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鏡に現れる「血まみれの女」は、なぜ聖母マリアなのか:暗闇と、見ようとする人間〈前編〉

太陽が沈み、世界から光が失われるとき、私たちの日常を支えている「現実の輪郭」は、ふと不確かに揺らぎ始めます。人間はもともと、光の下で視覚を最大の頼りにして世界を確かめてきた生き物です。だからこそ暗闇は、単に明るさが足りない場所ではなく、日常のすぐ隣にある「異界」との境界になってきました。

暗闇を、人はなぜ怖がるのでしょうか。
太陽が沈んだ後も、火という光を得た人間は、暗闇の中に潜む、自らの命を脅かす動物から身を守ってきました。光は、自分を守るものでした。
ところが、火は消えます。火が消えた後は、暗闇が広がるだけです。そこは、危険をはらむ世界でもありました。暗闇の世界には、確かに自分以外の存在があります。動物や虫の声、草木の動き、水の中で跳ねる音――それは灯りが発明された後も、同じです。悪事の多くは、暗闇の中で生まれるのですから。だからこそ、人間は暗闇を怖がるのでしょう。

しかし、怖いと知りながら、わざわざ明かりを消して鏡をのぞき込む遊びを生み出してしまいます。この矛盾した衝動の底に何があるのかを、私はずっと考えてきました。今回はその入口として、アメリカで語り継がれてきた一つの都市伝説を紹介します。


明かりを消して、鏡を見つめる

「ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)」は、ハロウィーンの夜や子どもたちの集まりで好んで語られる怪談です。
その呼び出しの儀式は、驚くほど簡単です。

挑戦者は家の中でいちばん手軽に闇を作れる場所――たいていはバスルームやトイレ――に入り、ドアを閉めて明かりを消します。そして漆黒の中、鏡の表面をじっと見つめ、その名を三度呼びます。すると鏡の奥から、血にまみれた女の姿がゆらりと浮かび上がる、とされます。名を呼ぶ回数や、その場で三回まわる、蝋燭を灯すなど、やり方には土地ごとのバリエーションが伝わっています。

なぜ舞台は「トイレ」で、「暗闇の鏡」でなければならないのでしょうか。
考えてみると、この部屋は二つの条件を完璧に満たしています。完全に光を遮断して暗黒を作れること。そして、必ず鏡が備え付けられていること。日常でもっとも生活感にあふれ、無防備なはずのプライベート空間が、扉を閉めて明かりを消した瞬間、世界から隔離された密室へと変わります。そこで鏡を凝視するという行為が加わることで、ありふれた部屋は異界に接続する「境界空間」へ反転するのです。

暗闇の中で、脳は像を結ぶ

この現象には、心理学や脳科学の側からも興味深い説明が試みられています。視覚情報が極度に遮断された暗闇の中で、人が同じ対象をじっと注視し続けると、脳の正常な知覚処理に揺らぎが生じ、錯覚や幻覚が起きる、というメカニズムです。

人は「何も見えない」状態に置かれると、無意識のうちに情報を補おうとします。しかし目の前にあるのは闇だけです。行き場を失った脳は、やがて自分の内側に沈んでいた恐怖や不快感、記憶の断片を像として紡ぎ出し、「そこに何かがいる」という手応えを伴って肉眼化してしまうのです。

暗闇の中で鏡を見つめるとは、外の世界を見る行為ではなく、自分自身の内なる深淵をのぞき込む行為なのかもしれません。

呼び出されているのは、聖母マリアである

さて、この「血まみれの女」の正体は誰なのでしょうか。
「ブラッディ・メアリー」としてすぐに想起されるのは、イングランドのメアリー1世です。エリザベス1世の異母姉であるメアリー1世は、約300人のプロテスタント処刑で「血まみれのメアリー」の異名を得た実在の女王です。
ただ、「Bloody Mary」という語に注目すると、アメリカで育った人の証言では、都市伝説の中で特に興味深いのは、その正体が「キリスト教の聖母マリア」であると語られることがあります。

本来、聖母マリアといえば、20代から30代の神秘的で母性あふれるオーラをまとった、救いと慈愛の象徴です。しかし暗闇の鏡の中に現れるブラッディ・メアリーは、全身が血まみれで穢れ、あろうことか「殺された赤ん坊(幼子キリスト)」を抱いているとさえ語られます。
絶対的な「聖性」や「母性」の象徴が、真逆の「血と死と穢れ」へと反転して現れるギャップ――それこそが、人々の無意識に潜む強烈な不快感や「闇」の恐怖を呼び覚ますのです。

もちろん、聖書にそのような記述があるわけではなく、子供たちや怪談ファンの間で語り継がれてきたフォークロア(都市伝説)に過ぎません。
しかし、本来は崇めるべき存在の「聖性」が怪異へと暗転する構造からは、暗闇という空間が人の心の前提や知覚を狂わせてしまう恐ろしさが浮き彫りになります。
名前とイメージが伝わり、その中身が語る人によって入れ替わっていく。鏡の中に何を見るかは、結局、こちら側が決めているのです。

まとめ

明かりを消し、鏡を凝視する。それは、暗闇の中でなお「見よう」とする行為です。そして人は、見ようとしすぎるがゆえに、見えるはずのないものを見てしまうのです。

では、暗闇の中で「見えないもの」を受け取ろうとしなかったとき、人はどうなるのでしょうか。後編では、遠く古代の日本で起きた、もう一つの暗闇の物語をたどります。

>> 怪談〈後編〉「目に見えるものだけを信じた天皇は、暗闇の中で神に見放された」

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