見出し画像

OpenMythosとは何か?なぜこれほど人を熱狂させるのか

繰り返される個の時代:第1回

最近、AIの世界で、少し不思議な熱狂を見ることが増えた気がしています。

ChatGPT以降、AIはすでに「特別な技術」ではなくなりました。

仕事で使う人。
画像を生成する人。
動画を作る人。
プログラムを書く人。
調べものの相手として使う人。

いまや、多くの人が日常の中でAIへ触れています。

でもその一方で、最近のAIコミュニティには、単なる便利ツールとしての熱量とは少し違う、独特な空気が流れているようにも感じます。

OpenAIやAnthropicのような巨大企業は、最先端のモデルを、すべて外へ開くのではなく、企業の内側に置くようになってきました。

ここで言う「モデル」とは、ChatGPTやClaudeのようなAIサービスの“中身”にあたるものです。

人間でいえば、知識や考え方の癖に近いもの。 ソフトウェアでいえば、AIがどう反応するかを決める中核部分です。

その中には、たとえば次のようなものが含まれます。

モデルの重み。
学習データ。
詳しい設計思想。
訓練の方法。
そして、そのモデルへアクセスできる企業や研究機関、利用者の範囲。

AIの中核に近い部分ほど、外からは見えにくくなっているように感じます。

その一方で、世界中の開発者たちは、公開されている論文やコード、モデルの振る舞いを手がかりにしながら、非公開モデルの“思想”を推測しようとしています。

ここで出てくるのが、OSSという言葉です。

OSSとは、Open Source Softwareの略です。 日本語では「オープンソースソフトウェア」と呼ばれます。

ものすごく簡単に言えば、ソフトウェアの設計図にあたるソースコードを公開し、他の人が読んだり、使ったり、改良したり、再配布したりできる形にしたものです。

そしてOSSコミュニティとは、そうした公開されたコードを中心に、世界中の開発者や研究者、利用者が集まり、修正したり、議論したり、別の形に作り替えたりする場のことです。

会社の中だけで閉じた開発ではなく、インターネット上で、ゆるやかに人が集まって育てていく開発文化。

そう言った方が、少し腹落ちしやすいかもしれません。

OpenMythosも、その流れの中で話題になったプロジェクトでした。

もちろん、OpenMythosが本当にClaude Mythosを再現しているのかは分かりません。

むしろ、そこは慎重に見る必要があるでしょう。

でも、重要なのは、たぶんそこだけではない気がするのです。

なぜこれほど多くの人が、 「個人が巨大AI企業へ近づく物語」に熱狂しているのでしょうか。

その空気に、私は少しだけ懐かしさを感じます。

もう20年ほど経つのでしょうか。

日本ではかつて、ガラケーの小さな画面から、個人の日記や小説やコミュニティが、爆発的に広がっていった時代がありました。

あの頃と、今のAIコミュニティの空気は、どこか少し似ている気がしています。




OpenMythosとは何だったのか

ここで一度、事実関係を整理しておきます。

OpenMythosとは、Kye Gomez氏がGitHubで公開した、Claude Mythosのアーキテクチャを理論的に再構築しようとするOSSプロジェクトです。

