MVP ARCHIVE PEOPLE | Prime Ministers of Japan : Taro Katsura 1848–1913 / 桂太郎 - 第11・13・15代内閣総理大臣

MVP ARCHIVE PEOPLE > Prime Ministers of Japan > Taro Katsura 1848–1913 / 桂太郎 - 第11・13・15代内閣総理大臣

桂太郎 - 第11・13・15代内閣総理大臣
明治維新 から約30年、近代国家 として出発した日本は、急速な工業化と軍備拡張を進め、東アジアの 国際政治 へ深く関わるようになっていた。
その日本が、ロシア帝国との戦争 を経験し、列強の一角として 国際社会 へ進出していく時代。
その政治の中心にいたのが、桂太郎 だった。
三度にわたって 内閣総理大臣 を務め、第1次桂内閣 では 日英同盟 を締結し、日露戦争 を遂行。
戦争終結では アメリカ大統領 セオドア・ルーズベルト の仲介による ポーツマス講和 へ進んだ。
日本、ロシア、イギリス、アメリカ、中国、朝鮮半島。
20世紀初頭の世界秩序の中へ、日本が本格的に入っていった時代である。
長州から近代国家の中枢へ
1848年、桂太郎 は長州藩、現在の山口県萩市に生まれた。
幕末の動乱を経験し、明治維新 後は軍人として新政府に仕える。
桂 の形成に大きな影響を与えたのがドイツだった。
1870年代にドイツへ留学し、当時ヨーロッパ屈指の軍事力を持っていた プロイセン・ドイツの軍事制度 を学ぶ。
帰国後は 日本陸軍の制度整備 に関わり、陸軍次官、台湾総督、陸軍大臣などを歴任、明治日本が近代的な軍事・行政制度を構築していく過程そのものを歩んだ人物だった。
1901年、桂 は 第11代内閣総理大臣 に就任する。
日英同盟
当時、東アジアでは ロシア帝国 が急速に影響力を拡大していた。
ロシアはシベリア鉄道を建設し、清朝中国東北部の満洲へ進出。
義和団事件後も満洲に軍隊を残し、朝鮮半島をめぐって日本との緊張が高まっていく。
しかし日本単独で ロシア帝国 に対抗することには大きなリスクがあった。
一方のイギリスも、ロシアのアジア進出を警戒していており、両国の利害が一致する。
1902年、日英同盟 が締結された。
長く「 栄光ある孤立 」を外交原則としてきたイギリスが、日本と軍事的性格を持つ同盟関係を結んだことは、日本外交にとって大きな転換だった。
日本は初めて世界的な列強との本格的な 同盟関係 を持つことになる。
そしてこの同盟は、その後の 日露戦争 を取り巻く 国際環境 にも大きく影響する。
日露戦争
日本とロシアの交渉は続いた。
しかし満洲と朝鮮半島をめぐる双方の立場は一致せず、1904年2月、日露戦争 が始まる。
桂 内閣は戦争遂行の政治責任を担い、日本軍は旅順、奉天、日本海などでロシア軍と戦ったが、戦争が長期化するにつれて日本側の人的・財政的負担も急速に拡大していった。
日本政府は戦争を続けながら、同時に講和の機会を探していた。
そこで重要な役割を担うことになるのが、アメリカだった。
Theodore Rooseveltとポーツマス講和
当時のアメリカ大統領は、Theodore Roosevelt。
アメリカもまた、東アジアに大きな利害を持っていた。
1898年の米西戦争以降、アメリカはフィリピンを領有し、太平洋国家としてアジアへの関与を深め、ロシアが東アジアを一方的に支配することも、日本が圧倒的な勢力になることも、アメリカにとって無関係ではなかった。
1905年、Roosevelt の仲介によって、日本とロシアはアメリカの ポーツマスで講和交渉 を開始する。
日本側全権は外務大臣の 小村寿太郎。
ロシア側全権は セルゲイ・ウィッテ。
交渉の結果、1905年9月5日、ポーツマス条約 が締結された。
ロシアは日本による朝鮮での優越的地位を認め、旅順・大連の租借権や南満洲鉄道に関する権益を日本へ譲渡。樺太南部も日本領となった。
一方、日本が要求していた賠償金は得られなかった。
国内では戦争による大きな犠牲に対して講和条件が不十分だという不満が爆発し、日比谷焼打事件 へ発展する。
外交上の成果と、国内社会が期待した「 勝利 」は同じものではなかった。
桂=タフト覚書
