MVP ARCHIVE PEOPLE | Military : Yamamoto Isoroku 1884–1943 / 山本五十六 - 真珠湾攻撃を構想した海軍軍人

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山本五十六
真珠湾攻撃を構想した海軍軍人
同時に、アメリカとの長期戦が日本にとって極めて困難であることを認識していた人物。
戦艦から航空機へ、艦隊の規模から国家の生産力へ、軍事力だけでなく、石油、工業、科学技術、生産能力までが戦争の結果を左右する時代へ。
山本 は、その変化を比較的早く認識した日本海軍軍人の一人だった。
そして最終的には、自ら避けようとした対米戦争を戦うことになる。
日露戦争を経験した青年士官
1884年、山本五十六 は新潟県長岡に生まれ、旧長岡藩士の家系で、出生時の姓は高野だった。
海軍兵学校へ進み、1904年に卒業。
その直後、日本はロシアとの戦争に入っていた。
1905年5月。
山本 は装甲巡洋艦「 日進 」の乗組員として 日本海海戦 に参加する。
戦闘で負傷し、左手の指を失った。
この海戦では、東郷平八郎 率いる日本海軍がロシアのバルチック艦隊に大きな損害を与えた。
当時の海軍力の中心は巨大な砲を搭載した戦艦だった。
敵艦隊を発見し、接近し、巨大な艦砲によって撃破する。
山本 の海軍人生は、まさに戦艦が海軍力の象徴だった時代から始まった。
しかし、その常識は彼の生涯のうちに大きく変わっていく。
アメリカを見る
1919年、山本 はアメリカへ渡り、ハーバード大学で学んだ。
その後も駐米日本大使館付武官としてアメリカに滞在する。
巨大な工場、自動車産業、石油、大量生産、広大な国土と資源。
日本とアメリカの戦争を考えるとき、比較すべきなのは戦艦の数だけではなく、失った艦艇をどれだけ早く補充できるのか。
航空機を何機生産できるのか。
燃料をどれだけ確保できるのか。
長期間戦争を継続できる産業基盤があるのか。
戦争の背後には、国家全体の工業力が存在する。
山本 の対米認識を理解するうえで、アメリカ滞在経験は重要な背景である。
戦艦から航空機へ
第一次世界大戦 後、航空技術は急速に発達していた。
しかし世界の海軍では依然として戦艦が重要な位置を占めていた。
敵戦艦を砲撃によって撃破する巨大艦隊。
各国はより強力な戦艦を建造しようとしていた。
日本でも、世界最大級の46cm主砲を搭載する 大和型戦艦 が建造される。
しかし航空機の能力も急速に向上していた。
山本 は海軍航空に関係する役職を歴任し、航空戦力の拡充を進める。
1928年には航空母艦「 赤城 」艦長。
1930年代には 海軍航空本部長 などを務めた。
十分な航続距離と攻撃力を持てば、敵艦隊へ戦艦の主砲が届くよりはるかに遠い距離から攻撃できる。
軍縮交渉と海軍
第一次世界大戦 後、各国による海軍建艦競争を抑えるため、国際的な軍縮体制が形成され、1922年の ワシントン海軍軍縮条約 では、主力艦保有量について米英日などに比率が設定された。
1930年には ロンドン海軍軍縮条約 が成立する。
日本海軍内部では、軍縮条約をめぐって激しい対立が起こった。
国際協調を維持しながら必要な海軍力を確保しようとする立場と、対米比率の制限を受け入れるべきではないとする立場。
山本 は条約派に近い立場を取り、国際軍縮交渉にも関与した。
しかし1930年代、日本は次第に 国際軍縮体制 から離れていく。
1936年、日本はワシントン・ロンドン両軍縮体制から事実上離脱し、各国は再び大規模な海軍建設へ進んでいった。
日独伊三国同盟への反対
1930年代後半、日本とアメリカの関係は急速に悪化していった。
日中戦争、中国をめぐる利害対立、経済制裁。
そしてドイツ・イタリアとの関係強化。
日本国内では 日独伊三国同盟 を求める動きが強くなる。
山本 は海軍次官として、海軍大臣の米内光政、軍務局長の井上成美らとともに、ドイツ・イタリアとの軍事同盟強化に反対した。
理由の一つは明確だった。
アメリカ、そしてイギリスとの対立を決定的にする危険がある。
1940年9月、日本は 日独伊三国同盟 を締結する。
山本 が懸念した方向へ、日本外交は進んでいった。
連合艦隊司令長官
1939年、山本 は 連合艦隊司令長官 となる。
ヨーロッパでは 第二次世界大戦 が始まった。
そしてアジアでは、日本とアメリカの関係がさらに悪化する。
1941年、日本軍は南部仏印へ進駐。
これに対し、アメリカは日本資産を凍結し、対日石油輸出も停止される。
石油の大部分を海外に依存していた日本にとって、これは重大な問題で、
外交交渉は続いた。
しかし同時に、日本政府と軍部では 対米英戦争 の準備も進められていく。
山本 は対米戦争そのものには慎重だった。
しかし国家が開戦を選択する可能性が高まると、別の問題を考え始める。
戦争を避けられないのであれば、どう戦うのか。
真珠湾という構想
日本とアメリカが通常の形で長期戦を行えば、日本は不利になる。
