ファミリーヒストリーを調べよう!④旧樺太編
そんなわけで、新天地を求めて名寄から樺太に渡った祖父母と伯父伯母、そして母であった。時は1939年頃であろう。宝の島、樺太は平和だったそうで、後に伯母が札幌に修学旅行に来ただの、祖父が日本各地を旅してまわっただの、聞いている。
祖父は、日露戦争の年金で悠々自適、酒浸りの暴れ者になっていたようで、生計は長兄が立てていたようだ。
④旧樺太
名寄の日進から稚内までは汽車で。

そして稚内から旧大泊(コルサコフ)へ船で。

そこからまた汽車で主都旧豊原(ユジノサハリンスク)を通って、旧落合町(ドリンスク)に向かった。
落合には大きな製紙工場があり、まずはそこで職を得たものと思われる。今は廃墟に見えるが、一部お湯の工場として稼働しているそうな。

工場の付近が当時の市街地。そこから川沿いに少し離れた場所が、戸籍から調べた本籍地である。人の手が入ったあとはあるが、何も無い。早春に訪れたので水芭蕉が生い茂っていた。

母たちが通った落合第二国民学校の跡が残っている。奉安殿だ。近く、日本時代の遺物として保存、移築されるという。

その近所に呉服屋さんの建物がのこっている。しかし、繁華街の面影は全く無い。

今の市街地は線路を挟んだ反対側である。市街地に少し小高い丘があり、落合神社が建っていた思われる場所に、教会が建っていた。どうも、聖なる場所というのは古今東西同じなのか、神社のあった場所に教会があるのである。落合にいたのは母によると2年程度だったらしく、その後はさらに奥地の旧内淵に移っていった。炭鉱町である。

ここを訪れた時には、祖父母伯父伯母たちの中で何人かが炭鉱で職を得ていたことを知っていた。坑内労働ではなく、馬の世話とか事務職だったようだ。
そんな内淵の資料は探すことができず私にとっては未知。ガイドさんと車でさらに奥地に向かった。
かつては鉄道が通っていたこの道だが、数年前に廃線してしまい、今では駅の遺構を残すばかり。この鉄道から引き込み線が延び、炭鉱跡が広がっている。門とか事務所とか、ソ連時代の廃墟だ。一部、稼働している様子があるが、廃坑といって良いだろう。
そんな旧内淵炭鉱から坂道を上ると町がある。今はブイコフという町である。何となく夕張を思い出す。バスターミナルの周りが市場になっていて、町の中心に役場と学校がある。日本時代も同じような街並みだったのかもしれないが、資料が何も無い。町の資料館は定休日だったので残念だ。
母が遺した写真の中に、川べりの景勝地で撮った集合写真があった。市街地から歩いて5キロ程度の場所にそれはあった。子どもの足でも行ける場所だが、結構な急流である。

なお、そこから先にも奉安殿がある場所があり、日本時代に相当奥地まで開拓が進み、多くの人が住んでいたことがわかる。

次に向かったのは、祖父が葬られた場所、墓地である。サハリンでは日本時代の墓所をそのまま墓地として使っていることが多い。ブイコフの墓地は町外れにある。日本語の墓標を探してみた。一基あった。それよりもハングルの墓標が多いことに驚く。享年を見ると、母たちと同世代だ。私の伯父伯母の同僚だろうか。祖国に帰れず、この土地で亡くなった人たちかもしれない。結局、この地で一人残され亡くなった祖父の痕跡は見つけられなかったが、美しい谷に咲く水芭蕉を墓標とすることにした。

ソ連の攻撃が樺太に及ぶ頃、祖父母たちは内淵にいた。7人兄弟のうち次男は他界、長男と長女は結婚、三男は北千島に出征、母と伯母2人の3人姉妹と祖母の4人で避難したようだ。飲んだくれで病身の祖父は内淵に残され、帰国できずにこの地で亡くなっている。だから、この駅は別れの駅だ。

現地調査はまだ続きます。
