆっくりと始まる、ちょうどその
境界線にこの一年は位置していたのだと思う。
社会の外側がそうやって絶え間なく揺れているあいだ、僕の家の中には、1歳になったばかりの息子がいた。
世界がどれほどニュースで騒がしくても、
家の中の時間はいつも静かだった。
妻と息子と僕の、三人だけの小さな生活。
よちよちと数歩歩いては尻もちをつき、それでも嬉しそうに笑う息子の姿が、その年いちばんの
ニュースだったと言ってもいい。
小さなケーキにロウソクを一本だけ立てて、
たいして意味もわかっていない息子の前で歌を
歌った夜のことは、世田谷の事件よりも
雪印の事件よりも、ずっと鮮明に記憶に残っている。
誰に誇るでもない、ただそれだけの毎日が、
外の不穏な空気とは別の場所に、確かに存在していた。
仕事では相変わらず、会社からも、一族からも、本人たちにはおそらく悪意の自覚すらない種類の圧力やイジメのようなものが続いていた。
理屈の通らない言いがかりや、聞こえよがしの
嫌味、当然のように押しつけられる無理な役割。誰かを傷つけている自覚のないまま、
平然と人を追い詰めてくる人間がいるということを、僕はこの頃すでに嫌というほど知っていた。それでも、家に帰れば、そこには戦わなくていい場所があった。
息子の寝顔があり、妻の声があり、
何も証明しなくていい時間があった。
外では絶えず何かと戦い、家では何も戦わなくていい。
その振れ幅の大きさこそが、2000年という年を、今になってより特別なものとして記憶させているのだと思う。
社会が震え、未来が見通せず、誰もがどこかで
不安を抱えていたあの年に、僕の家族はただ静かに、確かにそこにあった。
事件や事故のニュースを見るたびに、自分の家庭がどれほど脆くて、けれどどれほど守られていたかを思い知らされた一年でもあった。
今こうして振り返ってみると、あの年に何か特別な出来事があったわけではない。
むしろ、何も起きなかったということ自体が、
奇跡に近い一年だったのだと気づく。
息子が1歳の誕生日を迎え、家族三人で過ごす毎日が、ただ淡々と積み重なっていった。
それだけのことが、
当たり前ではなかったのだと、今ならわかる。
世界がどれほど軋んでいても、
安息のうちに一年を送れたことが、
何よりありがたかったのだと、
26年が経った今、ようやく言葉にできる気がする。
あの頃は気づかなかったが、静かであることそのものが、すでに十分すぎるほどの幸福だったのだと、今はわかる。
事件のニュースも、不景気の話題も、
新しいゲーム機の行列も、当時は等しく「世間」という大きな出来事として僕の目の前を通り過ぎていっただけだった。
けれど振り返ってみると、
それらはすべて、
息子の小さな寝息という、
たった一つの確かなものを際立たせるための
背景に過ぎなかったのだとさえ思える。
世界がどれだけ騒がしくても、自分の家の中までは届かなかった、あの頃の静けさをもう一度思い出すたびに、ありがたさで胸が詰まる。
何も持っていなかったようでいて、
本当はいちばん大切なものを
すでに手にしていた、
そんな一年だった気がしてならない。
2000年は、僕にとって、静かな幸福の年だった。


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nao46222 チップをありがとうございます。 そのまま宝にしておきます。^_^