日露戦争 終結直前 の1905年7月、桂は来日した アメリカ陸軍長官 William Howard Taft と会談、後に 桂=タフト覚書( Taft–Katsura Memorandum )と呼ばれる記録である。
会談では東アジア情勢について意見が交換され、桂 は日本にとって朝鮮が安全保障上重要であることを説明した。
Taft はフィリピンについて日本が 侵略的意図 を持たないことを重視した。
この文書は正式な条約でも軍事同盟でもない。
しかし、20世紀初頭の 日米関係 を考えるうえで非常に興味深い。
アメリカはフィリピンを持ち、日本は朝鮮半島への影響力を拡大していた。
太平洋を挟んだ二つの新興国が、東アジアにおける互いの安全保障上の関心について直接意見を交換していたのである。
韓国併合
日露戦争 後、日本の朝鮮半島への支配は急速に強まる。
1905年、日本は 第二次日韓協約 によって韓国の外交権を掌握し、韓国統監府を設置した。
1907年には韓国皇帝高宗が退位。
1910年、第2次桂内閣のもとで 韓国併合条約 が締結され、日本は韓国を植民地として統治する。
日本は欧米列強による支配を受けることなく近代国家を形成し、列強と対等な外交関係を築くところまで進んだ。
その一方で、日本自身が周辺地域へ支配を拡大する帝国国家となっていく。
桂 の時代は、その転換が明確になった時代でもあった。
鉄道国有化と国家建設
桂 内閣 の政策は外交・軍事だけではない。
日露戦争 後、日本は戦争によって膨張した国家財政と、近代産業を支えるインフラの再編を迫られた。
1906年には 鉄道国有法 が成立、主要な私鉄17社が国有化され、全国規模の鉄道ネットワークが国家によって統合されていく。
鉄道 は単なる交通機関ではなく、人、物資、石炭、工業製品、軍隊を大量に移動させる近代国家の基盤だった。
日本が地域ごとの 鉄道 から全国的なネットワークへ進んだことは、その後の 産業発展 にも大きな意味を持った。
桂園時代
桂太郎 の時代を理解するうえでもう一人重要なのが、西園寺公望 である。
1901年から1913年頃にかけて、桂 と 西園寺 が交互に政権を担当した時期は「 桂園時代 」と呼ばれる。
桂 は藩閥・官僚・軍部を基盤とする政治勢力を代表し、西園寺 は 立憲政友会 を背景としていた。
明治国家 を作った 藩閥政治 から、議会と政党を中心とする政治へ、日本の政治構造が徐々に変化していたことを示している。
大正政変
1912年、明治天皇 が崩御し、大正時代が始まる。
同年12月、桂 は三度目の首相に就任、しかし、桂内閣 の成立に対して政党政治家や新聞、民衆から強い反発が起こる。
「 閥族打破・憲政擁護 」を掲げた 第一次護憲運動 である。
議会政治を求める動きは全国へ拡大、1913年2月、桂内閣 はわずか約50日で総辞職する。( 大正政変 )
日英同盟 を結び、日露戦争 を遂行し、長期政権を築いた桂でさえ、明治以来の政治構造だけでは政権を維持できなくなっていた。
同年10月、桂太郎 は65歳で死去した。
桂太郎が残したもの
桂太郎 の政治人生には、近代日本の変化が凝縮されている。
軍人として 近代国家建設 に参加し、首相として 日英同盟 を締結。
日露戦争 を遂行し、Theodore Roosevelt のアメリカと外交的に接続した。
日露戦争 後には日本の朝鮮支配が拡大し、韓国併合へ至った。
国内では 鉄道国有化 など国家インフラの統合を進める。
そして最後には、政党政治 を求める 国民運動 によって政権を失った。
1905年、日本とアメリカはまだ敵国ではない。
Roosevelt は 日露戦争 を終わらせる仲介者となり、Taft と 桂 は東アジアの安全保障について話し合っている。
しかし、その後日本とアメリカは中国、太平洋、移民、海軍力などをめぐって次第に対立を深め、36年後の1941年には戦争へ入る。
桂太郎 の時代を見ることは、太平洋戦争 以前の 日米関係 がどこから始まり、どのような国際秩序の中に存在していたのかを見ることでもある。

MVP ARCHIVE PEOPLE > Prime Ministers of Japan > Taro Katsura 1848–1913 / 桂太郎 - 第11・13・15代内閣総理大臣

