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AI時代の批判的思考力について

5月30日(土)の日経朝刊の読書欄に、「AI時代の批判的思考力」というタイトルで、経営学者の伊丹敬之、社会学者の苅谷剛彦の意見が紹介されていた。

伊丹の話は、「人工知能(AI)時代だからこそ、「人本主義」が可能にしてきた現場を中心とした能力蓄積が生きる」として、「最後の作業は一手間にたけた人間が担当する。デジタルとアナログのミックスが日本企業の狙い目の一つと見抜く。」と、日本企業にも勝ち筋があることを説く。

苅谷は、「英国の大学では、知識や情報をいかに組み合わせ、自分なりの議論を作り上げるかが問われる。知識の習得より、考える力こそ評価対象となる。」のに対して、「日本の大学は、費用をかけずに効率的に幅広い知識を伝達することに強みを発揮し、成績評価は知識の習得を中心」であることから、「AIの影響は、日本の大学教育にとってより深刻なものにならざるを得ない。」という。つまり、AIで代替可能な能力ばかり問うたところで、意味がないし、日本の大学教育自体がオワコンになりかねない。

両者が共通して主張していることは、「AIに代替可能な能力(知識の収集・要約・効率的な処理)を評価してきた従来のシステムの機能不全」であり、本来ならば、AIで代替できない能力を問う評価への転換をすべきところ、日本の大学教育において、それがまだ手付かずのままであることに対する危機感である。

だが、前に別の記事に書いたとおり、米国の大学でも似たような問題を抱えている。米国の大学で、生成AIの普及によって学生の成績がインフレを起こしているのだ。つまり、日本の大学だけが遅れているわけではなさそうである。

刈谷の主張する、AI時代における大学の存在理由は、単なる知識の伝達(AIで代替可能)ではなく、「問いを立てる力」「自前の論理を組み立てる力」を鍛える場所として再定義するしかない。

伊丹の主張、「ラスト1メートルをアナログ的に行うデジタル化」は、現場のリアルな感覚や、相手の感情、文脈を汲み取って「最後の一手間」をかける能力であり、これはAIには不可能な、身体性や経験に裏打ちされた暗黙知の領域のことを指す。

そしてこれらは、冨山和彦がよく使う「ボス力」、つまり「上流において、適切な問いを立てる能力」「現場に近い下流で、最適解を選択する能力」および「選択した結果に責任を負う覚悟」に呼応する。

とっくに時代は変化してしまっているのに、日本の大学がアップデートされておらず、明治時代以来のやり方、つまり「費用をかけずに効率的に幅広い知識を伝達すること」ばかりに汲々としているとすれば、困ったことである。

まるで、電卓に任せれば一瞬で片付く計算問題を、相変わらず手計算するのにこだわっているようなものである。

もちろん、必要となれば時間がかかっても手計算できる基礎学力を有することに価値がないとは言わない。そういう基礎学力があればこそ、計算間違いに気がつくことができる。

上流と下流の中間部分をすべてAIに丸投げで、自分では何もしないのに慣れ切ってしまうと、AIに嘘をつかれていてもわからないことになる。それはそれで困る。一定の基礎学力は重要なのだ。

でも、そういうプロセスでAIと勝負しても意味がない。AIを使いこなした上で、人間として何ができるか、どういう価値を提供できるかが勝負の分かれ道なのだ。

大学生に限らず、我々社会人も、AIとの関わり合い方について、頭を切り替える必要がある。「使わない」という選択肢は、もはやナンセンスだからである。

上流工程においては、 「そもそも、いま本当に解くべき問題は何なのか?」を発見する力(既存の枠組みを疑う批判的思考力)が重要であり、

下流工程においては、 「AIが提示した3つの選択肢のうち、リスクを承知でこれを選ぶ。責任は私が持つ」と腹をくくる力(ボス力)、そして「現場の人間を動かす一手間」(伊丹氏の言うラスト1メートル)が重要となる。

で、「中間部分」はAIに任せて、潔く捨てる。

この割り切りができないまま、これまで通りの「手計算の美しさ」みたいな領域を評価し続けようとすると、米国の大学のように評価がインフレしてシステムが形骸化するか、あるいはAIの要約をただ鵜呑みにするだけの「受け身の思考停止社会」に沈んでいくことになってしまう。

「中間を捨てる」というマインドセットの転換こそが、今あらゆる組織と教育に求められている最大のパラダイムシフトだと改めて実感させられる。

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