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2004年、自己責任論の時代に家族を守った話|朝4時の市場と抱っこ紐の記憶

2004年という年を思い出すとき、
まず浮かぶのは朝4時の市場の匂いと、
まだ暗い空の色と、吐く息の白さだ。

年金未納問題で政治不信が噴き出し、
イラク人質事件をきっかけに自己責任論が社会全体を覆い、長時間労働が歴史的なピークを迎えていたその年、自分は毎朝4時に市場へ出勤し、
夕方どころか夜9時を回ることも珍しくない生活を送っていた。
市場の空気は独特で、セリの声、
フォークリフトのエンジン音、段ボールを積み上げる音が入り混じり、まだ頭も体も起き切っていないうちに一日が始まる。
荷物を積んだトラックのディーゼルの匂いと、
朝露で湿った段ボールの匂いが混ざり合って、
あの時間帯特有の空気を作っていた。
経営者である親父たちは
根っからの昭和の精神論の人間で、
「寝ずに働け」
「従業員の見本になれ」という言葉が、
まるで挨拶のように当たり前に飛んできた。
休むという発想自体が、あの職場には存在しなかった。
体調を崩しても、代わりがいないという理由だけで市場に立ち続けた日が何度もあった。
従業員は自分より年上の人間ばかりで、
親父がいる間は誰もが忙しそうに立ち働くが、
親父がその場を離れた途端、荷台の陰でタバコを吸い始めたり、休憩室に引っ込んだりする者が
何人もいた。
積み残した荷物は結局自分が一人で運び込むしかなく、気づけばトラック一台分の荷降ろしを
ほとんど一人でこなしていた日も少なくない。
労働基準法という言葉は知っていても、
それが自分の生活に適用されている実感は一度もなかった。
給料が労働時間に見合っているかどうかを考える余裕すらなく、ただ体を動かし続けることだけが日常だった。
労働の過酷さに追い打ちをかけたのが、
担当していたスーパーの担当者制度の崩壊だった。
担当者は不真面目で店に週3回しか出てこない。発注は出鱈目で、棚は穴だらけになり、
傷んだ商品を平気で返品してくる。
電話をかけても繋がらない。
折り返しの連絡もない。
当然、売上は落ちていく。
だがその制度の欠陥は、なぜか自分個人の責任として扱われた。
親父は現場の実情を知らず、
「皆んな頑張って売ってるのに、お前は何をしてるんだ」と怒鳴る。
その言葉を浴びるたびに、何をどう説明しても
言い訳にしか聞こえないのだろうという諦めが
先に立った。
従業員たちも自分の数字を守るために、
平気で自分を犠牲にした。
誰かが尻拭いをしなければ現場は回らず、
その誰かはいつも自分だった。
棚の穴を埋めるために自分の持ち場を離れ、
担当者の代わりに発注を組み直し、
それでもクレームが来れば矢面に立たされる。
あの年、社会全体を覆っていた自己責任論が、
そのまま職場にも流れ込んできているのを、
当時の自分は肌で感じていた。
ある日、担当者への電話がまた繋がらず、
仕方なく自分一人で棚を作り直しに店へ向かった帰り、車の中で親父から電話が入った。
「今日の売上、聞いたぞ」。それだけ言われて、
電話は切れた。
何がどう悪かったのか、説明する機会すら与えられなかった。
誰も助けてくれないという感覚だけが、
日に日に濃くなっていった。
そんな日々の中でも、
一度だけ忘れられない夜がある。
帰宅が深夜近くになったある晩、
力尽きるようにリビングで座り込んでいると、
隣の部屋で寝ていたはずの娘が泣き出した。
抱き上げに行くと、まだ半分眠ったままの
小さな手が、確かめるように自分の頬に触れた。
それだけのことなのに、その日一日の疲れが
一瞬だけ消えたのを覚えている。
それでも毎朝4時に起き上がれたのは、
家に妻と2人の子供がいたからだ。
息子は4歳、娘は1歳だった。
自分が朝から夜までいない間、
妻は娘を抱っこ紐で括りつけて息子を幼稚園へ
送り出し、午後2時にはまた同じスタイルで迎えに行っていた。
雨の日も、体調が悪い日も、天候や体調に関係
なく毎日同じルーティンを一人でこなしていた。
完全なワンオペ育児だった。
自分が家を出るとき、まだ子供たちは眠っていて、帰るときにはすでに眠っている。
顔を見られる時間は、ほとんどなかった。
休みの日でさえ、疲れ切って寝てしまい、
気づけば子供たちと過ごせる時間はわずかしか
残っていなかった。
2004年という年は、子育て支援というものが
ほとんど存在しない時代でもあった。
人口減少社会の入口にあたるこの年、自然増が
続いていた最後の年でもあったのに、若い家庭を支える仕組みは何もなく、家庭の負担は極端に
大きかった。
自分たちの生活は完全に自分の労働に依存していて、どちらかが倒れたら即座に破綻する、
そういう構造の上に成り立っていた。
当時はそれを不安に思う余裕すらなく、
ただ目の前のことをこなすだけで精一杯だった。妻が一人で2人の子供を抱えながら日々をこなしている間、自分は市場と店の板挟みで身動きが
取れずにいた。
今思えば、
あの頃の家庭はいつ崩れてもおかしくないほど、細い糸の上に乗っていた。
同じ年、
ラジオのニュースではYahoo!BBの情報漏洩やWinny開発者の逮捕が繰り返し流れ、
秋には新潟県中越地震が起きた。
市場と店を往復するだけの毎日の中では、
