第六章「その気配」④|連載小説「ぼくの名前」
「ササキさんは、冬の間は来られないんじゃないかしらね」
おばあさんは、何かを考える時のいつもの癖で、頬に手を添えて、小首を傾げてそう言った。
新春ということばは、都会ではともかく、北国ではピンと来ない。一月から二月にかけて、冬はますます厳しさを増していく。
囲碁センターの暖房はフル稼働し、ぼくはうっすらと汗をかく。喉が渇く。窓は白く曇っている。
そして、結局その日もササキさんは現れなかった。
昨年末に何気なく別れて以来、ぼくはあの子グマのような可愛らしい姿を一度も見ていない。
「え。ササキさん、どこか具合が悪いんですか」
ぼくが慌てて聞くと、おばあさんは、あら、違うわよ、と微笑んだ。
「ササキさんはね、いつも娘さんにお車で送り迎えしてもらってたみたいなの。お買い物のついでにね。
でも、この街から山を一つ越えた先にお住まいだから。御年配の女のひとが冬場に運転するには、少し怖い峠道なのよね」
なんだ、そういうことか。確かにぼくもこの前、怖い目に遭ったもんな。
「三月中旬にもなれば、またいらっしゃるんじゃないかしら。あなた、今のうちに強くなって、今度ササキさんにお会いした時にびっくりさせてあげればいいんじゃない?」
おばあさんはそう言って、くすっと笑った。
三月に入って間もなく、ぼくは所長室に呼ばれ、人事異動の内示を受けた。
四月一日に異動。行き先は東京、引越先は、Y市の社宅。
一ヶ月前に内示を出してくれるなんて、じゅうぶん過ぎるほど良心的な会社だと思う。
しかも今回は、年末に人事課長の匂わせまであったから、受け止める準備はとっくにできていた。世の中には一週間前とか、三日前の内示なんてところもあるらしいから。
所長室を出て営業所のみんなに手短にお礼と伝達をし、顧客や取引先にも順番に電話を入れていく。日程調整が取れそうな相手には、後日、後任を連れて引き継ぎをする約束を取り付ける。
沿岸の町々を回る時間はあるかな。取引先や代理店さんにも挨拶しておかなくちゃ。
「職場のムードメーカーがいなくなっちゃうのは寂しいわ。あなたに紹介してもらった海外ミステリのシリーズ、これからもずっと読み続けるからね。東京行っても、頑張ってね」
Hさんは、まるで自分の身内の門出を祝うかのように、ぼくの右手を小さな両手で包み込んで、優しく励ましてくれた。
「ありがとうございます、Hさん。今度お会いするときは、獣神サンダー・ライガーの覆面してきますね。顔色を悟られないように」
Hさんは、今回もやっぱりお腹を抱えて、ひいひいと笑った。
あとは、ササキさんと、囲碁センターのおばあさん。あの二人にもちゃんと別れの挨拶をして、連絡先も確認しておこう。ササキさんの下のお名前も聞いておかないと。