GitHubとは、開発者がコードを公開したり、共同で開発したりするための場所です。

一般の読者に向けて言えば、GitHubは「プログラム版の投稿サイト」に近いかもしれません。

もちろん、実際にはもっと専門的な開発管理ツールですが、まずはそう捉えても大きく外れてはいないと思います。

OpenMythosの背景にあるのが、AnthropicのClaude Mythos Previewと、Project Glasswingという取り組みです。

Anthropicは、Claude Mythos Previewを一般公開していません。

Project Glasswingのパートナーに限定し、主に防御的なサイバーセキュリティ用途で使うモデルとして位置づけています。

これは、誰でも自由に触れるAIというより、重要なソフトウェアやインフラの弱点を見つけ、修正するための高度なモデルとして扱われているものです。

そして、そのような非公開モデルに対して、外側の開発者が「その中身は、こういう設計思想なのではないか」と推測し、コードとして公開した。

それがOpenMythosです。

ここで大事なのは、OpenMythosが「Claude Mythosの完全コピー」と確認されているわけではない、という点です。

AnthropicはClaude Mythosの詳細な設計図を公開していません。

モデルの重みも、学習データも、訓練方法も、外部からは分かりません。

したがってOpenMythosは、公開研究や既存技術、モデルの噂や周辺情報をもとにした“理論的な推測実装”として見るのが自然です。

実際、OpenMythosのGitHubリポジトリ自体も、Anthropicとは無関係の理論的再構築であることを示しています。

一方で、国内外の記事や投稿では、この動きがかなり強い言葉で語られています。

たとえば海外では、Decryptが「Claude Mythosの中身を推測したオープンソース再構築」として紹介しつつ、「もしAnthropicが中身を見せないなら、GitHubの誰かが推測する」といった文脈で取り上げています。

LinkedInなどでは「reverse engineered Claude Mythos and open sourced it」という表現も見られます。

日本でも、Forbes JAPANは「22歳の開発者が『Claude Mythos』を推定・構築」と見出しを付け、ビジネス+ITでは「推測でほぼ完コピ」というかなり強いタイトルで紹介されています。

つまり、誇張というより、OpenMythosはすでに「個人が巨大AI企業の非公開モデルに迫った」という物語として流通し始めているのです。

ただ、ここは丁寧に分けて考えた方がよいと思います。

事実として言えるのは、OpenMythosが公開されたこと。

Claude Mythosの詳細が非公開であること。

OpenMythosが、その非公開モデルの設計思想を推測したOSS実装として注目されたこと。

一方で、Claude Mythosそのものを再現できたかどうかは、現時点では確認できないこと。

この線引きをしたうえで、ようやく本題に入れる気がします。

なぜなら、この記事で見たいのは、OpenMythosが本物かどうかだけではないからです。

本当に考えたいのは、なぜ人々がこの出来事に、これほど強く反応しているのか、ということです。

Anthropicは、Claude Mythos Previewを一般公開ではなく、Project Glasswingのパートナー向けに限定提供している。
OpenMythosは、Claude Mythosの“完全コピー”ではなく、公開研究にもとづく理論的な再構築として公開されている。

