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季節の彼方でまた会いましょう #16 暗雲|白雨|焦熱


季節をたどる(各話一覧)



2023年 梅雨 皓汰 ―暗雲―


あの夜、貞方さんや溝口たちに向けられた笑顔が、肩や腕に触れる手が、瞼から消えなかった。
なのに翌日、俺の渋面に気づかぬはずもないのに、涼しい顔で近づいてきて言う。

「城西区に住んでるって言われてましたよね。だったら、丸川橋の交差点って分かります?」

「……分かります」

自分でも驚くほど、そっけない声が出た。

「じゃあ『楡の木』って喫茶店はご存じですか? 交差点の、少し東にあるんです」

言い募る明るい声に、苛立ちが膨らむ。

「知りません」

「高校の頃、たまに行ってたんです。ホットサンドが美味しくて。
ご夫婦でされてるんですけど、もうご高齢のはずだから、まだお店があるのかな、と思って。
春日高校の正門前にあるんです。見つけたら、行ってみてください」

そうして、わずかの間待っていた。

――何を言えというのか。口を開けば、溢れそうなのに。

だから、口を開けなかった。
返事はないと悟ると、彼女は何事もなかったかのように去っていった。

ただの同僚でいましょう、ということか。
噛み締めた奥歯が擦れて、ぎりりと嫌な音を立てた。 



2023年 梅雨 千帆 ―白雨―


ある日、床に落とした書類を拾いかけて、ふと違和感に手を止めた。
視線の先、彼のロッカーの扉に、以前にはなかった映画のステッカーが貼ってある。
いかにも彼の好みそうな作品だった。

……だけど、二枚、なんて。
いったい誰と行ったのだろう。

彼の私生活は、ほとんど知らなかった。
付き合ってる人がいるのか、趣味は何か……そもそもろくに話したこともないのに、知りようがなかった。

「バベルズノート、観に行かれたんですね。面白かったですか?」

ロッカーの扉を指差しながら尋ねると、「はい」と無愛想に呟く。

「そうなんだ。私も観に行こうか迷ってて。昔の映画のリメイクですよね? ラストが、前とは違うんでしたっけ?」

「はい」

マウスをクリックする音だけが、冷たく響く。

「そっか……筋は、だいたい同じでした?」

「はい」

「そう……参考になりました。ありがとうございます」

ファイルの背を握り締めて、さりげなくその場を後にした。
こちらに目も向けない、なんて。
もうじき、会うことさえ、できなくなるのに……。 



2023年 夏  千帆 ―焦熱―


今年の梅雨明けは早いと言っていたのに、雨雲はどんよりと居座ったままだった。
時おり大きな雨粒が、ばらばらと窓ガラスに打ち付ける。

今はもう、私たちの間にあった、あの甘く切ない眼差しは消え失せていた。
言葉も、視線すら交わせないまま、ただ虚しく傷つけ合うだけ。

それでもまだ、見つめる気配に気づくたび、指先に甘い痺れが走った。

振り向くと、逸れる横顔。
書庫から出てきたときの、赤らんだ首筋。
さりげなく動かされた椅子。

だけど私は……。

恋愛映画も小説も、ずっと絵空事だと思っていた。
そんな不確かなもので人生が変わるなど、あるはずがないと。

なのに私は、変わってしまった。
彼を知らなければ、ずっと幸せでいられたのに。


何かを感じ取ったのか、彼が珍しく、後からエレベーターに乗り込んできた。

ここに来て一年以上になるのに、彼が私を追ってきたことは、これまで一度きりだった。
それなのに携帯ばかりいじって、やはりこちらには目も向けない。
ただ、何かを堰き止めようとするかのように、肩の線だけが張り詰めていた。

私は待った。同じ衝動を堪えながら。

結局、互いに口も利かないまま、エレベーターは地上に降りた。
最後に小さく挨拶すると、わずかに振り向き頷いた。

――なぜ何も言ってくれないの?
あなたが止めてくれないと、私は……。



夕方から空が鉛色に変わり、また叩きつけるように雨が降りだした。
給湯室で何気なく目を上げて、思わず背中がびくりと震えた。
窓ガラスに、見知らぬ女性が映っていた。

削げた頬の上で、隈に縁取られた目がこちらを見ている。
雨粒が、浮き出た首筋に発疹のような跡をつけていく。

――このままでは、壊れてしまう……。


わずかな雑用が尽きると、時間はほとんど進まなかった。
一日に何十回も時計を見た。
雨宮さんが定年になるまで、あと二年――二年は、あまりにも長すぎる。

貞方さんは、九月に私を正社員にすると言ってくれた。
あれほど待ち望んだチャンスだというのに、もうそれすらも霞んでいた。

ただ、ここを去れば、彼とのつながりを失くしてしまう。
そのことだけが、私を繋ぎ止めていた。

今すぐにでも、逃げ出したいのに。

堪え切れずに、私はまた、過ちを犯した。
再び、彼に手紙を書いたのだ。

――もう、ここでできる仕事はなくなりました。そろそろ区切りをつけようと思います。
だけどもし、あなたが望んでくれるなら、本当はずっとここに居たい。
今週の終わりまでに、答えをください。
テミス像に触れてくれれば、そうします――と。


手紙を渡して以来、彼は私を避けるようになった。
それでいて、遠くから窺う視線は途切れなかった。

苦しげに伏せられる瞼。
もの言いたげに泳ぐ眼差し。
その瞳は、見るたびに色を変えた。

彼に決断を迫るのは卑怯だと、自分でも分かっていた。
それでも、揺るがない証が欲しかった。
いっそのこと、縛り付けてくれれば――。

けれど、テミスの像は手を触れられぬまま、いつまでも冷たく佇んでいた。


期限の日の朝、「もうこのことは忘れて」とメモに記し、彼の机上に忍ばせた。
これまでのように、また沈黙しか返ってこなかったら――そう思うと耐えられなかった。
だから、自分で望みを断った。

彼の表情が、困惑から怒りに変わった。


その日の夕方、給湯室から戻る途中のことだった。
執務室の隅のひと気のない一角で、彼と貞方さんが深刻な顔を突き合わせ、小声で話し込んでいた。

目にした瞬間、息が止まった。
まさか、私のことを、貞方さんに……?

彼は、ちらりとこちらに視線を向けると、すぐに貞方さんへと戻した。
凍てつくような瞳だった。

――違う、そんな人じゃない。ただの打ち合わせに違いない。

いくらそう言い聞かせても、細かな震えは止まらなかった。

彼の引き出しにはきっと、私の書いた手紙やメモが残っている。
それらが他人の目に触れれば……恐怖が尖った氷の爪で、心臓を鷲掴みした。

――もうここには居られない。

次の朝、私は貞方さんに面談を申し込んだ。


(続く) 



※この物語はフィクションです。
登場する人物、団体、地名等はすべて架空のものです。





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