🟠【静かめ!かんもくちゃん】服屋の店員と秒速鬼ごっこ編
「かんもく氏」は、外界においては、沈黙の極みに至る。
時として、その肉体は意思を拒み、大理石の如く凝固する。
そのように、常に精神の糸を張り詰めたるかんもく氏、未踏の街へと一歩、果敢なる踏査を試みた。
目的の地は、駅ビルに位置する「華美な衣類店」。
足を踏み入れたるその刹那、己が存亡を賭けたる壮絶なる試練が始まる__
◆◆◆
そこは、あの素朴で懇ろなる風情とは、似ても似つかぬ異境であった。
そこらのスーパーくらいにしか行かぬ我は、「都会」という怪物の、そのあまりに異質なる威容の前に、ただすくむ他なかった。

おののく心をかろうじて抑え、我はその未知なる敷居を、静かにまたいだ。
すると、眩きばかりの文明の余波が、容赦なく私の五感を襲う。
天井より注ぐその人工の細光は、無用の殺生を試みる猟師の矢の如く、私の脳天を狙い澄ましていた。
それは、見る者を威嚇せんとする光の暴力に他ならなかった。
鏡面のごとく磨き抜かれた大理石の床は、覗き込めば己の浅ましき怯え顔を、そのまま映し出しそうであった。
そこに漂うのは、実家の古畳や祖母の纏う安穏たる残り香とは似ても似つかぬ、甘く鼻を刺す人工の芳香であった。
店内に鳴り響く音楽は、言の葉の解せぬ異国の旋律であり、それが容赦なく私の精神を掻き乱した。
__到底、合点のゆかぬ世界であった。
私はいつの間に、これほど異質な迷宮へと迷い込んでしまったのだろうか。
「もはやこれまで。即刻、退却せねばならぬ」と身を翻そうとした、まさにその刹那、奴は現れる。
「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか」
無用に華美なる衣裳で身を飾り立てたる、油断ならぬ刺客が、ついにその姿を現したのである。
満面に無垢なる笑みを浮かべ、その眩き容貌を以(もっ)て、容赦なく私の間合いへと侵入してくる捕食者。
我が身を標的として射抜くその眼差しに、私は一瞬にして眩暈を覚えた。
私の精神は悲痛なる祈りを叫び続けていた。
(止まれ、近づくことなかれ!)
しかし、脳裏で吹き荒れる「来るな」という恐怖の嵐とは裏腹に、私の肉体はただ静まり返っていた。
ただ立ち尽くす無能を恥じた私は、件の獣紋たる布地を手に取るたや、異常なる速度で指先を動かし始めた。

その服と私との間には、いかなる美意識の共通点も見出せず、ただただ異質な存在がそこに孤立しているだけであった。
(うむ、中々の佳品ではないか)
私が命懸けで編み出した浅薄なる擬態など、端からお見通しであると言わんばかりに、眼前の怪物は、不敵なる笑みを浮かべて語りかけてきた。
「そちらは、流行りの最先端をゆく品で、残り一点でございます」
その刹那、私は胸中に鋭き冷徹なる針を突き刺されたるが如く、ただ「ギョッ」と身体を震わせる他なかった。
この狩人は何を言い出すかと思えば、これほどまでに奇怪で華美なる衣類が、当世の都でもてはやされているというのか?
万が一にも、このような奇抜なる衣裳を我が在所で身に纏おうものなら、世間の良識ある人々から、物狂いの沙汰として語り草になることは火を見るより明らかであった。
都に住まう人々の精神のありようというものは、私のような者には到底、合点のゆかぬ不可解な領分であった。
私の精神が都会への違和感を静かに紡いでいるその刹那、沈黙の壁を打ち破るように、捕食者の容赦なき追撃が始まった。
「これほど見事に調和するお姿はございません。どうぞあちらの試着室へお進みください」
都会という怪物の真の恐ろしさを、私は何一つ知らなかった。
「大丈夫です」という、わずか五文の救いがどうしても喉の関門を破れず、重き石となって底に沈んでゆく。
その一言を浴びたとき、私は己の完全なる敗北を悟った。
相手の指し示す方向へ、ただ非情なる運命の導きに従うだけであった。
(もはや一刻も耐え難い。我は我の、静かなる領分へ帰るのだ)
外界から眺める我が姿は、「店員の熱心なる勧告に快く応じ、当世流の流行を嬉々として愉しむ、大層物分かりの良い娘」そのものであったに相違ない。
しかしその実態は、都の底知れぬ物騒さを知る由もなく、ただ無惨に前線へと駆り出された、憐れむべき丸腰の戦闘員なのであった。
厚い布一枚に隔てられ、都の狂気は一瞬にして遠のいた。
しかし、我が手中には、都の洗練という名の毒を孕んだ、例の斑(まだら)模様の衣類。
眼前の衣類を身に纏(まと)うことこそが、外界へ生還するための唯一の通行手形であり、私に拒絶の選択肢は残されていなかった。
我はあふれんとする涙を眼裏に堪(こら)え、その服を見に纏った。
意を決して眼前の硝子を覗き込んだ刹那。
「これはいかなる怪異の仕業か。」