AI企業は、なぜ“閉じ始めた”のか

少し前まで、AIには「オープンな研究文化」のイメージがありました。

論文が公開される。 コードが公開される。 研究者が議論する。

もちろん企業間の競争はありました。

それでも、AI研究はどこか、大学や研究所、OSS文化の延長線上にあったように思います。

しかし現在、その空気は大きく変わっています。

AIモデルの性能が上がるほど、それは単なる便利なソフトウェアではなくなります。

企業価値。 国家戦略。 サイバーセキュリティ。 安全保障。 産業インフラ。

そうしたものに直結するようになっていく。

その結果、最先端モデルの中核部分は、簡単には外に出せなくなっているのだと思います。

「モデルを閉じる」と言うと少し抽象的ですが、具体的にはこういうことです。

  • AIの中身にあたる重みを公開しない。

  • 学習に使ったデータの詳細を公開しない。

  • 訓練方法や安全対策の細部を公開しない。

  • 誰が使えるかを企業側が管理する。

  • APIやWebサービスを通じてだけ利用できるようにする。

  • 高リスクな能力を持つモデルは、特定の企業や研究機関、政府機関、セキュリティ企業などに限定して提供する。

つまり、AIそのものを配るのではなく、AIにアクセスする入口だけを提供する。

この違いは、かなり大きいです。

たとえば、昔のパソコンソフトを買うと、手元のパソコンに入れて自分で動かす感覚がありました。

でも現在の最先端AIは、多くの場合、企業のサーバーの向こう側にあります。

私たちはChatGPTやClaudeの画面からそれを使いますが、モデルそのものを手元に持っているわけではありません。

だから、外からは中身が見えにくい。

そして、見えにくくなるほど、外側の人々は気になってしまう。

OpenMythosの熱狂は、この構造と切り離せない気がします。

閉じられたものがある。

でも、外側からその輪郭を推測しようとする人たちがいる。

この関係そのものが、今のAI時代らしい緊張感を生んでいるのだと思います。


それでも、人は“中身”を見たくなる

非公開であることには、理由があります。

Claude Mythos Previewのような高度なサイバーセキュリティ向けモデルであれば、無制限に公開することには当然リスクがあります。

脆弱性を見つける能力は、防御にも使えます。

でも同時に、攻撃にも使える可能性もあります。

だから、Anthropicが限定提供という形を取ったこと自体は、理解できます。

ただ、人間は不思議なもので、閉じられたものほど見たくなる。

中身が見えないほど、そこに想像が生まれる。

「本当はどんな仕組みなのか」
「なぜそんなに強いのか」
「自分たちでも近づけるのではないか」

そうした問いが、OSSコミュニティの中で動き始める。

ここで言うOSSコミュニティは、特別な秘密結社ではありません。

  • GitHubにコードを公開する人。

  • Hugging Faceにモデルを上げる人。

  • Discordで議論する人。

  • 論文を読み、実装を試し、動かなければ修正し、うまくいけばまた共有する人。

そういう人たちのゆるやかな集合です。

そこには、企業研究所のような巨大な資本はないかもしれません。

でも、速度があります。

人数があります。

そして何より、誰かが試したものを、別の誰かがすぐに試せるという文化があります。

OpenMythosが面白いのは、そこです。

Anthropicが中身を公開していないからこそ、外側のコミュニティが、その“思想”を追いかけ始める。

モデル本体は見えない。

でも、考え方の輪郭は追えるかもしれない。

この感覚が、人を熱狂させているのではないでしょうか。


OSSは、“モデル本体”ではなく“思想”を追い始めている

現代のAI開発では、モデルそのものを完全に再現することは簡単ではありません。

巨大モデルを作るには、膨大な計算資源が必要です。

GPU。
電力。
データ。
研究者。
学習ノウハウ。

どれも個人が簡単に持てるものではありません。

だから、OpenMythosを「個人がAnthropicに勝った」という話として読むのは、少し危ういと思います。

そうではなく、ここで起きているのは、もっと微妙な変化です。

モデルそのものは閉じられている。

けれど、モデルを作るための考え方、設計思想、研究の方向性は、完全には閉じきれない。

論文がある。 ベンチマークがある。 公開モデルがある。 実装例がある。 研究者の発言がある。

それらをつなぎ合わせながら、外側の開発者たちが仮説を立てる。

「もしかすると、こういう構造なのではないか」 「この設計なら、似た挙動を作れるのではないか」 「この部分だけなら、小さなモデルで試せるのではないか」

OpenMythosは、まさにそのような試みです。

これは、完成品のコピーというより、設計思想をめぐる推理に近い。

あるいは、料理にたとえるなら、有名店のレシピそのものは公開されていないけれど、味や見た目や食材の情報から、料理人たちが「こう作っているのではないか」と再現を試みるようなものかもしれません。

