心凍てつく前に19「さよならを置いて…」
最終章 さよならを置いて・・・
香織は一人部屋へ戻った。
さっきまで二人でいた部屋だった。
けれど。
襖を開けた瞬間、香織は足を止めた。
広い…
こんなに広い部屋だっただろうか。
乱れた寝具。
二つ並んだ枕。
小さなテーブルに残された二つの湯呑み。
そして、窓から差し込む朝の光。
何ひとつ変わっていない。
ただ、そこに青山はいない…
それだけだった。
たった、それだけのことなのに、すべてが違って見えた。
香織は畳の上に膝をついた。
昨夜の温もりが蘇る。
抱き締められた腕。
耳元で呼ばれた自分の名前。
背中に触れた指。
どれも確かに、ここにあった。
夢ではなかった。
それなのに。
青山がいなくなった途端、それらは手を伸ばせば壊れてしまいそうな記憶へ変わっていく。
胸の奥にあるのは、ただの寂しさではなかった。
何か大切なものを、もう一度失ったような感覚だった。
いや違う…
最初から、自分のものではなかったのかもしれない。
昨夜だけ。
ほんの一晩だけ。
六年前に置き忘れたものを、神様が返してくれただけなのだ。
――これで、終わったんだわーー
香織はゆっくり立ち上がった。

帰り支度を始めた。
服を畳む。
化粧品をしまう。
読みかけのまま一度も開かなかった本を、鞄の底へ入れる。
洗面所で化粧を直した。
鏡を見る。
そこに映っているのは、昨日ここへ来た女と同じ顔だった。
けれど。
本当に同じなのだろうか?
香織には、わからなかった。
ただ一つわかっていることがあった。
ここを出れば、また現実が待っている。
永井がいる。
自分が捨てきれなかった過去がある。
香織は鏡から目を逸らした。
部屋へ戻り、電話を取った。
「……チェックアウトをお願いします」
少し間を置いた。
「それと、タクシーを一台、お願いできますか?」
受話器を置く。
テーブルの上には、小さな急須が残っていた。
香織は冷めたお茶を湯呑みに注いだ。
薄い色だった。
一口飲む。
ぬるく。
渋みさえ、ほとんど残っていなかった。
香織は小さく笑った。
「出涸らしみたい……」

冷めたお茶を飲みながら、もう一度部屋を見渡した。
あの人は、ここから去った。
そして自分も、ここを出ていく。
青山には青山の日常がある。
自分にも、戻らなければならない現実がある。
この一夜は。
失われた六年を埋めるものではなかった。
何かをやり直すための始まりでもなかった。
ただ.....
あの頃、本当に愛していたことを。
そして今も、その気持ちがどこかに残っていたことを。
確かめるための一夜だったのかもしれない。

香織はバッグからスマートフォンを取り出した。
画面を開く。
連絡先・・・
指が止まった。
「青山正勝」
その四文字を、しばらく見つめた。
昨夜までなら......
この名前が残っているだけで嬉しかった。
いつでも連絡できる。
いつか連絡が来るかもしれない。
そんな小さな希望に縋っていたかもしれない。
けれど.........
香織は目を閉じた。
――もう、待つのはやめようーー
青山を嫌いになったわけではない。
忘れられるとも思わない。
むしろ.........
今でも愛している。いや、今だからこそ愛している。
だからこそ、愛しているからこそ
もう、待ちたくなかった。
六年前のように。
電話を待って。
約束を待って。
帰ってくる日を待って。
誰かに選ばれることだけを、自分の人生にしたくなかった。
香織は目を開けた。

そして。
「削除」
指先が触れた。
名前が消えた。
胸が痛んだ。
思っていたより、ずっと痛かった。
香織はスマートフォンを胸へ抱いた。
「さよなら……青山君」
声にすると、涙が一粒だけ流れ落ちた。

「お車が到着いたしました」
ノックとともに、仲居の声が聞こえた。
「はい。今、参ります」
香織は涙を拭った。
ボストンバッグを持つ。
部屋を出ようとして......
一度だけ、足を止めた。
振り返りそうになった。
けれど。
振り返らなかった。
そのまま襖を閉じた。

タクシーの車窓には、来たときと同じ緑が流れていた。
何も変わっていない。
ただ......
隣に青山はいなかった。
「どちらまで?」
運転手が訊いた。
香織は答えようとして、言葉を止めた。
東京へ…
そう言えばいい。
来た時と同じように、三島駅まで戻って、新幹線に乗ればいい。
そして。
いつもの生活へ帰ればいい。
けれど。
「……海へ」
「え?」
運転手がバックミラー越しに香織を見る。
香織は自分でも驚いていた。
なぜ、そんな言葉が出たのかわからなかった。
それでも今度は、はっきり言った。
「海が見たいんです」
少し考えて。
「今井浜へ行ってください」
今井浜・・・
もう七、八年前になるだろうか。
入社して間もない頃、会社の慰安旅行で訪れた場所だった。
まだ何も知らなかった頃。
まだ未来というものを、疑わずに信じることができた頃。
青山と一緒に見た海。
もう一度だけ。
あの海を見てみたかった。
――最後に、もう一度だけーー
タクシーが走り出した。
車窓を緑が流れていく。
香織は窓に額を寄せた。
どこへ行けばいいのかなど、まだわからなかった。
青山を忘れられるとも思わなかった。
永井のもとへ戻って、以前と同じように生きていけるのかもわからなかった。
ただ・・・
今は東京へ帰りたくなかった。
誰かの愛人でもなく。
誰かの昔の恋人でもなく。
誰かに抱かれる女でもなく。
ほんの少しだけ。
綾崎香織という一人の人間に戻りたかった。
窓の向こうで、夏の光が揺れていた。
完
「心凍てつく前に…」全編はこちらです。
まだ、お読みになっていない方は是非ご覧下さるようお薦めいたします。
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