ファミリーヒストリーを調べよう!⑤旧樺太編続き!
旧樺太の現地調査の続きです。
前回まではこちら。
終戦直後、というか、旧樺太はそれから1週間、修羅が続いた。母たちが住んでいた内淵炭鉱のあたりも爆撃があり、職場の事務室がやられている。逃げる住民の足は鉄道だったが、港まで辿り着けずに足止めされた私の親族たち(祖母、伯母二人と母)は西海岸の港町、旧本斗(ネベリスク)に落ち着いた。海岸に面した細長い町の外れの方に家があったという。平地が少なく、線路のすぐ向こうに山が迫っている地形で、学校が線路を超えた山際に建っており、母たちは冬はスキーで登校したそうだ。その場所は今は学校と変電所が建っている。



母の思い出にある、銀杏を拾った神社の場所には教会が建っている。敷石や狛犬などの跡が残っている。司祭さんと母や日本時代の話をした。こんな島の田舎町にロシア革命による宗教弾圧を潜り抜けたイコンがあり、ロシアにはロシアの壮大な歴史があるようだ。

教会のそばに参道があったが、ここを上る母たちの姿が見える気がした。

旧本斗から旧真岡に移り、引き揚げを待った母たち。その収容所は学校が使われたが、今もその場所には学校がある。そこから真岡港がよく見える。



訪れたのは5月だが、およそ80年前の同じ頃に母たちはこの島を脱出し、故郷の北海道に戻っていった。
⑤函館市
引き揚げ船は函館港に着いた。着岸したのは、午後3時、晴天だったとの記録を見たことがある。
函館西港、目の前に函館山が見える場所だ。




そこからほど近い場所に検疫所があり、ここでDDTを頭からかけられ、驚いたと聞いている。その場所は今はカフェ。外人墓地に近い場所だ。
母たちは援護寮に収容されたが、その場所は今の千代の台。プールの近くには、裏門が残っている。
⑥豊富町
ここから、母たちは受け入れ先である、道北の豊富町に移っていった。
母は小学校高学年。祖母の兄弟が営む肉屋の2階に暮らしたという。同じ場所に同じ名前の美容院があるので、多分そこに居たのだろう。学校にも近い。

母は栄養失調で皮膚炎を起こしており、豊富の温泉でそれを癒したのだそうだ。
私は豊富温泉が大好きだが、母には辛い思い出の場所のようである。
肩身の狭い暮らしの中で、母は教科書もないのに勉強を頑張り、末娘なのでとても愛されてそだったようだ。
その生活も一区切りし、長兄家族の待つ名寄に戻ることになった。
現地調査はまだ続きます。