もちろん、本物と同じとは限らない。

でも、その試行錯誤の中で、新しい技術や理解が生まれていく。

そこにOSS文化の面白さがあります。


その熱狂に、私は少し懐かしさを感じる

ここで少し、AIの話から離れます。

でも今回の熱狂を考える上で、日本の2000年代インターネット文化は、かなり重要な補助線になる気がしています。

ガラケー。

いまの若い世代からすると、少し不思議な言葉かもしれません。

スマートフォン以前、日本では独自に進化した携帯電話が、かなり早い段階からインターネット端末として使われていました。

画面は小さい。 通信速度も遅い。 文字入力も、いまと比べればかなり面倒です。

それでも、あの小さな画面から、多くの人が文章を書き、日記を書き、プロフィールを作り、コミュニティに入り、小説を投稿していました。

mixi。
GREE。
魔法のiらんど。
前略プロフィール。
個人ブログ。

当時、たくさんの人が初めて、 「自分でも発信できる」 という感覚を持ったのではないかと思います。

出版社がなくても。
テレビ局がなくても。
有名人でなくても。

自分の言葉を置く場所がある。

読んでくれる人がいる。

反応してくれる人がいる。

小さな画面の中に、自分の居場所を作ることができる。

それは、いま振り返ると、かなり大きな変化だったと思います。

当時の日本では、個人がプラットフォームを持っていた、というより、ガラケーという生活端末の上に、個人が小さなメディアを作っていた。

その方が正確かもしれません。

ケータイ小説も、その流れの中にありました。

文学的な評価については、当時からさまざまな議論がありました。

文章が粗い。 展開が極端。 表現が似ている。

そうした批判もありました。

でも、ケータイ小説を「文学として優れていたかどうか」だけで見ると、大事なものを見落としてしまう気がします。

本当に大きかったのは、流通の変化です。

出版社の外側で、先に読者が生まれた。

投稿サイトや携帯サイトの中で人気が出て、あとから書籍化され、映画化され、商業メディアが追いついていった。

つまり、中央の外側で生まれたものが、あとから中央へ流れ込んでいった。

この構造は、いまのAIコミュニティにも少し重なります。

もちろん、OpenMythosとケータイ小説はまったく違います。

片方はAIアーキテクチャ。 片方は物語。

でも、その周囲にある空気には、どこか似たものがある。

「専門家だけのものだった世界へ、個人が近づいていく感覚」。

私はそこに、少し懐かしさを感じます。


ケータイ小説とOpenMythosは、どこが似ていて、どこが違うのか

ここは、少し丁寧に分けて考えた方がよいと思います。

ケータイ小説とOpenMythosは、もちろん同じものではありません。

ケータイ小説は、個人の感情や物語が流通した現象です。

OpenMythosは、非公開AIモデルの構造を推測し、コードとして実装しようとする試みです。

扱っているものはまったく違います。

でも、似ている部分もあります。

まず、どちらも中央の外側から生まれている。

ケータイ小説は、出版社の編集会議から始まったわけではありません。

読者と作者が集まる場所が先にあり、そこから人気作が生まれていきました。

OpenMythosも、Anthropicの公式プロジェクトではありません。

外側の開発者が、公開情報をもとに推測し、GitHubにコードを置いた。

次に、どちらも「自分も参加できるかもしれない」という感覚を生みました。

ケータイ小説の時代、読者はただ読むだけではありませんでした。

自分も書ける。 自分も投稿できる。 自分にも読者がつくかもしれない。

そういう感覚がありました。

AI時代のOSSにも、似た感覚があります。

自分もコードを読めるかもしれない。 自分も動かせるかもしれない。 自分も改良できるかもしれない。 自分も、巨大企業の研究に少しだけ近づけるかもしれない。

その「かもしれない」が、人を動かすのだと思います。

ただし、違いも大きいと感じています。

ケータイ小説の時代に流通していたのは、主に文章でした。

日記。
物語。
感情。
関係性。

一方、AI時代に流通しているのは、文章だけではありません。

コード。
モデル。
データセット。
推論方法。
エージェント。
自動化の仕組み。

つまり、流通しているものが、表現から能力へ広がっています。

ここが、今回の連載で一番考えてみたい部分です。


今回、流通しているのは“能力”なのかもしれない

ここまで読んで、 「でも、結局OpenAIやAnthropicのような巨大企業が勝つのでは?」 と感じる人もいると思います。

実際、それはかなり自然な感覚です。

GPU。
電力。
研究者。
資本。
データ。

どれを見ても、巨大企業側の優位性は圧倒的です。

個人がいきなりOpenAIやAnthropicと同じ規模のモデルを作る、という話ではありません。

そこを煽ってしまうと、記事としてもかなり危うくなるでしょう。

でも、もう少し別の変化は起きているように感じます。

それは、個人が巨大システムへ以前より近づけるようになっている、という変化です。

GitHubに公開されたコードを読む。
Hugging Faceのモデルを試す。
論文をAIに手伝ってもらいながら読む。
小さなモデルをローカル環境で動かす。
既存モデルを組み合わせて、自分の仕事や制作に合ったエージェントを作る。

