嫌悪、行き過ぎた過保護
親になりたいという気持ちは分からないでもない。
でも、子どもを作りたいと思う気持ちは分からない。
なぜ、自分の実子がほしいのか。他人が産んだ子を引き取ってもいいではないか。世の中、見渡せば親がいない子、恵まれない子はたくさんいる。すでに生きて存在している彼らを幸せにするほうに労力を割いたほうがいいだろうに、どうして生まれてすらもいない我が子を望むのか理解できない。
他人に押し付けるつもりはそれほどないので名乗っていいものかは悩みどころだが、少なくとも反出生主義については理解も共感もしている。
なぜかは分からないが、自分の子ども、それも自分の遺伝子を引き継いだ子どもというものを想像するだけでいつも強烈な嫌悪感を覚えてしまう。ぞっとするというほうが感覚として正しいかもしれない。
私自身が産む性である女性であることも大きいだろうが、自分と目の前の我が子との境界線がいまいちはっきりしないからだと思っている。ずっと何かがお互いを縛り付けているような、そんな感覚がする。
自分の遺伝子、というのも嫌だ。
身体違和も外見コンプレックスもあるわけではないが、どうも私は自分の体が苦手だ。この体にあの親の血が流れていると考えるだけで丸一日病める。
決して虐待などはないが、親と絶望的に価値観が合わない。なぜあの親からこんな自分が生まれてきたのか、よく混乱しては落ち込む。親が可哀想だと思う、こんな話の通じない子どもで。
我が子への恐怖心というのも、きっと自分自身への嫌悪感の裏返しなんだろう。多分、これが私が実子を欲しがる人の気持ちを理解できない理由だと思う。自分の血を引いた子の顔を見てみたいという感情が分からない。
こんなことを言っているものの、少なくとも私にとって、子どもというのはとても代わりのない大切な存在だ。たとえ今この世に存在していなくても、これだけは断言できる。
それだから、子ども──つまり大切な人に、苦しい思いをさせたくないと感じてしまう。
この世に生まれて生きる限り、人は少なからず悩みや苦しみを感じる。それを処理できるのかどうか、乗り越えられるかどうかは分からないし、もしそうであったとしても私自身が、大切な人(我が子)がつらそうにしている最中を見るのはかなり苦痛に感じる気がする。私が苦しいと思うとき、未来のことなんてとても想像できないから。
だから生まれて生きるなら、苦しみを感じずに生きてほしい。
苦痛は幸福よりも重いと思う。私個人の経験として、一時の苦痛は今までの幸福を台無しにするし、少なくともそのときの幸福を感じられなくしてしまうと感じるからだ。
とんでもない過保護だとは思うが、現実にそんなことはできないのは当然分かっている。だから、究極的には生まない──存在させないのがいちばん良いのではないのかと考えてしまう。
例えば我慢を覚えさせるのは大事とどこかで見かけたようなことがあったような気がするが、いや見かけたはずだが、我慢なんて(特に幼い子からすれば)苦痛以外の何物でもないだろう。みんな大好き勉強についてももちろん同じだ。なぜ努力を強いるのだろう。
たとえ将来生きるのに必要なことであったとしても、なぜ下手したら自身よりも大切な子にそんなつらいこと──躾をしなければならないのか、なぜそうまでして子どもを作るのかが私にはさっぱり分からない。
社会で生きていくためだとか言われそうだが、そもそも最初から生まれなければ生きる必要もないだろうにと思ってしまう。
「生きているだけで尊い」のだと人は言う。
しかし、その『生きる』ためだけに私たちはどれだけ苦労しなければならないのだろう。親の庇護下にいる今はまだいい、でも今後ひとりで食べていかなければならない。そんな将来を考えると気が重くなる。
まぁ、ある意味『尊い』だろう。当たり前ではないのだから。苦労して努力して自分で何とかしない限り、生きていけなどしないのだから。
生まれなければそもそも存在していないんだから、可哀想も何もないだろう。むしろ、生まれてしまったあとに(以前の記事に書いたように)親──私が「相性が合わないから」と言って上手く育てられず、「可哀想だから」と躾もできず悲しい思いをさせるほうが余程不憫だ。地獄でしかない。
どうして自分の子を欲しがる人は皆、子どもをちゃんと育てられると思えるのだろう。我が子といえど、どんな子が生まれるのか何も分からないのに。不思議でならない。
ただ、もし私が「我が子が欲しい」と思い始めたら、それは私自身に限って言うなら良いことである気もする。
なぜならそれは、成人したあとの私が仕事やお金、衣食住の確保といったことに困っていないということ、そして過去の悩みやつらかったことを全て下ろして昇華できたということだと思うからだ。
あとは何より、自分自身への嫌悪感──親に対する困惑を失くせたということでもあるに違いない。
「苦痛があるからこそ人生は楽しいのだ」と言う人もいる。
私はこの言葉が理解できない。ただひとつだけ分かることがあるとするなら、これを言った人は過去の悩みや苦しみを上手く処理して乗り越えられたのだろうということだ。少なくとも、楽しいと感じられるほどまでに。
私はまだ、苦しいものは苦しいもの、としか思えない。その先にあるものを全く見ることができないし分からない。
もし全部全部乗り越えられたとき、私は反出生主義に共感できなくなるのだろうか。今、この記事を書いているときの気持ちを忘れてしまうんだろうか。全く想像できないし、どこか怖く感じる。
もう生まれて生きて存在してしまっている以上、私のことも皆のことも、心の底から幸せだと思える人生でありたい。

