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🦁雷音式📖記紀の多重カラクリの謎解き(プロローグ編)🐹 第2部:引き上げの海と志賀島(鹿の島)の血脈〜何故、彼らは呪術を使えたのか〜

🦁 こんばんは 締め切りギリギリで焦っている土曜日の雷音です。

すいません、只今記事を作成中です😅

🐹『いつも"ギリギリアウト"なんです』


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大変お待たせ致しました。

やっと完成致しました✨

🐹『只今9月6日日曜日でございます。』

🦁『😅』

それでは『🦁雷音式📖記紀の多重カラクリの謎解き(プロローグ編)🐹 第2部(約5,500文字)』をお楽しみください。

前回、和多志たちは福岡県糸島市の長糸(ながいと)地区にある宇美八幡神社を訪ねました。

福岡県糸島市 仲哀天皇陵墓と長糸宇美八幡神社
福岡県糸島市 仲哀天皇陵墓と長糸宇美八幡神社
福岡県糸島市 仲哀天皇陵墓と長糸宇美八幡神社
長糸宇美八幡神社本殿
長糸宇美八幡神社上宮 仲哀天皇陵墓


そこには仲哀(ちゅうあい)天皇(第14代天皇)(大王)※隠り陵(こもりみささぎ)があり、その地を代々守ってきた宮司家が、武内宿禰(たけのうちのすくね)の長男系統「平群(へぐり)氏」の直系であるという、消し去ることのできない驚くべき血の証拠が残されていました。

【※飛鳥時代以前、国内の君主は「大王(おおきみ)」と呼ばれ、対外交渉では「倭国王(わのこくおう)」などと名乗っていました。
「天皇」という称号は、飛鳥時代の天武天皇(在位673〜686年)の頃、またはその前後から国家君主の称号として用いられたことが、木簡の出土などからも確実視されています。 
『古事記』が712年『日本書紀』が720年に完成しており、「天皇」という称号が定着したあとに、過去の神話や伝承を含めて歴代の王たちに「天皇」の号を当てはめて編纂(へんさん)されました。】

では、夫である仲哀天皇(大王)を最前線で失ったあの夜、身重の神功皇后は一体どこへ向かったのでしょうか。

仲哀天皇が崩御された香椎宮

神功皇后が命がけで駆け抜けたルートとなる場所があります。

それが、現在の糸島市二丈深江に鎮座する「鎮懐石(ちんかいせき)八幡宮」です。

糸島市二丈深江 鎮懐石八幡宮場所
糸島市二丈深江 鎮懐石八幡宮場所
鎮懐石八幡宮正面
鎮懐石八幡宮由緒
鎮懐石八幡宮鳥居⛩️
萬葉歌碑
鎮懐石萬葉歌碑由緒
船繁石
船繁石
鎮懐石八幡宮鳥居⛩️
狂歌碑
塞神(さえのかみ)・陰陽石 
塞神(さえのかみ)・陰陽石 
塞神(さえのかみ)・陰陽石 由緒
ここの地面は海抜22メートルです
看板に島の名前が書いてあります
向かって右の景色
向かって左の景色
塞神(さえのかみ)・陰陽石 
鎮懐石八幡宮本殿
願い石
願い石 由緒
鎮懐石八幡宮 本殿
鎮懐石八幡宮 本殿内
鎮懐石八幡宮 本殿
鎮懐石八幡宮 本殿
鎮懐石八幡宮 本殿屋根瓦(波)
鎮懐石八幡宮 本殿(鶴?の彫刻)
猿田彦大神
御朱印 向かって右 鎮懐石八幡宮 左 箱島神社


公式の神話によると、この深江の地は「神功皇后が臨月の御腹を石で冷やし、産期を遅らせることを祈った安産の聖地」とされています。

けれど、歴史の現場となった深江の海岸線と、当時の切迫した地政学を重ね合わせたとき、この美しい安産神話の裏側に隠された、生々しい歴史の背景が浮かび上がってくるのです。

深江の海は、仲哀天皇(大王)が北部九州の戦さの拠点(宮)としていた高祖神社(たかすじんじゃ)から見て、西南に位置する外洋(玄界灘)への表玄関にあたります。 

高祖神社から西南に位置する鎮懐石八幡宮

仲哀天皇は、日本の古代暦(和暦)で「仲哀天皇9年2月6日※ 筑紫(現在の福岡県福岡市東区)にあった香椎宮(かしいぐう)(橿日宮(かしひのみや))※で崩御されたと伝承されています。

