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40年間の末路 第19章 父に丸を付けた日 ドキュメンタリー小説|自叙伝|30代

 電話に出た途端、茉梨の声が耳に飛び込んできた。

 「どうしよう、どうしよう!」

 言葉にならない叫びだった。錯乱している、と瞬時にわかった。

 「どうしたの、落ち着いて」
 「乃愛を保育園に預けて、会社に向かっていたら、
  ぼーっとして交差点で車と衝突しちゃった!」

 「怪我は? 車は安全な場所に止めた? 警察は呼んだ?」

 「私も相手も怪我はない。でも車が大破して動かない。警察はこれから」

 「場所はどこ?」

 「会社近くの蕎麦屋がある交差点」

 会社から車で2分の場所だった。

 「今すぐ行く。警察に連絡して、指示に従って。
  相手とお金の話はしちゃだめだよ」

 「わかった。早く来て」

 僕は濱野部長に茉梨の通勤災害の件を告げて、すぐに現場へ向かった。

 蕎麦屋の前の路肩に、横転した茉梨の車があった。相手の車も前面が大破していた。二台が片側一車線をふさいでいた。茉梨は血相を変えて路肩にぺたりと座り込んでいた。
 コイン精米所の駐車場に車を止め、交通整理に入った。まもなくパトカーと救急車が到着した。
 現場検証が始まると、警察官が近づいてきた。

 「同乗者ですか」

 「いいえ。この人の勤務先の総務担当です。
  連絡を受けて駆け付けました」

 「ご苦労様でした。あとは警察が対応します」

 茉梨に近づいて、小声で伝えた。

 「落ち着いたら保険会社にも連絡して。また連絡してね」

そのまま会社に戻り、上司に状況を報告した。

 状況を整理すると、こういうことだった。
茉梨が赤信号を見落として直進し、右折してきた車と衝突した。
前日の夜の修羅場と、その後の寝不足が原因だろうと思った。
その寝不足になった原因の一端は、間違いなく僕にもあった。
だから責める気にはなれなかった。
ただ、ため息をつくことは止められなかった。

 夕方、定時になると茉梨から電話が鳴った。

 「車はレッカー移動したけど廃車だって。
 乃愛のお迎えに間に合わないから、迎えに行ってくれる?」

 「え、僕が保育園に?」
 「まだ整備工場の手続きが終わらなくて、
  お迎えの時間に間に合わない。
  あなたは乃愛とも面識あるでしょ。
  保育園に連絡しておくから、
  乃愛を拾ったら私を迎えに来て。
  そのくらいやってよね

 最後の一言が、あたかも当然のような命令口調で、カチンときた。
事故現場に駆け付けたのは総務担当としての職務上の判断だ。
でも娘のお迎えはまた別の話だ。元夫の役割ではないのか。

 「元旦那のほうが……」
 「アイツの顔は見たくもない」
 「両親は?」
 「どちらも仕事中で連絡付かない。そもそも遠いから無理」

 逃げ道をすべて塞がれた。仕方なく保育園に向かった。
 受付で保育士に事情を説明した。

 「乃愛ちゃんのママの代わりに迎えに来ました」

 保育士は僕の顔をじっと見てから、首をかしげた。

 「乃愛ちゃんのお爺ちゃんですか?

(え?そんな風に見える?!)

 21歳の茉梨とその1歳の娘に対して、38歳の僕は「お爺ちゃん」と言われても仕方がないほどやつれた顔をしていたに違いない。

 「いいえ。茉梨さんの会社の者です。
  緊急事態で家族が迎えに来られないため、代理で参りました」

 保育士たちの視線が変わった。『疑心暗鬼』という四文字がそのまま頭に浮かんだ。
 不審者を見る目だった。なかなか引き渡してもらえず、結局茉梨に電話して、保育士に直接説明してもらった。

 「わかりました。今回は特別に、パパとして認めます」

 電話口で茉梨がそう言ったらしく、保育士は電話を切った。

 「はぁ? パパ?」

 どうやら茉梨は僕を「新しいパパ(仮)」として強引に押し通したらしい。保育士が奥から乃愛ちゃんを連れてきて、引渡書を差し出した。

 「こちらに乃愛ちゃんのお名前と、そちら様のお名前をご記入いただき、続柄は父に丸をお付けください」

 「父ではないんですが…」

 「規則ですので、とりあえず…」

 渋々、言われた通りに署名した。引渡書の「父」と印刷された続柄欄に丸をつける瞬間、例えようのないハメられた気持ちになった。

 乃愛ちゃんと手をつないで保育園を出た。背後で、保育士たちがくすくすと笑っていたのを気づいたが、振り返らなかった。
 いや振り返れなかった。その嘲笑は、耐えがたい屈辱だった。
 最初からお爺ちゃんです、と虚偽の申請をしたほうが、まだマシだったと、今更ながら後悔した。

 乃愛ちゃんは小さな手で、しっかりと僕の左手の指を握っていた。

その温もりが、僕の張り詰めた心を少しだけ緩めた反面、余計に惨めにしたようで、複雑な思いがグルグルと駆け巡った。

第18章   第20章

#創作大賞2026 #恋愛小説部門

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