目に見えるものだけを信じた天皇は、暗闇の中で神に見放された:暗闇と、見まいとする人間〈後編〉
前編では、暗い鏡の前で「見よう」とした人間が、見えるはずのないものを見てしまう話をたどりました。後編では、その裏返しの物語を追います。暗闇の中で差し出された「見えないもの」を、受け取らなかった人間の話です。
舞台は古代の日本。国家の命運を賭けた儀式の夜に起きた出来事は、可視と不可視のあいだで揺れる人間の姿を、驚くほど鮮やかに描き出しています。
暗闇は、神と会うための場所だった
古代日本では、神事や神託の儀式は、多くが夜の暗闇の中で執り行われました。明かりを落とし、視覚を手放した先でこそ、人は人知を超えた存在と向き合えると考えられていたのです。暗闇は恐れる場所であると同時に、神と会うための場所でもありました。
その象徴的な舞台の一つが、筑紫の香椎宮に設けられた「沙庭(さにわ)」と呼ばれる斎場です。『古事記』『日本書紀』に記された第14代・仲哀天皇の崩御伝承は、この夜の沙庭で繰り広げられた、古代屈指の密室劇でした。
琴の音が途絶えた夜
熊襲の反乱を平定すべく筑紫へ下った仲哀天皇は、香椎宮を拠点に、国の行方を神に問う儀式を執り行います。夜の斎場に灯火の匂いが立ちこめるなか、天皇みずから神を招くために琴を弾き、傍らには大臣・武内宿禰が控えて神の言葉を待ちました。
やがて皇后である神功皇后に神が憑き、その口を借りて神託が下ります。西の方に、金銀をはじめ数々の宝に満ちた豊かな国がある。熊襲などより、まずその国を与えよう、と。
しかし天皇は、この声に疑いを抱きます。琴を弾く手を止め、高台に登って西の海を見渡しても、そこには暗い大海原が広がるばかりでした。天皇は言います。高いところから見ても、西に国など見えない、これは偽りの神だ、と。そして神託をあざ笑うかのように琴を押しやり、弾くのをやめてしまいます。
神は激しく憤り、暗闇の奥から宣告します。お前はこの天下を治めるべき者ではない、と。恐れおののいた武内宿禰は、どうかそのままお琴をお弾きください、と懇願しました。天皇はしぶしぶ琴を引き寄せ、か細い音を奏で始めます。しかしその音はやがて衰え、夜の闇の中に静かに途絶えました。不審に思った者たちが火を掲げると、そこには、すでに息絶えた天皇の姿があったのです。
見ようとした者と、見まいとした者
ここに、前編と正反対の構図が現れます。
ブラッディ・メアリーの儀式で、人は暗闇の中でなお「肉眼」を使おうとしました。見えないはずのものを見ようと凝視し続けた結果、脳が像を結び、怪異を呼び出してしまった。見ようとしすぎたがゆえに、見てしまったのです。
対して仲哀天皇は、暗闇の中で「目に見えないこと」を根拠に神の声を退けました。高台から見ても海しか見えない、だから偽りだ、と。これは見方によれば、きわめて実証的で誠実な態度でもあります。観察できるものだけを信じる――近代的な理性の作法に、むしろ近い。
しかし神事の暗闇は、そもそも視覚を手放す場所でした。明かりを消すのは、目に頼るのをやめ、耳や別の感覚で不可視のものを受け取るためです。その空間で可視性に固執したことが、決定的な過ちとなりました。見まいとしたがゆえに、見放されたのです。それは、仲哀天皇が、天皇に相応しい人物ではないと神に判断されたことを示しています。
見ようとして幻を招く者と、見まいとして神を失う者。
千数百年と大陸を隔てた二つの暗闇は、可視と不可視のあいだで人間がいかに危うく揺れているかを、静かに映し出しています。
まとめ
暗闇とは、人が理性の力で世界を隅々まで照らしたと錯覚した瞬間に、その足元にふっと広がる余白なのかもしれません。そこに神や霊を見てしまうのは、私たちが目に見えるものだけで生きているのではないことを、どこかで知っているからでしょう。
明かりを消して鏡をのぞくのも、暗闇に神の声を聴こうとするのも、突き詰めれば同じ問いに行き着きます。見えないものと、どう向き合うのか。夜の暗さに背筋が寒くなるとき、私たちは案外、その問いのすぐそばに立っているのかもしれません。
<< 怪談〈前編〉「鏡に現れる『血まみれの女』は、なぜ聖母マリアなのか」

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