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八咫烏が送り込んだ戦国のゴレンジャー——信長と光秀が演じた本能寺の変と安土城焼失、日光東照宮の真実


1.八咫烏が送り込んだ五人の使者

平安から室町にかけて、この国は本来の姿を失いかけていた。統治王と祭司王が並び立つ調和の「国體こくたい」が、豪族たちの欲望によって統治王一極の体制へとねじ曲げられていく。都の貴族たちは最澄さいちょうの教えを都合よく解釈し、比叡山を豪奢な生活の拠り所とし、寺社勢力は仏神の権威と武力を背景に、集団で朝廷に対して訴えや要求をしていた。空海の高野山が静かに息づく一方で、都の中心は腐敗の色を濃くしていた。

そんな歪んだ時代を正すために、八咫烏やたがらす五人の使者を送り込んだ。「織田信長」「豊臣秀吉」「明智光秀」「徳川家康」そして「千利休」。彼らは表向きは戦国の乱世を駆け巡る武将や茶人として姿を現したが、その本質は「メシアの民族」の血を継ぐエージェントであり、日本の国體を祭司王の復活へと導くためのゴレンジャーだった

2.織田信長の真の姿

最初に動き出したのは織田信長である。荒々しい改革者のように見えた彼は、実は精密な計算のもとで動いていた。比叡山延暦寺を焼き討ちし、幼い者までを含む僧兵の根を絶ったのは、最澄の教えが貴族の退廃を助長していたからに他ならない。一方で高野山には一切手を触れなかった空海の系譜は天皇と深く結びつき、国體の核心を守るものだったからだ。

信長は日本布教長のフランシスコ・カブラル宣教師から布教を後押しする代わりに、ポルトガルの交易船を通じて鉄砲玉(鉛)をはじめとする多くの軍事物資の支援を受けていた。そのおかげで長篠の戦いをはじめ、多くの戦闘で圧倒的な強さを誇ることができた。

しかしながら、信長と十年に及ぶ死闘を繰り返した顕如けんにょ率いる大坂の石山本願寺は、最新の鉄砲もいち早く導入し、信長軍を窮地に追いやっていた。更に各地の大名と連携して「信長包囲網」を形成した。この勢力は信長軍を遥かに凌いでいた。

この時、救いの手を差し伸べたのがあのフランシスコ・カブラル宣教師だった。宣教師の機密文書の中に、この石山合戦の記述も残されている。「日本の坊主たちが信長に激しい戦いを挑んでいた。彼らはキリスト教の最大の敵であり、我々の布教の妨げになっている」。仏教界が弱体化すれば、キリスト教が勢力を伸ばせると宣教師たちは考えていた。

宣教師は起死回生の策を講じ、切り札として荒木村重配下で摂津キリシタン大名高山右近うこんに、信長の味方につくようにと度々進言し、右近はデウス様の導きに従うと宣誓し、信長に仕えることを決意した。これが石山合戦の対局を変え、1万人のキリシタンの援軍を得た信長軍は、最大の敵を打ち破ることができたのであった。

信長の出自しゅつじは神官職で神様とつながっていた家系だった。信長の「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」というは、「人間界の五十年は、天界に比べたら、一夜の夢のようにはかないものだ。すべては夢幻に過ぎない」という無常観身体表現としてなぞる行為でした。

信長は天皇の前に膝を折り、頭を垂れたが、信長は安土城の天主として「我は神デウスの化身である」と自認し、「我を神と崇め奉れ」と命じていた。だが天下布武を掲げた彼の真の姿は、そうした表の言葉の向こう側にあった。

信長は、宣教師たちが全世界をキリスト教の国にするために来日していること九州を中心にキリスト教の勢力範囲が拡大し続けていること、1580年にポルトガルを併合したスペインが「日本の軍事力を利用すれば中国征服は可能だ」と考えていることキリスト教というものを理解し、宗教が持つ力というもの、これらを深く見抜き、憂慮もしていた。

3.演じられた本能寺の変

信長の後を継ぐように表舞台に現れたのが豊臣秀吉であるが、その裏で、すべてを統べていたのは明智光秀だった。光秀は足利将軍に仕え、信長に仕え、常に「天下太平」を唯一の目的として動いていた。自分が帝王になるためではない。戦国という病を終わらせ、祭司王と統治王が調和する、本来の国體を取り戻すためだった。

