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季節の彼方でまた会いましょう #15 余花


季節をたどる(各話一覧)



2023年 初夏 千帆 ―余花―


その日の空には、雲間から差す陽の光が白い斜線を描いていた。 

事務所の中では、貞方さんが数冊のカタログを抱え、朝から行きつ戻りつしている。
移転してから部屋数が増えたのに、新しい面談室に飾る絵を今まで買いそびれていたのだそうだ。

「僕はどうも絵心がなくてねぇ。誰か代わりに選んでくれんかな。
品が良くて、気持ちが和むようなのが、いいんだけどね」

カタログを開いてみると、ヨーロッパの街角の風景や富士山、抽象画などが並んでいたが、どれも皆ありきたりに見えた。

「……いまいちですね」

偶然通りかかった彼が、横から覗き込んでぼそりと言う。
その無遠慮なもの言いに、貞方さんがしめしめとばかり口の端を吊り上げた。

「そんなに言うなら、皓汰、お前に選ぶの任せるよ」

彼は「えっ」と一瞬たじろいだ。
それから「一人じゃ時間が足りないな……」と呟くと、おもむろに後ろにいた私を振り返った。

「ちょっと、手伝ってもらえますか」

共用テーブルにカタログを並べ、無言のまま順番に見ていった。
彼の好みははっきりしていて、興味のないページはほとんど見もせず飛ばしていく。

ときどき手を止めて眺める絵は、贔屓目を抜きにしても、どれもほかのページより際立って見えた。
そんな意外な横顔に驚いていると、目を通し終えた彼が、

「どれがいいと思いますか」

いくつか付箋のついたカタログを、私の方へと押しやった。
彼がしばらく眺めていた、私も気になっていたページを探して開く。
輝きを抑えた金色と焦茶を基調にした、温かみのある風景画だった。

両脇を煉瓦塀に囲まれた並木道。黄金に色づいた葉と、遠くを歩くセピア色の人影とが、静かに溶け合っている。
見ていると、不思議と呼吸が穏やかになる。

「私は、この絵がいいかと……」

彼は、わずかに目を見開いた。

「じゃあ、これで」

そう言って、あっさりその絵に決めてしまった。



数日後、給湯室で来客用のカップを洗っていると、ふいに彼が現れた。
手にコンビニの袋を下げている。
少し微笑んで、黙ったまま洗い物を続ける。

彼はごみ箱に袋を入れると、そのまま立ち去りかけた。
それからふいに足を止め、戻って来ると、唇を開きかけた。

そのとき、廊下の向こうから硬い靴音が近づいてきた。
彼は再び口を閉ざすと、足早に立ち去っていった。

声にならなかった言葉は、唇の形のまま消えた。



春から夏へ差しかかる頃。
人々の服の色は明るくなり、街路樹は軽やかに風に揺れていた。
オフィスの植物たちも、陽射しを浴びてゆったりと葉を広げている。

なのに私だけは、水を絶たれた枝のように朽ちかけていた。

このところ雨宮さんは、私とは目を合わさず、話しかけても返事もしない。
入ってまだ一年ほどの私にとって、彼女の指示や許可を得ずにできることは多くない。
仕事の大半ができなくなり、今の私は、ただの電話番の置き物だった。

毎日、書棚を整え、汚れてもいない机や棚を拭いて過ごした。
すぐ隣から、雨宮さんの無言の憎しみが、絶え間ない波のように押し寄せてくる。
私は少しずつ、呼吸の仕方を忘れていった。

でもどこか、彼女を恨みきれない自分もいた。

私も、同じだったから。
彼女はもう一人の私だった。
違いは、隠すか隠さないか、ただそれだけ。

彼の沈黙、彼女の憎悪、そして、朽ちていく私。
じりじりと、細い糸が、張り詰めていく――。



「……もう、辞めようかな」

夕食のあと、ひとしきり愚痴をこぼしてからぽつりと漏らした私に、それまで黙って聞いていた夫はあっさりと言った。

「いいんじゃない」

「……えっ?」

思わず俯いていた顔を上げた。

「うちはそんなに困ってるわけじゃないし。
仕事なんて、またゆっくり探せばいいさ」

夫はそれだけ言うと、食べ終わった食器を持ってきて流しに置いた。
口下手な夫が言いたいことは、言葉少なでも分かった。

愚痴の理由は、ただの先輩のいじめだと、夫には話していた。
夫は私の知る限り、一番優しい人だ。
出会ったときから今まで、夫以上に善良な人を見たことがない。

そんな夫を欺いて、しかも心配をかけている……。

正直に、言えたなら。
全部打ち明けて、泣いて謝ることができたなら。

けれど、そうすればきっと、失くしてしまうのだろう。
夫も、子どもも、すべてを。
そんなこと、考えることすらできなかった。

……なのに気がつくと、昼も夜も、彼の眼差しを探してしまう。

蛇口に映る自分の顔がぐにゃりと歪んで、目を背けた。
――彼のそばに、居てはいけない。
これ以上……。



梅雨入りも間近な頃、少し早めの暑気払いの話が持ち上がった。
私はその頃、ここを去る意思を固めかけていた。
だからその前に、何かの形が欲しかった。
何か、ささやかでも、確かなものが。