山本 はそう認識していた。
ならば開戦直後にアメリカ太平洋艦隊へ大打撃を与え,日本はその間に南方資源地帯を確保する。
そして短期間で日本側に有利な戦略状況を作り、戦争終結の可能性を探る。
そのために構想されたのが、ハワイ・真珠湾への空母機動部隊による奇襲攻撃 だった。
1941年12月7日、ハワイ時間。
日本海軍の空母6隻から発進した航空隊が真珠湾を攻撃した。
アメリカ太平洋艦隊の戦艦群は大きな損害を受ける。
航空母艦を中心とした大規模な航空攻撃が、戦艦中心の艦隊を遠距離から攻撃した。
アメリカ海軍の空母は真珠湾にいなかった。
さらに攻撃は、アメリカ社会の戦意を失わせるのではなく、強く結束させる結果となった。
アメリカは第二次世界大戦へ本格参戦する。
山本 が避けようとしていた、巨大な工業力を持つアメリカとの全面戦争
が始まった。
航空母艦が海戦を変える
太平洋戦争初期、日本海軍は急速に勢力圏を拡大した。
しかし同時に、海戦そのものにも革命的な変化が起きていた。
1942年5月,珊瑚海海戦,日本とアメリカの空母部隊が戦った。
特徴的だったのは、双方の主力艦隊が直接砲撃戦を行わなかったこと。
海戦の主役は、巨大な戦艦の主砲から航空機へ移りつつあった。
そして翌6月,ミッドウェー海戦。
日本はアメリカ空母部隊との戦闘で、「 赤城 」「 加賀 」「 蒼龍 」「 飛龍 」の主力空母4隻を失う。
日本海軍にとって極めて大きな損失だった。
真珠湾から約半年,太平洋戦争の主導権は変化し始める。
工業力との戦争
ここから 山本 が警戒していた問題が、次第に現実となっていく。
アメリカの巨大な生産能力だった。
アメリカは失った兵器を補充するだけでなく、新しい兵器を大量に生産して戦場へ送り続けた。
一方、日本は航空機や艦艇だけでなく、熟練した搭乗員、燃料、輸送能力などの損失を補うことが次第に難しくなる。
ここには、優れた兵器を造れること と、巨大な戦争を継続できること の違いが現れ,戦争は戦場だけで行われているのではないことが重要になる。
その背後に存在する工場、資源、物流、科学技術、教育、生産能力まで含めた国家システム同士の競争でもあった。
1943年4月18日
1943年、山本 は南太平洋方面の前線視察を計画する。
しかしアメリカ側は日本海軍の暗号通信を解析し、山本 の移動予定を把握していた。
4月18日、山本 を乗せた一式陸上攻撃機はブーゲンビル島上空付近で、アメリカ陸軍航空軍のP-38戦闘機部隊による攻撃を受ける。
搭乗機は墜落、山本五十六 は死亡、享年59歳だった。
日本海軍は、連合艦隊司令長官 を戦争中に失った。
山本五十六が見ていたもの
山本五十六 を、「 真珠湾攻撃を計画した名将 」だけで理解すると、重要な部分が抜け落ち、逆に、「 対米戦争に反対した平和主義者 」とするのも正確ではない。
山本 は職業軍人だった。
国家が戦争を決定すれば、その条件の中で軍事作戦を構築した。
そして実際に、日本海軍による大規模な攻撃作戦を指揮した。
一方で、アメリカという国家の規模を直接見ていた。
山本 が見ていた戦争は、単純な艦隊同士の強さだけではなかった。
戦争を支える国家全体の能力だった。
戦艦の時代から航空機の時代へ
山本 が海軍軍人となった1904年、日本海軍の中心には戦艦があった。
日本海海戦では巨大な艦砲による艦隊決戦が行われた。
それから約40年。
山本 が死亡した1943年には、海戦の中心は航空母艦と航空機へ移っていき、さらに戦争の背後では、レーダー、暗号解析、無線通信、航空工学、大量生産など、新しい科学技術が戦争の結果を左右し始めていた。
山本 自身の最期さえ、暗号通信の解析と長距離航空作戦によるものだった。
彼の人生は偶然にも、20世紀の戦争が「 巨大な砲を持つ艦隊 」から「 情報・航空・工業力を統合したシステム 」へ変化した時代 とほぼ重なったる。
MVP Perspective
真珠湾攻撃がアメリカの戦意を低下させることはなかった。
ミッドウェー作戦にも重大な問題があった。
山本 の判断が常に正しかったわけではない。
それでも彼は、戦争を軍艦の性能や兵士の精神力だけで見ることはできなかった。
近代戦争では、一度の勝利より、その背後にある国家システムの持続力が大きな意味を持つ。
山本 はアメリカとの戦争を警戒しながら、その戦争が避けられなくなると、短期間で戦略的優位を作ろうとした。
しかし、その短期決戦が戦争を終わらせることはなかった。
戦争が長期化すると、日本は 山本 自身が認識していた巨大なアメリカの生産力と向き合うことになる。
戦争の危険を理解している人物が、その戦争を止められるとは限らない。
そして、未来の変化を見抜くことと、その変化を国家の意思決定へ反映できることも同じではない。
山本五十六 の生涯は、太平洋戦争を軍事史だけではなく、技術・産業・資源・情報、そして国家の意思決定という複数の構造から見る入口になっている。

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