実は本能寺の変を起こす前、信長、光秀、秀吉、家康は、すでに前もって密かに話し合っていた。信長が表舞台から消えるタイミングを計り、お互いがうまく収まるように忖度し合った結果、「本能寺で信長は死んだことにしよう。寺も焼いてしまおう」と決めたのである。当時の本能寺は僧侶たちの力が強く、仏教勢力が政局に深く食い込んでいた。その力を削ぐためにも、寺を焼き払う必要があった。

光秀は表向き「主を討った謀叛むほん者」として歴史に名を残すが、実際には信長を討ってはいない。本能寺で討たれたのは「影武者かげむしゃ」に過ぎなかった。彼を身代わりにし、火を放ち、信長本人は静かに福井の小浜から宣教師の船に乗り、遠くバチカンの奥深くへと潜り込んだ。

信長は国體を守るためと同時に、第2の人生として、日本とヨーロッパをつなぐ使者という役を、密かに演じていたのかもしれない。枢機卿すうききょうの名(ジョルダーノ・ブルーノ=Giordano Brunoという説がある)を残し、やがて密かに帰国し、農家のような余生を送ったとされている。

織田信長の書状で最も多く残っているのは、バチカンにある膨大なアーカイブ書庫の中である。未だ多くのものは開封されていないとされている、いつの日か真実が明らかになるだろう。

表の史実では、すでに家督を継いでいた嫡男の織田信忠も、妙覚寺から二条城に移ってまでして、一時間以上にわたり明智軍に抵抗したとされている。しかし、信長と信忠のどちらの顔も遺体も見つかっていないのが事実である。信忠もまた「影武者」だった。信長と同じく、計画の一端を担い、行動を共にしていたのである。信長の傍らに仕えていた森蘭丸は、信長が影武者であることを知っていた数少ない者の一人だった。また、ブラック侍として知られる弥助は生き延びたが、光秀と宣教師たちの手によってインドの南蛮寺へと戻された。こうして、表舞台に残る痕跡はすべて消し尽くされた。

4.安土城焼失という儀式

しかしながら、信長が表舞台から完全に姿を消すためには、本能寺で「死んだ」ことにするだけでは足りない。信長の権力の象徴であり、当時の戦国武将や仏教勢力が最も恐れ、また羨望の眼差しを向けていた「安土城」そのものを、消し去る必要があり、安土城に集まっていた僧侶や、信長に近づこうとしていた仏教勢力の影響力を断ち切るためにも、城を焼き払うことが必要だった。

安土城は、単なる居城ではなく、信長が自ら設計し、天下布武の意志を形にした巨大な舞台装置であり、完成して間もない最新の巨大城郭だった。しかし、半端に残していては、「信長は本当に死んだのか」「いつか戻ってくるのではないか」という疑惑が消えず、次の段階へ進むための道が閉ざされてしまう。

苦渋の決断ではあったが、本能寺の変の直後に、光秀の軍勢が城を攻めたように見せ、あるいは内部から火を放つ形を取り、安土城を炎上させた。世間には謀叛の混乱の中で焼け落ちた『信長の時代は完全に終わった』という強い印象を人々の心に刻み込むことができ、炎上させられた安土城は、信長という表の顔を完全に葬るための最後の炎となった。

安土城(苦渋の決断で炎上させられた)

こうして、ゴレンジャーたちは次の段階——秀吉を表に立て、光秀が影に回り、やがて家康へとバトンを渡す——へと静かに移行することができた。安土城の炎は、ただの破壊ではなく、国體を取り戻すための避けられない儀式でもあったのである。

5.影として生きた明智光秀——千利休から天海へ

光秀は実際には信長を討ってはいない。だが主殺しの汚名を着せられた以上、光秀自らが表のリーダーとなることはできない。そこで秀吉と密約を結んだ。山崎の合戦でわざと勝ちを譲り、小栗栖の藪で農民の竹槍に倒れたと偽装した。実は頭を丸め、茶坊主となって秀吉の傍らに潜んだ。それが千利休せんのりきゅうである。

大本教の出口王仁三郎『水鏡』に記された一節、千利休=明智光秀という秘された真実」

堺の商人出身の茶人などでは到底務まらない参謀の仕事を、利休は完璧にこなした。茶室のにじり口は、荒武者たちを丸腰にし、秘密を守り、心を操るための最高の舞台だった。朝鮮出兵さえも彼の献策から生まれた。秀吉が天下を我が物にしようと動き始めたとき、光秀は静かに去った。もう一人の利休は用済みとなり、切腹させられた。そして光秀は天台宗の高僧・天海僧正てんかいそうじょうとして姿を変え、徳川家康の傍らに立った。