言葉でも、合図だけでもよかった。ほんのひとかけらでも。
それを抱えて、生きていければ……。


暑気払いの数日前、梨沙ちゃんと昼休みに雑談しながら、わざと声を高くした。
彼はきっと、いつものように耳をそばだてている。

「恥ずかしいけど、四月のお花見のときは、酔ってコートをお店に忘れちゃったのよね」

「ええっ、そんなに酔っ払ったんですか?」

梨沙ちゃんは目を丸くして、ことさらに驚いてみせる。

「うん、しばらく飲まないうちに、すっかり弱くなってたみたい。眠くて仕方なくて、途中で帰ったの。なんか寒いな、って思ってたら、福山さんがコートを持って追いかけて来てくれて。だから、次は気をつけなきゃ」

そこへ、たまたま通りかかった野中さんが、

「いやぁ、見た目はぜんぜん普通でしたよ。コート忘れて帰ったのには、びっくりでしたけどね」

眼鏡の下の丸い頬を、さらに盛り上げてにやりと笑う。

「もう、そんなに何度も言わないでください」

梨沙ちゃんと野中さんの、笑い声が響く。
彼はきっと、苛立ちながら聞いている。


暑気払いの会場は、職場近くの和食の店だった。
その日、彼は出張だったのに、わざわざ遅れて現れた。
飲み会嫌いの彼がどうしたのかと、その場の誰もが驚いた。
私は、その訳を知っていた。

それなのに、くじ引きでたまたま私と同じテーブルになると、乾杯もそこそこに、一番離れたテーブルへと逃げていった。
遠目になら、いつもあれほど見つめてくるくせに……私は唇を噛んだ。

だけど、私だって同じ。私たちは鏡写しだ。
怯えるあまりに立てた棘で、意図せず互いを傷つけてしまう。

私は貞方さんの隣に据えられ、やたらに喋り、むやみに笑った。
遠い視線に焼かれながら、誰かの肩をふざけて叩いたりした。


飲み会のあと、同僚たちに交じって、ほんの少しだけ彼と言葉を交わした。それでも私たちの間では、いちばん饒舌なときだったかもしれない。

店の前の路上で見上げると、彼の顔がいつもよりも近かった。
少しだけ飲んだお酒の勢いを借りて、思い切って尋ねてみた。

「どうやってそんなに大きくなったんですか? 何かスポーツとかしてました?」

すると、水球、と意外な答えが返ってきた。
バスケやサッカーを選ばなかったのは、いかにも彼らしい気がした。

「こいつ、水球で大学からスカウトされてたくせに、なぜかこっちの世界に来たんだよね」

横から小菅さんが、笑いながら茶々を入れる。

「えーっ、すごーい!」

女性たちから口々にそんな声を浴びせられても、彼は眉一つ動かさなかった。
ただよく見ると、耳たぶの縁が赤らんでいる。
今ならと、さらに重ねて訊いてみた。

「どうして弁護士になったんですか?」

すると無表情のまま淡々と、

「儲かるし、かっこいいから」

皆が笑った。私も笑った。
でも、それだけのはずがなかった。彼を見ていれば分かることだ。

帰り道、地下鉄の駅からは、彼とは逆方向だった。
あんなにたくさん話したのに、彼と交わせたのは結局、そのふた言だけだった。


翌日、彼はあからさまに不機嫌だった。
大して飲んだはずもないのに、周りの人たちには二日酔いだと言っていた。

昼休みになると梨沙ちゃんが、やけに甲高い声で話しかけてきた。

「長瀬さんって、貞方さんに相当気に入られてますよね。昨日もわざわざ隣に呼び寄せるし、ずーっと離そうとしなかったし」

「気に入られてるんじゃなくて、また悪酔いしないか心配してくださってただけよ」

冗談めかして受け流したけれど、そのやり取りが彼の怒りに油を注いだことは、目を向けずとも分かった。


(続く) 



※この物語はフィクションです。
登場する人物、団体、地名等はすべて架空のものです。




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