【※仲哀天皇が崩御された時期には諸説あります。

1. 機械的に西暦に換算した場合

  • 西暦200年
    『日本書紀』の記述をもとに、明治時代に定められた公式な年号計算(皇紀)を機械的に西暦へ当てはめると西暦200年の2月6日となります。 

2. 『古事記』の干支による推定

  • 西暦362年
    『古事記』には「壬戌(みずのえいぬ)の年」に亡くなったと記載されており、ここから逆算すると西暦362年になります。

3. 近年の歴史研究(古代史の復元)による一説

  • 西暦300年前後
    当時の暦(1年を半年とする数え方など)や、実在した可能性が高い応神天皇の年代から逆算する現代の研究者たちの説では、4世紀初頭(西暦300年頃)ではないかとも推測されています。

このように古い時代のため確定した西暦はありませんが、一般的には「西暦200年(または4世紀後半)、春2月の初め頃」として紹介されることが多いようです。】

【※「橿日宮(かしひのみや)」という名称がいつまで使われていたかについては、明確に「この年を境に完全に廃止された」という特定の年月日があるわけではなく、奈良時代から平安時代にかけて、施設の性格が「天皇の仮の都(行宮(あんぐう))※」から「霊廟(れいびょう)※・神社」へと変化していく中で、徐々に「香椎廟(かしいびょう)」や「香椎宮」へと呼び名が変わっていきました。

大王は、博多湾から玄界灘にかけての凄絶な海戦の最中に矢傷を負い、そのまま船の上で崩御されたのか、はたまた神託を受けようと琴を弾きながら座ったまま崩御されたのか、急に病に倒れ崩御されたのか、陸上で「敵の放った矢」に当たって崩御されたのかーー。

その変わり果てた御遺体が引き上げられた(あるいは船が着岸した)現場こそが、まさにこの深江の海岸(子負ヶ原(こぶがはら)海岸(現在の深江海水浴場一帯)だったのではないでしょうか。

目の前の海から引き上げられた、最愛の夫であり、王権の象徴である大王の冷たくなった御遺体。

軍勢がパニックに陥り、崩壊の危機に瀕したその極限の状況の中で、臨月の身であった神功皇后は、動揺する兵士たちの前で毅然と立ち上がってみせました。

「大王の死を敵に悟られてはならない。我々は負けて逃げるのではない、更なる神の命によって進むのだ」と。

この深江(子負ヶ原(こぶがはら海岸))の海岸こそは、皇后が絶望的な動揺を抑え込み、未来への反撃を誓って腹を据えた、強い決意の瞬間を記憶する場所だったのです。

だからこそ、この糸島の地には、文字の歴史がどれほど上書きされようとも、その生々しい記憶を肉体に刻み込んで守り続ける、驚くべき「神事」が昭和30年代まで残されていました。

それが、長糸の宇美八幡宮と、深江の鎮懐石八幡宮の間で行われていた、神輿を担いだ壮大な「御神幸(ごしんこう)」の往復です。

鎮懐石八幡宮と宇美八幡宮の場所
鎮懐石八幡宮と宇美八幡宮の距離と
車での所要時間時間


神幸祭(しんこうさい)の由緒は、神功皇后が応神天皇を懐妊したまま朝鮮半島の「新羅(しらぎ)」へ出兵(三韓征伐(さんかんせいばつ))する際、出産の延期を祈られたということからだそうです。

その後、皇后が無事に出産した聖地が糟屋の宇美八幡宮であり、糸島市川付(長糸地区)の宇美八幡宮もこれに深く関連する『本宮・古社』とされています。

この「祈願の地(深江)」「出産の地(長糸)」を結ぶ特別な神事として、古くから神幸祭(しんこうさい)が行われていたそうです。

かつての秋の神幸祭では、長糸の宇美八幡宮から3台の神輿が出され、深江の鎮懐石八幡宮子負ヶ原八幡宮(こぶがはらはちまんぐう))・深江海岸(子負ヶ原(こぶがはら)海岸)(現在の深江海水浴場一帯)まで長い距離を練り歩く大規模な御神幸(ごしんこう)が行われていました。 

高度経済成長期へと向かう昭和30年頃を境に、以下のような理由から長い距離を移動する神輿の御神幸は行われなくなりました。

  • 交通事情の変化(道路の舗装や自動車の増加)