家康もまたゴレンジャーの一員だった。江戸幕府を開き、長く続く太平の基盤を築いたのは彼の表の功績だが、実際に糸を引いていたのは天海である。方広寺の鐘銘しょうめい事件から大阪夏の陣まで、豊臣家を滅する道筋を天海は緻密に描いた家康が真田幸村に討たれた後も「影武者」を立て、駿府に退かせた。江戸にいれば影が露呈するからだ。

天海の暗躍はそれだけにとどまらない。家臣・斎藤利三の娘お福春日局かすがのつぼねとし、大奥の中枢に据えて将軍の嫡男の乳母として絶大な権力を与えた謀叛者の家臣の娘がそのような地位に就くなど、普通ではあり得ない。背後に天海、すなわち光秀がいたからこそ可能な、大奥を通じた幕府内部の完全なコントロールだった。

さらに天海は、江戸城と城下町の設計そのものに深く関与し、都市構造の中に自らの意志を埋め込んだ。日光に「明智平」という地名を残し、自分が光秀であることを静かに示し続けた。関ヶ原の戦いでも表に出ぬ参謀として動き、三百年続く江戸時代の諸制度——参勤交代、武家諸法度、寺社統制——を一つひとつ整えていった。

表面では信長、秀吉、家康が天下を統一し太平を完成させたように見える。だがそのすべてを、見えないところでコントロールしていたのは明智光秀——千利休であり、天海僧正であった。

天海大僧正・南光坊天海(智楽院・日光喜多院山門前、栃木県日光市)

6.天海僧正の日光東照宮設計秘話

天海僧正日光東照宮の設計に深く関わったことは、表の歴史では「家康の霊廟を壮大に築いた高僧」として語られるに過ぎない。だが、その奥には、はるかに深い計算と、光秀としての最後の使命が隠されていた。

天海は、家康の死後、単なる将軍の墓所を造るつもりなどなかった。目指したのは、「第三のソロモン神殿」の建設である。イエスキリストが日本人であり、メシアの民族の血がこの地に流れることを、形として永遠に残すための聖域だった。

設計の要所は、すべて天海自身が指示したと言われる。まず、陽明門を始めとする極彩色の彫刻群。表面は「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿や眠り猫といった親しみやすい意匠で飾られているが、その裏には、キリスト教的な象徴と、古来の神道・密教の意匠が巧妙に重ねられている。特に陽明門の十二支の彫刻や、唐門の龍の配置には、信長がバチカンから持ち帰った西洋の聖堂建築の知識が、密かに天海に伝えられ、活かされていた

さらに重要なのは、東照宮全体の配置である。天海は、日光の山並みそのものを「神の山」として捉え、本殿・拝殿・陽明門を一直線に配することで、太陽の光が特定の日に本殿を貫くように設計した。これは単なる風水や陰陽道ではなく、メシアの降臨を象徴する「光の道」を意図したものだった。家康を「東照大権現とうしょうだいごんげん」としてまつりつつその奥に真の対象——メシアの民族の血を継ぐ存在——を秘めていたのである。

天海は、工事の最終段階で自ら現場を訪れ、細かな修正を指示したという。特に本殿内部の厨子の配置や、奥院への参道の角度については、執拗なまでにこだわった。それは、単なる霊廟ではなく、「真の神殿」としての完成を目指していたからに他ならない

光秀は足利、織田、朝廷、豊臣、徳川と、あらゆる権力に仕え、利用し、そして最終的に戦国を終わらせた主殺しの極悪人というレッテルを四百年以上貼られ続けたが、彼の人生のテーマはただ一つだった。「平和な時代を創ること」自分が天下を取るためではない。八咫烏の命令に従い、メシアの民族の使命を果たすためだった。

今、ようやくその真の姿が少しずつ光を浴び始めている。大河ドラマ「麒麟がくる」の主役となり、書籍が次々と刊行され、研究が進む。だがまだ多くの人は知らない。千利休が光秀であり、天海が光秀であるという二つの事実が、彼を理解する最も大切な鍵だということを。

乱世を生き抜き、影となり、茶室に潜み、僧衣をまとって、この国を太平へと導いた男。それが「明智光秀」である。彼がいなければ、長く続く平和な時代は生まれなかったかもしれない。四百年の汚名の向こうに、真の英雄の姿が、静かに、しかし確かに存在している。


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