それらはどこか遠い出来事のように耳を素通りしていった。
だが今思えば、あの年は自分の生活だけでなく、社会のあちこちで見えない綻びが同時に表面化していた年だったのだろう。
前年の2003年は、
文化が異様に豊かな年だった。
『座頭市』の身体性、深夜アニメの台頭、
『白い巨塔』や『GOOD LUCK!!』といったドラマの黄金期、J-POPが最後の大衆性を持っていた
時代。
あの年の文化の豊穣さは、今振り返れば社会の
ストレスの裏返しでもあったのだと思う。
文化が身体性と大衆性と共同体性を強く持っていたその翌年に、社会の構造的な問題が一気に噴き出した。
年金問題、自己責任論、長時間労働、情報漏洩、新潟県中越地震、そして子育て支援の不在。
抽象的な社会史の言葉として語られるそれらの
すべてが、当時の自分の生活にはそのまま、
しかも同時多発的に降りかかっていた。
2003年から2004年への移行は、
断絶ではなく、
表層と深層が連続した一枚の地層だったのだと、今なら言葉にできる。
だが、
その地割れの真ん中にいたとき、
自分を支えていたのは社会でも制度でもなかった。
従業員から馬鹿にされても、親父から怒鳴られても、担当者から無視されても、
家に帰れば妻と2人の子供がいる。
その一点だけで、また次の朝4時に起きられた。労働も、担当者との軋轢も、社会の空気も、
振り返ってみればすべては家族を守るための背景でしかなかった。
抱っこ紐で娘を括りつけたまま幼稚園の送り迎えを一人でこなしていた妻の姿を思い出すと、
自分が耐えていた過酷さなど、実は半分でしかなかったのではないかとさえ思う。
どちらかが倒れたら終わりという緊張感を、
あの頃の自分たちは日常として生きていた。
それでも当時は、それを大変だと言葉にすることすら思いつかなかった。
ただそういうものだと思って、毎日を繰り返していただけだった。
休みの日に子供たちの寝顔を見て、
また明日も同じ一日が始まるのだと分かっていても、不思議と絶望はしなかった。
そこに家族がいるという事実だけで、
次の朝が来ることを受け入れられた。
今こうして言葉にできるのは、あの頃は言葉に
する余裕すらなかったからだ。
生活史は社会史の一次資料だと言われる。
年金未納も、自己責任論も、長時間労働も、
子育て支援の欠如も、人口減少社会の入口も、
教科書的には社会史の一項目にすぎない。
しかし自分にとっての2004年は、
社会史である以前に、まず家族史だった。
朝4時の市場も、繋がらない電話も、怒鳴り声も、すべては家に帰るための通過点にすぎず、
その先にいつも妻と2人の子供がいたから、
あの年を歯を食いしばって越えることができた。2003年の文化的な高揚の翌年に起きた社会の地割れの中心で、自分の家族はただ静かに、
しかし確かに、そこに存在し続けていた。
今振り返ってようやく分かるのは、
あの過酷さを支えていたのは根性でも義務感でもなく、ただ単純に、家族という存在そのものだったということだ。
あれから20年以上が経った今、
あの朝4時の匂いを思い出すたびに、
真っ先に浮かぶのはやはり、抱っこ紐で娘を括りつけて幼稚園へ向かう妻の後ろ姿と、
まだ何も知らずに眠っていた息子と娘の寝顔なのだ。
あの年を思い返すとき、
もうひとつ忘れられないのは、
市場から店へ移動する車の中でのわずかな時間だ。
信号待ちの数十秒だけが、唯一頭を空にできる
瞬間だった。
ラジオから流れるニュースは決まって年金問題かイラク人質事件の続報で、自己責任という言葉が繰り返されるたびに、なぜか自分のことを言われているような気分になった。
担当者に電話が繋がらなかった日の帰り道、
信号待ちの間にふと、このままではいつか身体か家庭のどちらかが壊れるという予感が頭をよぎったことを覚えている。
それでも次の交差点を曲がれば、
また店の仕事が待っていて、
考える時間はすぐに終わってしまう。
家に帰り着くのは
いつも子供たちが寝静まった後だった。
玄関を開けると、妻はまだ起きていて、
その日あった些細な出来事を短く報告してくれる。
息子が幼稚園で何を話したか、
娘が新しく覚えた仕草は何か。
そういう話を聞いている数分間だけが、
一日の中で唯一、
市場でも店でもない自分に戻れる時間だった。
妻はその短い時間の中でも、
翌朝の抱っこ紐での送迎の準備を欠かさなかった。
天候が悪い日は前日のうちに雨具を用意し、
娘の機嫌が悪い日はあやしながら家事をこなす。誰に褒められるでもなく、誰に手伝ってもらえるでもなく、それを毎日繰り返していた。
今振り返ると、
2004年という年は、自分にとって二重の意味での地割れの年だったのだと思う。
ひとつは社会史として語られる、年金や労働や
自己責任論としての地割れ。もうひとつは、
それに気づく余裕すらないまま、家族という最小単位の共同体だけで何とか踏みとどまっていた、自分自身の内側の地割れだ。
あの頃はその二つを分けて考えることすらできなかった。
ただ、朝が来れば市場へ行き、
夜が来れば家に帰る。
その繰り返しの中に、
社会史も家族史も、
区別なく溶け込んでいた。

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nao46222 チップをありがとうございます。 そのまま宝にしておきます。^_^