  • 担ぎ手となる地域の人口減少や労働環境の変化

現在では、当時のような長距離の徒歩による御神幸を見ることはできませんが、双方の神社は今も地域に息づく安産や子宝の聖地として、大切に守り継がれています。

ということですが、しかしなんと!歴史をさかのぼると長糸の宇美八幡宮には、2月に極めて重要な大祭が行われていた記録が残っていたのです。

長糸の宇美八幡宮の古い記録(福岡神社参拝帳など)によると、奈良・平安時代頃には、2月の「初卯(はつう)の日」「7日間」に及ぶ大規模な大祭が行われていた記録が残っていたのです。
 
そうです。

仲哀天皇が崩御されたのは、日本の古代暦(和暦)で「仲哀天皇9年2月6日」でした。
 
「7日間」というのは、仲哀天皇の「初七日(しょなのか/しょなぬか)」の法要を暗示されたものだったのではないでしょうか。

「初七日(しょなのか/しょなぬか)」とは、故人が亡くなった日を1日目として数え、7日目に行う仏教の法要のことです。 

初七日の意味は、故人の魂が最初にあの世の審判(三途の川の渡り方など)を受ける日とされ、残された家族が、故人の成仏を願って供養をする最初の重要な節目です。

この2月の祭りの際にも3台の神輿が出され、供奉(ぐぶ)※の行列とともに二丈深江の海岸(子負ヶ原海岸)まで御神幸していました。

【※供奉(ぐぶ/くぶ)とは、天皇や上皇など身分の高い人の外出(行幸(ぎようこう)など)や祭礼の際にお供の行列に加わること、およびそのお供をする人を意味する言葉です。】

さらに現地では、筑前・筑後両国から人々が集まる大競技会が開催されていたと伝えられています。

つまり、前述した『深江までの御神幸』は、遠い昔(奈良・平安期)には2月の初卯日(はつうび)を期して行われていた歴史があります。

これが時代を経て秋(10月)の秋季大祭の行事として定着し、昭和30年頃まで続いていたと考えられます。 

神功皇后の「鎮懐石(ちんかいせき)」伝説。

それは、夫の死という冷酷な現実から人々の目をそらし、国の命運を繋ぎ止めるための、命がけの "カモフラージュ(偽装)" でした。

つまり、長糸から深江の海へと下るあの御神幸のルートは、単なるお祝いの旅ではありませんでした。

夫の遺体を隠し、すべてを偽って戦わねばならなかった神功皇后の「孤独な決意の跡」であり、同時に、公には決して泣くことを許されなかった皇后が、夫の御霊(みたま)を長糸の地から西の清らかな海へと送り出し、そっと弔うための「葬送と鎮魂の祈り」そのものだったのです。

時代が移り変わり、生々しい政治の秘密や隠蔽の記憶は時の彼方へと消え去りました。

いつしか物語は、人々に希望を与える「安産と子宝のめでたい祭り」へと姿を変え、昭和の街を賑わせました。

しかし、あの神輿の行く手をそっと見つめれば、そこには今も、愛する夫の魂を優しく抱き、国を守り抜いた一人の女性の、静かな挽歌が響いているのです。

地元の氏子たちは、大王の御霊を神輿に乗せ、大王が最期を迎えたあの始まりの海(深江)へと連れ出し、その魂を慰める(鎮魂する)という儀式を、千数百年にわたり実直に繰り返してきたのです。

文字で書けば、時の最高権力者に一瞬で抹殺される「敗戦と大王崩御」の真実。

だからこそ、彼らはそれを「鎮懐石の安産神話」という物語に変え、そして「神輿を担いでそのルートを実際に歩く」という肉体の儀式に変えることで、昭和の世までその背景と状況を無意志氣のうちに守り通したのだと言えます。

ここで、和多志たちはもう一つの深い古代の謎に突き当たります。

何故、神功皇后や、夫の父親とされる『日本武尊(ヤマトタケル)』といった人物たちは、これほどまでに強大な「太占(ふとまに)」の権能をはじめとする、神がかり的な呪術を使いこなすことができたのでしょうか。

太占(ふとまに)とは、鹿の肩甲骨を焼き、そのひび割れの形によって神の意志を読み解く、古代日本最高峰の、そして極めて専門的な呪術・占術です。

単なる思いつきや、にわか仕込みの巫女が扱えるような代物ではありません。

その答えの大きなヒントが、神功皇后が、仲哀天皇(大王)崩御の直前に「太占(ふとまに)」を執り行ったまさにその場所、香椎宮の目と鼻の先にある、博多湾の聖地に隠されています。

