無料だから、いちばん遠い島へ【前編】
「島は、のどかなことが売りなんですけど、今日はそれを感じてもらえるか……」
港にいるスタッフが、遠くを見る目で言った。
「普段なら観光客が5~6人のところへ、今日は何百人も来ています」
「多少のことは我慢していただいて──」
ずいぶん清々しい案内である。
「島の魅力を心ゆくまでお楽しみください」とか、そういう綺麗な言葉で包まない。
今日はいつもの島ではありません。
混みます。
多少は我慢してください。
現実をむき出しのまま渡してくる。
そして目の前には、100人を余裕で超える長蛇の列。
まだ島にも着いていないのに、のどかさは早くも行方不明だった。
この日は、笠岡諸島へ向かう船の旅客運賃が無料になる「航路運賃無料デー」。
無料。この二文字には、人を港へ向かわせる力がある。
俺はこれまで六島には行ったことがあったので、今回は 伏越港から行けるなかで一番遠い「北木島」を選んだ。
北木島は石の島だという。
島の歴史を知りたい。
採石場を見たい。
瀬戸内海の風景を眺めながら、静かな道をゆっくり歩きたい。
そう言っておけば、旅人としての品格は保たれる。
実際のところは、
同じ無料なら、一番長く船に乗ったほうが得なんじゃないか。
これである。
無料の大盛りを頼み、途中から無言になる人間と、考え方は同じである。
そんな損得勘定を抱え、朝から北木島を目指した。
ところが、出発前から腹が痛い。
予定していた電車に乗り遅れた。
そのうえ、やっと乗った電車までトラブルで遅れた。
余裕を持って、のどかな島へ。
そう思っていた。
余裕は家に置いてきた。
ようやく伏越港へ着いたのは、船が出る20分ほど前。
間に合った。
そう思った直後に、あの行列が見えた。島へ向かう列というより、島へと一斉に避難するテンションの列だった。

港にはスタッフが7人ほど。
案内が速い。列を整え、乗船方法を説明し、次々に飛んでくる質問に答えている。
誰かが横入りしようとした瞬間など、俺が心の中で「あっ、横!」と思った時には、もうスタッフが動いていた。俺の正義、出番なし。
無料デーは初めての試みらしい。
だが、港にいる人間の中で、スタッフだけはのどかだった。
いや、のどかというより、腹が据わっている。
一方の俺は、船に乗れるのか、次の便になるのか、腹はまた痛くならないかと、忙しく心配していた。
周囲には家族連れも多かった。なかでも子どもたちのテンションが高い。今日という日を全身で歓迎している。あの子たちは、島へ冒険に行く。こっちは「遠いほうが得」という理由だけで来ている。
やがて乗船が始まった。
スタッフはあらかじめ、希望した便に乗れない場合があることも説明していた。
そして、途中で定員に達し、船は去って行った。
俺たちを置いて。

次の便で無事に乗船。
予定より1時間ほど遅れて、北木島へ向かう。
船が岸を離れる。港に残った人たちが、少しずつ小さくなる。なんだろう。俺たちだけが選ばれた民みたいな顔をしているが、運賃が無料だから来ただけである。
そして俺は、まだ島で何をするか、ほとんど決めていなかった。
北木島について知っていることも、石が有名らしい、くらい。




海が広がる。水面が光る。
ようやく旅らしくなってきた。風も気持ちいい。
これだ。
これが、のどかさか。
ついに俺にも、のどかさが。


in 北木島。
最初の目的地はお昼ご飯。
混む前に…!
なんとしても混む前に……!

向かったのは「K's LABO」。
岡山県笠岡市ー瀬戸内海に浮かぶ小さな島―北木島にある、複合施設です。石の歴史や文化、魅力を紹介するストーンミュージアム。目の前に広がるのは、瀬戸内海の島々と青い空。ゆっくり流れる島時間を過ごすカフェ。
食券を購入し、呼び出しベルを持って料理を待つフードコート形式。
1階、満席。2階も、満席。
どうやら港にいた人たちは、島へ着いた瞬間に散り散りになるわけではないらしい。誰か食べ終わったんじゃないかと1階と2階を行ったり来たりしているうちに、呼び出しベルが鳴ってしまった。
席はない。ラーメンだけが渡される。
ダメ元で聞いてみた。
「外で食べてもいいですか?」
返ってきたのは、
「どこでもどうぞ~」
軽い。
そして俺は、車道脇に座った。

車が通る。人が通る。
壁の向こうには、船も通る。
その横で、ラーメンを食べる。
自由。
こういう予定外にこそ、思い出が宿る。

ひと口すすると、見た目どおりの強いうまみ。
鶏。背脂。動物系の力強さ。
そのあとに、鯛の香りが鼻の奥を抜けていく。
コリコリした食感のかしわチャーシューと、コシの強い麺で、食べ応えも抜群。
笠岡ラーメンと尾道ラーメンの間に、鯛が座っているような一杯だった。

硬めに炊かれ、鶏の味をしっかり吸った炊き込みご飯。鶏めしを口に入れ、そのままラーメンスープを飲む。米粒が口のなかでホロホロほどけていき幸せになれる。
この日、島には普段よりはるかに多くの人が訪れていた。
それでも店員さんから返ってきたのは、
「どこでもどうぞ~」
という、ずいぶん軽い一言。
車道脇でラーメンをすすりながら、北木島の一日が始まる。
まだ、のどかさには出会えていない。
あの一言だけが、今のところ一番それに近い。
▼後編はこちら
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