鏡の向こうに佇むのは、私の見知った己の姿などではなく、「浪華(なにわ)の老婦人」そのものであった。
いまだ十代という、うら若き春の盛りにありながら、わずか一枚の布の魔力によって、かの「浪華(なにわ)の老婦人」へと無残な変貌を遂げてしまったのだ。
捕食者の包囲網は、ついにこの密室の目前にまで達していた。
カーテンの隙間から漏れ聞こえるお愛想の声音は、我にこれ以上の潜伏を許さぬ、絶対的な威嚇を孕(はら)んでいた。
…見せるわけにはいかぬ。
しかし、発声の術を奪われたる私には、「寸法が合いませぬ故…」という、至極真っ当なる拒絶の弁を述べることさえ、到底叶わぬ大業なのであった。
恐怖の念を抱きつつも、我は自らの不調和なる仮装をさらけ出した。
そこには当世の都の光を浴びて、堂々と威風を放つ「浪華(なにわ)の老婦人」の姿が顕現(けんげん)したのであった。
すると眼前の捕食者は、我が不調和なる姿を見るや否や、「まあ、大層お似合いでございますこと」と、空間を震わせるほどの高らかな声音で、白々しき賛辞を浴びせてきた。
白々しき嘘を吐くものではない。
君のその眼は、一体いかなる幻影を見つめているというのだ。
これほど老成したる獣紋(じゅうもん)の布地を身に纏(まと)うた十代の小娘が、我が在所(ざいしょ)の、あの緑豊かなる田園のどこに佇んでいるというのだ。
「お会計にいたしますか?」
ついに、最後にして唯一の好機が到来した。
これまで都の狂気に翻弄され、散々な辛酸を舐め尽くしてきた我であったが、ここで頑なに拒絶の意思を示し、首を横に振ることさえできれば、このどん底から脱出することができるのだ。
結末さえ正しければ、万事は美徳へと昇華される。
私は大理石のごとく凝固せる肉体を、精神の火を以て懸命に突き動かし、頑なに被りを振ってみせた。
しかし。
「お会計ですね。承知いたしました。」
終わりである。
華やかなる都への幻想は、無慈悲に打ち砕かれた。(一度ならず二度までも)
都会という怪物の真の恐ろしさを、私は何一つ知らなかった。(一度ならず二度までも)
私は万事を諦め、あの洗練されたる捕食者の後ろ影に従って、静かに帳簿(レジ)の置かれた台へと歩みを進めた。
都の放つ洗練されたる捕食者が、これほどまでに執拗かつ油断ならぬ強敵であろうとは、当時の私はおよそ想像すら及ばぬことであった。
田舎の穏やかな秩序のなかで培われた私の防衛策は、都の放つ圧倒的な熱気の前に、一瞬にして霧散した。
帳簿(レジ)に提示されたるその数字は、郷里の市場であれば数多(あまた)の布地を手に入れられたはずの重みを持っていた。
震える手をかろうじて動かして差出した紙幣は、手際よく機械の中へと吸い込まれてゆく。
これにより、私の懐に眠っていたささやかなる蓄えは、跡形もなく、綺麗さっぱりと消滅を遂げたのである。
「有り難うございました。」
私はそれ以上の滞留を恐れ、足早に退散した。
すべてを失い、ただ静かに敗走する私を慰めんとでも言うのか、一筋の爽やかなる風が、都の空から舞い降りてきた。
…これほどの重き代償を支払わされたのである。
手ぶらで退却する愚を犯すわけにはいかまい。
今日という日は、都会の洗練の前にただ平伏する他なかった。
しかし、我が精神の火が消え失せぬ限り、次なる戦いの幕はいずれまた上がるはずである。
我が胸中においては、此度の屈辱を晴らすべく、熾烈なる闘志が沸々と燃え上がっているのであった。

後日談を付記するならば、あの都の洗練の象徴は、私の日常に馴染むことなく、今も箪笥(タンス)の底で静かなる余生を送っている。
「現代のうるさいver.」が見たい方は、こちら!
