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第六章「その気配」⑤|連載小説「ぼくの名前」


「ただいま」

家に帰って、ぼくは開口一番、妻に報告をする。双子が争うように、ぼくに抱きついてくる。

今日、内示があってね。来月東京に異動することになった。営業を離れて、内勤をさせてもらえることになったんだ。

妻は一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐにニコっと笑って、受け入れてくれた。

「そうなんだ、よかったね。新しい業務に早く馴染むといいね。
…それにしても、Y市かあ。お義父さんが若い頃に暮らしてたところでしょう? あたし、縁もゆかりも無いのよね。
コンクリートジャングルか…あたし田舎者だから、土から離れて生きられないの」

久々に出ました、妻の軽口。愛妻よ、きみはシータだったのか(ジブリアニメ「天空の城ラピュタ」を御覧ください)。
じゃあ、ぼくはパズーかな?

「まさか。あなたがパズーだったらどんなにか嬉しかったのに、あたし」


ともかく、まずは引っ越しの手配をしなくては。荷造りも早め早めにしていこう。

そういえば奥の四畳半、この街に来た日にとりあえず雑多な荷物を放り込んで以来、ほとんど開けてなかったね。
きみが「魔窟」と呼ぶあの部屋を探索して、新天地に持っていくものと捨てるものを分別しておこう。



内示から一週間ほどが過ぎたその日の夜、特に懇意にしていた取引先の部長が、ぼくを送別するために一席設けてくれた。市内のホテル、和風レストランの個室席。

「結局、この街には何年いたの?」

乾杯したビールのグラスを手元に置いて、部長が静かに尋ねてくる。

「ええと、五年になりますね。ほんとうにお世話になりました。部長に育ててもらったようなものですから」

頭をかきかき、ぺこりとお辞儀するぼく。

「初めて君と会った時のことを思い出すよ。チャラチャラしてるとまでは言わないけどね。
口を開けば軽口と冗談ばっかりで。ほんとに物を売り込む気があるのかって、心配になったよ」

部長は相変わらず歯に衣を着せぬ口調だったけれど、ふと、当時を懐かしむように目線を遠くにやった。

ええ、自覚してます。ぼくはずっと、そうやって生きてきちゃってる。

「向こうにいるのは三年くらいかもしれませんが、どうでしょうね。内勤になるらしいんです、庶務系の業務。
もしそっちのほうが私に合っているようなら、あちらに骨を埋める覚悟で行こうと思ってます」

目の前のお刺身を見つめながら、ぼくはぽつりと決意を口にする。

「惜しいよね、君みたいなキャラは、現場でこそ生きると思うんだけど。
私の部下だったらなあ、と何度思ったことか」

「…そのお言葉は、私には過分です。でも、せっかくだからありがたく頂戴いたします」

思わず、じわっと涙が滲みそうになったので、ぼくはぺろりと舌を出して、軽口を叩いて、誤魔化した。



その瞬間、ぐらり、と大きめの揺れが来た。

がたがたがた。天井の照明が、左右に大きく揺れている。襖が鳴っている。卓上のグラスとビール瓶が、小皿が、震えている。

レストランのホール係が慌てた様子で、「お怪我はございませんでしたか」と室内の確認に来た。ホール係は「震度5でしたよ」と教えてくれたが、体感では、もう少し大きいように感じた。



その二日後の昼さがり。ぼくは職場でコーヒーを淹れて、後輩とHさんと三人で談笑していた。

「そうだ、三時のおやつでもどう? この前、お客様からいただいた洋菓子があるのよ」



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