少し前なら、研究所や企業の中でしかできなかったことの一部が、個人の手元へ降りてきています。

ここで起きているのは、勝ち負けではないのかもしれません。

むしろ、距離の変化でしょう。

巨大企業と個人の距離が、ゼロになるわけではないと思います。

でも、以前より少し近くなると思います。

その少しの近さが、人に想像力を与えるのではないでしょうか。

「自分にも何かできるかもしれない」

「遠くにあった技術が、少し手元に来たかもしれない」

その感覚こそが、OpenMythosをめぐる熱狂の正体なのではないかと思います。


“個人がプラットフォームになる”とはどういうことか

今回の連載タイトルには、 「繰り返される個の時代」 という言葉を置いています。

少し大きな言葉です。

でも、ここで言いたいのは、個人が巨大企業のようなプラットフォームを所有する、という意味ではありません。

むしろ、個人が自分の発信、制作、開発、流通、コミュニティを束ねる小さな拠点になっていく、という意味です。

ガラケー時代、個人は小さな画面の中に、自分のホームページや日記や小説を置きました。

それは、まだ素朴な個人メディアでした。

でも、そこには読者が来た。 コメントがついた。 コミュニティが生まれた。 ときに商業出版へつながりました。

現在、AI時代の個人は、そこからさらに一歩進んでいるようにも見えます。

文章を書く。
画像を作る。
動画を作る。
コードを書く。
小さなアプリを作る。
データを分析する。
業務を自動化する。
AIエージェントを組み合わせる。

一人の個人が、以前ならチームでなければできなかった工程の一部を担えるようになっていっています。

もちろん、それは万能ではありません。

むしろ、危うさもあるでしょう。

プラットフォームへの依存。
AI企業への依存。
著作権やデータ利用の問題。
誤情報や安全性の問題。
個人に過剰な生産性を求める空気。

そうした問題も、同時に考える必要があると思います。

だからこそ、この連載は「AIで個人が最強になる」と言いたいわけではありません。

そうではなく、 個人と巨大システムの距離が変わるとき、私たちは何を期待し、何に熱狂し、何を見落とすのでしょうか。

そこを見ていきたいのです。


OpenMythosが示したのは、完成品ではなく“距離の変化”だったのかもしれない

OpenMythosが、数年後にどれほど重要なプロジェクトとして残っているのかは、まだ分かりません。

もしかすると、短期間の話題で終わるかもしれません。

あるいは、後から振り返ったときに、AI開発の空気が変わり始めた象徴のひとつとして語られるのかもしれません。

ただ、少なくとも今の時点で、OpenMythosが人を惹きつけている理由は、少し分かる気がしています。

それは、Claude Mythosを完全に再現したからではありません。

むしろ、再現できたかどうかは分かりません。

でも、非公開化する巨大AI企業の外側で、個人や小さなコミュニティが、その思想へ近づこうとしているように感じます。

その姿に、人々が反応しているのでしょう。

日本ではかつて、ガラケーの小さな画面から、個人の日記や小説やコミュニティが広がっていきました。

当時、個人は「書く場所」を手に入れました。

いま、AIによって個人が手に入れ始めているのは、もしかすると「作る力」なのかもしれません。

文章だけではなく、コード。
発信だけではなく、実装。
読者だけではなく、利用者。
表現だけではなく、能力。

もちろん、それはまだ始まったばかりです。

熱狂だけで見れば、見誤るかもしれません。

でも、冷笑だけで見ても、たぶん大事な変化を取り逃がしてしまうでしょう。

だからこの連載では、 その間にあるものを、少しずつ見ていきたいと思うのです。

ガラケーからAIまで。

個人が、何度も、巨大な仕組みの近くへ引き寄せられていく時代についてを。


連載一覧


関連マガジン


情報源・参考URL

Anthropic / Claude Mythos / Project Glasswing

OpenMythos

OpenMythosをめぐる国内記事・話題

OSS / オープンソース

GitHub / Hugging Face

ガラケー・mixi・GREE・ケータイ小説関連


いいなと思ったら応援しよう!

一般財団法人 木村潤 記念財団 よろしければサポートお願いします! いただいたサポートは本財団としての活動費に使わせていただきます!