【掌編小説】熱帯夜のひとつ星《シロクマ文芸部:ボルコットの「熱帯夜」》
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――ルイーザ・ジューン・ボルコット
(画像はNano banana 2で作成しています。)
熱帯夜の夏休み。
シーツも、タオルケットも、枕カバーも。
全てが水分を纏ったぬるさを帯びて、皮膚との境界を失っていた。
右の頬に残る柔らかい湿度の記憶が、少女をベッドの中に戻さなかった。
春に買ったばかりの目覚まし時計が、2時47分を指している。
不快だった下着の皺を指で引っ張りなおすと、僅かな明かりに2段ベッドの上の柵から妹の元気な足がはみ出ているのが見えた。
少女は、まだ新しい制服を掛けているラックの横に立って、汗の混じった布地の匂いを感じながら、妹が動かないのを確認する。
そして、ゆっくりとドアを開けて、隙間から廊下へすり抜けた。
寝息を閉じ込めた空間から逃れ、若干の解放感に少女は小さく深呼吸をした。
まるで腕のうぶ毛の一本一本が、汗で溺れているようだ。
床板もぬるく湿っていて、目が慣れない暗闇にも汗で滑る自分の足の形が分かる。
向かいの寝室の両親に気づかれぬように、少女は太腿全体に力を入れて、一歩ずつ貼りつく足裏を剥しながら階段を降りていった。
キッチンの冷蔵庫を開けると、緩んでいた瞳孔に容赦なくライトが飛び込み、遅れて冷気が顔から胸元へ下がっていく。
少女は冷水を取り出し、コップへ注いで喉から流す。
冷蔵庫の味が鼻まで抜けると、ドミノ倒しのように体の真ん中の熱が冷たい刺激へと変化し、もう一度背中を覆う汗を感じなおした。
カーテンから外を覗くと、雲が出ていない。
少女は、こんな遅くに一人で外に出たことはなかったが、どうしても空が見たくなった。
キッチンを出て鼻で呼吸をしながら階段を見上げ、何の気配もないことを確認すると、そっとサンダルに足を通した。
サンダルが玄関のタイルに擦れる音がして、少女は口を半開きにして、もう一度階段の方を振り向いた。
玄関のカギをしっかり右手で掴んだまま、それを左手で包み、映画の爆弾解除のように慎重に動かしていく。
金属がぶつかる僅かな感触を両手で包み込んだまま玄関を開けると、昼の余熱と草木の蒸気がいっぺんに少女の肌を包み込んだ。
足元に目を凝らしながら、数歩、道路へ進む。
アスファルトの上の小石の凹凸が、サンダルの底にジャリジャリと歌いかける。
少女は、道路の真ん中まで来て、ぐるっと見回した。
息をするたびに、ぬるい感触が肺の奥まで行ったり来たりする。
昔、頬と奥歯でふざけて遊んだ時のようなカエルの声が、近くの水田を覆う稲の瑞々しい穂先を暗闇に伝える。
「すごい、キレイじゃん」
見上げた少女は、小さく呟いた。
細長い月は夜空の僅かな覗き窓のようになっていて、星の光を遮らないようにしていた。
無数の星たちは、目を動かす度に現れ、凝視すると消えていく。
暗闇の一枚向こうの別の世界から、少しずつ零れ落ちているようだった。
少女は、遠く引っ越していった親友が住んでいる方角の空を仰いで目を凝らすと、低い位置に、ひときわ明るい星を確認した。
4年生の時に、その親友に教えてもらった「南のひとつ星」だ。
すこしずれた場所に、ペガサス座の四角形が見えた。
「頑張ってるよね、きっと」
その親友は、少女にとっての「ひとつ星」だった。
予想はしていたけれど、こんなに寂しくなるなんて。
コロコロコロ——。
この熱気に似合わない気の早いコオロギたちが、次の季節を迎えるための鳴き声のバトンタッチが進んでいることを少女に教えている。
親友が、自分の知らない友達に囲まれている様子を想像し、少女はため息をついて、べとついた髪をかき上げた。
いつの間にか虫に刺されて、右頬と右膝の裏が痒くなっていた。
少女は、湿った右頬に手を当てて、もう一度空を見上げる。
「大人だったら、あんなときは、キスとかしたのかな」
思った途端に何だか恥ずかしくなり、少女は一人でムフフと笑った。
誰にも気づかれぬように、家に戻った少女は、右頬と膝の裏に、薬を塗った。
痒みの上に、ひんやりとした膜が覆った。
翌朝、少女は厚ぼったい瞼を開いたり閉じたりしながら、朝食を囲んでいた。
口に伝わるトーストの熱が、昨夜を呼び覚まし、首とおでこが熱くなる。
「あら、エリナ、ほっぺた、腫れてるんじゃない?」
牛乳を注ぎながら、少女の母親が心配そうに言った。
「虫に刺された。痒い」
少女は、椅子の上で胡坐をかいて、頬よりも痒みの強い膝の裏を手のひらで擦りながら言った。
「ママ、それよりさ、1学期、成績トップクラスだったんだから、約束通りスマホ買ってよ!」
少女は、両親の顔を交互に見つめた。
「まあ、頑張ってるみたいだしな、ルールを決めて、だぞ。次の週末にな」
父親がコーヒーカップを少女の方に向けた。
「やった!ママ、早くサラにも伝えなきゃね!」
少女は、残りのトーストを勢いよく口に入れた。
朝食後、少女は妹を連れて外に出た。
雲の少ない青空と太陽が日焼けした皮膚に反射して少女の網膜を刺激する。
今日も猛暑日。右の頬が、ひときわ熱い。
遠くのひとつ星が、少し近くなった気がした。
(完)
数ある作品の中から、本作をお読みいただきありがとうございます。
かつて二人が同じ空を見上げていた頃の記憶——エリナとサラの原点を描いた物語「菜の花が見ていた。——友情の刻印」も公開しております。
2人の距離の理由に触れたい方は、あわせてお楽しみください。