それが、「志賀島(しかのしま:鹿の島)」です。

志賀島と志賀海神社と香椎宮
志賀海神社 沖津宮と中津宮
志賀海神社 中津宮
志賀海神社 表津宮跡
志賀海神社 鹿角庫と志賀海神社奉献石柱と
志賀島海水浴場
志賀海神社 鹿角庫
志賀海神社 鹿角庫

志賀島は、古代において日本最強の海の民であり、神功皇后の軍事・航海・そしてシャーマニズム(巫術)を全面的に支えた「阿曇(あずみ)氏」の本拠地です。 

島には彼らの祖神を祀る「志賀海(しかうみ)神社」があり、彼らは「鹿」神聖な神の使い、あるいは呪術の道具として扱う一族でした。

つまり、太占(鹿の骨を焼く呪術)とは、まさにこの「志賀島(鹿の島)」の海洋民たちも代々秘匿(ひとく)してきた、最高峰の専門技術そのものだったのです。

そして、これは決して偶然ではありません。

実はこの志賀島一帯こそが、神功皇后の祖先が朝鮮半島から海を渡って最初に拠点を築いた、皇后自身の「故郷」でもあったのです。

神功皇后のルーツを遡ると、新羅(しらぎ)の王子であり、海の道を拓いてやってきた天日槍(アメノヒボコ)という伝説に突き当たります。

この渡来系の一族が、博多湾の阿曇氏らと深く結びつき、最先端の天文学航海術、そして高度な精神統制の技術(シャーマニズム)を共有していた場所こそが、この志賀島でした。

和多志たちが「呪術」と呼んでいるものの本質は、どこか海外から持ち込まれた怪しげな魔術などではありません。

それは、縄文時代からこの日本列島に生きる人々が、自然の万物や動物、そして大いなる創造神とダイレクトに繋がっていた、きわめて純粋で土着の「祈りと調和の儀式」そのものだったはずです。

当時の北部九州において、海外からの最新情報や技術を独占し、自然のサイクルと創造神の声を聴く「本物の呪術」を共有していた家系のネットワーク。

神功皇后は、けっして「よそ者の悲劇の未亡人」などではありませんでした。

自分の故郷である志賀島や博多湾は、圧倒的に強い指導者たちや味方に囲まれたホームグラウンドだったのです。

大王の遺体を引き上げた深江の海、そしてそれを受け止め、自らの故郷の力を使って大王の死を隠し通した神功皇后。

すべての状況は、彼らが生き残るための必然の絆として動いていました。

ですが、この悲劇の御幸路、長糸の宇美八幡宮から見て深江の鎮懐石八幡宮とは真反対の方角である「東側」には、さらなる多重カラクリが仕掛けてあったのです。

そこには、亡き大王の父親である『日本武尊(ヤマトタケル)』を糸島で唯一祀る、もう一つの不自然な神社「雉琴(きじこと)神社」が存在するのです。

御神幸は、長糸の宇美八幡宮を出発してから何故か「雉琴神社」の地を巡り、深江の海へと巡幸されていたのでした。

次回、第3回。和多志たちは東の「雉琴(きじこと)神社」へと向かいます。

雉琴神社の場所

公式記録では「天皇がまだ生きている」と設定されたその夢の物語の裏側で、日本武尊(ヤマトタケル)のあの有名な「草薙剣の伝説」が、実はこの筑紫の野の戦さそのものであったという、驚くべき歴史の反転劇をお話しします。

(第3回「東の雉琴神社と草薙の剣の真実〜筑紫の野の戦さと物部氏の影〜」へ続く)

【※行宮(あんぐう)とは、天皇や皇帝などの君主が、外出(行幸(ぎようこう))の際や、戦乱・災害などで本来の御所(ごしょ)を失ったときに、一時的に滞在・居住するために設けた仮の宮殿(あんぐう・かりのみや)のことです。行在所(あんざいしょ)御座所(ござしょ)頓宮(とんぐう)とも呼ばれます。】

【※霊廟(れいびょう)とは、亡くなった指導者や先祖、偉人などの霊を祀るための壮麗な建物や施設のことです。】


ここまで読んで頂きありがとうございました。

いつも読んで頂いておられる方、ありがとうございます。
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