絵から消された女性兵士たち:神功皇后と、明治の女権拡張運動〈1〉
象徴的な人物というのは、時代が変わるたびに、その時代が必要とする姿へと読み替えられていくものです。天照大神は、中世に仏教信仰と結びついて大日如来や盧遮那仏に変容し(中尾瑞樹氏「ヴェールを脱いだアマテラス――大嘗祭神論と『日本書紀』」、1996年)、源義経は、江戸期にチンギス・ハン伝説と結びつけて語られました。このように史実かどうかはさておき、こうした語り直しが生まれること自体が、社会の欲望を映す鏡になっています。
私がこの現象にずっと惹かれてきたのは、鏡に映るのが主役だけではないからです。主役の像が書き換えられる陰で、かつて共に描かれていたはずの脇役たちが、静かに絵から消えていくことがあります。
今回から3回に分けて、神功皇后という鏡と、その周りで「歴史から消えた」とされる人々の足跡をたどっていきます。
女帝であり、軍神でもあった皇后
神功皇后は、記紀神話の中で、夫・仲哀天皇の急死後、身重の体で海を渡って朝鮮半島へ遠征し(三韓征伐)、帰国後に応神天皇を産み、その後も60年以上にわたって国を統べたとされる人物です。男装し、軍を率い、長く統治したという経歴は、近代以前にはむしろ、女性の可能性を示す先例として語られてきました。
そして、前近代から明治初期にかけて描かれた大絵馬などの図像には、軍勢を率いる神功皇后の傍らに、甲冑をまとった武装の侍女や女性の兵士たちの姿が、確かに描き込まれていました。彼女たちは、男性の兵とともに軍の一角を担う存在として、絵の中に存在していたのです。
「女子は兵役に堪えない」への反論として
明治初期、自由民権運動や女権拡張運動が高まりを見せる中、参政権の付与に反対する論者たちは「女性は兵役という命がけの義務を果たせない」という理屈を持ち出しました。これに対し、女性の活動家たちは、神功皇后を引き合いに反論します。
『絵入自由新聞』(1883年)に掲載された投書には、神功皇后やジャンヌ・ダルク、当時の英国女王を引き合いに出し、「女子は兵役に堪えられない」という主張への反証として、これらの女性たちの存在を挙げる論が寄せられています。
また、自由民権運動に加わり、大阪事件で逮捕された景山英子(福田英子)は、獄中で詠んだ漢詩の中で、自らを含む女権拡張家たち(彼女はそうした人々を「女志士」と呼びました)を神功皇后に重ね合わせ、「誰が女に大事は成せぬと言うのか、神功皇后の輝かしい名を、私は忘れていない」という趣旨を詠んでいます。岸田俊子もまた、幼い頃から神功皇后を最も尊敬する人物として挙げていたと伝えられています。
女性兵士たちを従える神功皇后の姿は、当時の女性活動家たちにとって、自分たちもまた国政を担いうる知性と勇気を持つことの、歴史的な裏付けだったのです。
象徴が「使える」ものだった時代
ここで注目したいのは、この時期の神功皇后が、単なる「昔の偉い人」ではなく、現在進行形の政治的主張のための、使える象徴だったという点です。
女性が公的な領域に進出することの是非が真剣に争われていた時代、神功皇后という一人の伝承上の人物の描かれ方は、そのまま同時代の女性たちの可能性の是非を占う、代理戦争の場になっていました。
絵の中に女性兵士が描かれているかどうか、皇后が「女帝」として扱われているかどうか――そうした細部が、単なる美術様式の問題ではなく、政治的な意味を帯びていたのです。
しかし、この象徴としての神功皇后は、この後、大きな転換を迎えます。次回は、その転換がどのようにして起きたのかを、当時の女性誌の誌面から具体的にたどっていきます。
>> 〈2〉「女学雑誌が読み替えた、皇后の姿」

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