40年間の末路 第35章 調停離婚で不戦敗 ドキュメンタリー小説|自叙伝|50代
2022年11月17日(木)の早朝に茨城の実家を出発した。
9時ちょうどに埼玉の家庭裁判所に着くと、駐車場にはまだ一台も車はなく、一番乗りだった。受付を済ませると、職員から二つ質問があった。
「相手方との対面は希望しますか」
「お断りします」
仁美が激高して話し合いにならなくなるリスクは避けたかった。
「弁護士は同席しますか」
「いません」
脇に抱えたブリーフケースを少し強く握りしめた。
子どもたちは全員独立し、分与すべき不動産もない。
事前にネットで調べ尽くし、家庭裁判所のHPからダウンロードした書類はすべて自分で書き上げた。
弁護士費用を浮かせるための、孤独な戦いだった。
案内された法廷の待合室で座っていると、他に二組の夫婦がやってきた。40代くらいの夫婦は無言で並んで座っていた。30代くらいのもう一組は、小声で言い争っていた。別々の部屋で待機にして正解だった、と改めて思った。
後から来た二組の夫婦が先に調停室に呼ばれて消えた。瞑想しながら一人で待った。
予定通りの順番なのか。まさか仁美がバックレたのか。じわじわと不安が滲み一時間が過ぎた頃、ようやく職員に呼ばれた。
小さな会議室に、50代女性の調停委員と30代男性の職員が座っていた。申立書に書いた通り、申立の理由と趣旨を淡々と説明した。調停委員からの質問に答えてから、再び待合室に戻った。
しばらくして、隣の部屋から仁美が職員に呼ばれる声が聞こえた。会議室に入る足音がした。十分ほどで出てきて、待合室に戻る音がした。
すぐにまた職員に呼ばれ、会議室に入ると、調停委員が言った。
「仁美さんは今回の申立に異論はないとのことです。これで離婚調停は終了になります」
「え……てことは、今回で離婚成立ですか」
「そうです」
頭の中が、一瞬止まった。
あれだけ「全てはパパの浮気のせい」「一生赦さず、償わせてやる」と抵抗してきた仁美が、あろうことか最初から戦意喪失し、白旗を上げて不戦敗?
想定外の完全勝利に拍子抜けした。
いや待て。
11月の今日、離婚が成立すれば、今年の年末調整で配偶者控除が受けられなくなる。
所得税と住民税を合わせて、ざっと十数万円の増税だ。
ただでさえこれからの生活費が逼迫するというのに、今ここで白旗を上げられてはたまらない。
頭の中の電卓が猛スピードで弾き出した損失額に、背筋が寒くなった。
しかも財産分与はまだ概算しか出していないし、支払方法も何も決めていない。細かい資料は準備していたが、今ここで提示するのはマズイ。
「財産分与についてもう一度精査したいので、1月に再度調停をお願いします」
「1月は既に全ての予定が埋まっているので、2月の10日か17日になります」
「では2月10日で」
迷わず早いほうを選んだ。
再び待合室に戻ると、仁美が入れ替わりで会議室に入り、三分もしないうちに出てきた。三度目の呼び出しで会議室に向かう直前、隣の部屋から仁美の声と、もう一人の若い女性の声が聞こえた。
光太郎の嫁さんの沙穂ちゃんだ。
仁美は一人では来られず、沙穂ちゃんに連れてきてもらったらしい。
だが、腑に落ちなかった。
仁美が埼玉の光太郎の家に転がり込んだ時、沙穂ちゃんと大喧嘩して家出し、いわきの実家へ逃げ帰ったはずだ。
天敵同士だったはずの仁美と沙穂ちゃんの二人が、なぜ一緒にここにいる?
女たちの奇妙な連帯に、得体の知れない薄気味悪さを感じた。
会議室に入ると、調停委員が言った。
「仁美さんも2月10日で承諾されました」
「ありがとうございます」
とりあえず3ヶ月の猶予が生まれ、年内の離婚成立はなくなり、所得税の増額も回避できた。
家庭裁判所を出ると、駐車場に光太郎の車があった。沙穂ちゃんだけでなく、光太郎も来ていたのか。それとも沙穂ちゃんが運転してきたのか。どちらにせよ、ここで鉢合わせすればトラブルになるので、すぐに車を走らせた。
埼玉から茨城に入り、道路沿いにあったラーメン店に立ち寄り、遅めのランチを食べた。
食後さらに自宅と裁判所の中間にあるネットカフェに立ち寄り、財産分与の整理と支払方法について、改めて綿密な計画を練り始めた。
すると、ネットカフェに入店してわずか10分後、父・康雄から携帯に電話が入った。
「今どこにいる? 今すぐ帰ってこい」
受話器の向こうの父は、明らかに焦った口調だった。
「あと1時間で帰宅するよ。どうしたの?」
「光太郎夫婦が突然、家に来たんだ。……『パパと話をしたい』と言って、リビングに居座っている」
心臓の鼓動が、一気に速くなった。裁判所を出た時に見かけたあの車は、その後すぐに僕の後を追い、茨城の実家へ押しかけていたのだ。
「……すぐに帰るから、光太郎たちをリビングで待たせておいて。
父さんが余計な話をすると拗れるから、二人には何も話さず、放置しておいてね」
電話を切ると同時に、僕は伝票を掴んでネットカフェのレジへ走った。
光太郎から決別したはずなのに、一体、何の目的でやってきたのか。
胸騒ぎを抑えきれないまま、僕はアクセルを踏み込み、急ぎ家路へとついた。
第1章はこちらから
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