#102【雑記】自転車に乗って。~愛された記憶~
「Ilsa子、パパと一緒に、一回り(ひとまわり)、行くか?!」
「いくぅーっ!!!!!🩷」
夕暮れ時、父は仕事から帰ってくると、私をフワリと抱き上げ、大きなチャリンコのハンドルに据え付けた幼児用のイスに乗せ、近所を流した。
これを父は、「ひとまわり」と言った。
チャリのハンドルに据え付けた小さな小さなそのイスは、赤いシート。
父がチャリをこぎ出すと、私は、赤いフカフカした取っ手を、ギュっと握った。住宅街を抜け、キィーコー、キィーコと、田んぼ道をゆったりと走った。
「いつか滑りたいっ!」そう狙っていた、高い高い滑り台がある小学校のそばを通り、「タヌキの親子が住んでいるんだぞw」とゆう、小さな丘を越え、途中、必ず、大きな赤い暖簾のある、小さなお店で、やきそばを食べた。
「お夕飯前だから、パパと半分こな。ママには内緒だよ🩷」
そう言っては、ほとんど、父が食べていたような気がするが・・・w
やきそばを食べると、今度は、大きな池のそばを通った。
「夕方になると、鯉がね、虫を食べに、水面に跳ね上がるんだぞ。見ててごらん・・・w」
そう言って、父は、いつもこの場所でチャリを停め、しばらく水面を眺めていた。小さかった私も、じぃーっと水面を見つめる。
「大きいの?大きいの?」
「大きいさぁーw」
「どのくらい?」
「Ilsa子なんか、食べられちゃうくらいさwww」
今風に言うなら、「どんだけだよっ?!」と、突っ込む所だが、純真無垢だった私は、ビビリモードで水面をジッと見つめていた。しかし、とうとう、一度も、くだんの鯉の姿を見た記憶はない。
記憶にあるのは、水面を眺めながら、うまそーに煙草を吸う父の姿であるw
一服が終わって、まだ空が明るいと、雷電神社(らいでんじんじゃ)へ足を延ばした。
雷電神社は、家から一番一番遠い神社。
私一人では、絶対に来られない「神様の住む森」・・・。
とっても恐い”カミナリ様”がいる神社だ。
それにふさわしく、家の近くの神社では見たこともないような、大きな大きな木がいっぱいあって、辺りはまだ明るいのに、鳥居の奥は、すでに深い闇に包まれている。
その当時、私がこの世で一番、恐かった場所は、家の長い廊下の突き当たりにある、暗い暗い”ぼっとん便所”と、この雷電神社。
雷電神社は、唯一、父と、行ける場所だった。
(せっちん付き添いは、母担当だったゆえ。)
だからだったのかはよく覚えていないが、「カミナリ様まで連れてって!!」と、よくせがんだ覚えがある。そのくせ、雷電神社につくと、チャリから降りるのを泣いて拒んだらしいwww
私が3歳頃の記憶だ。
しかし、父が”ひとまわり”と、流したこのコースは、はっきりと覚えており、今でも、その道を車で辿ることが出来る。車で走れば、たかだか15分程度の、ごくごく近所の”ひとまわり”。
父の仕事が早く終わり、雨さえ降っていなければ、ほとんど毎日と言っていいくらい、この「ひとまわり」は敢行された。弟が一人出来ると、前の「特等席」を、ギャン泣きしながら弟に譲り、後ろの席で、ふてくされて乗っていた記憶もあるw
やがて、二人目の弟が出来た頃、父は、やっと車の免許を取ったらしく、この頃から、「ひとまわり」は、「ドライブ」に移行していった。(車は、白い日産サニーだったw)
当時最新鋭だった車内のカセットデッキからは、ゴレンジャーのテーマソングが、ガンガンに響き渡り、かくして、我が家の「ひとまわり」は、子供達のカラオケバトル場と化して行った。
弟達が覚えている「ひとまわり」とは、この「ドライブ」の事。私の記憶にあるものとは違う。
赤い小さい小さいイスに乗って、頬を切ったあの風、夕闇の匂い。遠い遠い神社の深い森・・・。
ペダルを漕ぐ度に、右に左にと揺れる父の胸のぬくもりを、私は背中で感じていた。弟が生まれるまで、父の愛情を独占していた、ほんのわずかな時間。
その後の人生を思えば、本当に本当に、数秒にも思える時間。
わずか、3歳の、かすかな記憶 ―――。
弟が出来る度、「お前は、もう”お姉ちゃん”なんだから。」そういって、父は私を遠ざけた。父の膝の上は、いつも、小さな弟達の特等席となり、私はもう、父に抱きつくことさえ、許されなかった。
17歳の夏、父は、親の言う事を聞かなくなった私を、コテンパンに殴りつけた。
現在であれば、到底、許されない「虐待暴行事件」だ。
あの時、みるみる顔が腫れていく感覚と、頬を流れ落ちる涙と一緒に、切れた唇から流れてくる血を拭った感覚は、生涯、忘れることは出来ない。
翌日から通った学校でもバイト先でも・・・、
特にバイト先のパートさん達には、とても心配して頂いた。
「私が病院へ連れてってあげようか?」とか「家へ来るかい?」とか「警察に行った方がいいよ。一緒に行ってあげようか?」「私がお父さんとお母さんに話してあげようか?」等々、ありがたいご提案を頂いていたが、私はそれを、ことごとく、断っていた。
”これは、自分自身で決着をつけなければならない。”
そう考えていたからだ。
そして、私には、不思議と”勝算”があった。
それがこの、3歳の時の、「ひとまわりの記憶」だった。
それは、遠い日、父に愛されていた記憶・・・。
父が私を殴ったのは、私が「母」を泣かせるからだ。父は、母を愛している。弟達の事も。そして、きっと、私の事も・・・。
それが証拠に、見た目は酷かったが、父はことごとく、目や脳や心臓という急所は外していた。脳しんとうも起こしてはいない。つまりは、父も、ちゃんと「手加減していた。」という事だ。
私も、応戦にあたっては、父の急所を蹴り上げる事はしなかった。不思議な事に、あれほど殴られている最中に、私は「父の何処を突いたら、この攻撃を、(お互い)安全に躱せるか?」と、案外、冷静に考えていた。
そして、案外、冷静に、私は父の腹に、明確な標的を定めて、一気に蹴り上げていた。 父は学生時代、「柔道」をやっていたので”受け身”は知っている。”致命傷にはならない”と、私も確信していた。
『三つ子の魂、百までも』とは、よく言ったものである。
後日、この件を知っている方々からは、「壮絶過ぎる・・・。」「よくもまぁ・・・。」とか、「さぞかし、大きな心の傷を負ったでしょう?」と、同情頂くこと必至ではあったが、私は、さっぱり父を恨んじゃいない。
”ひとまわり”の記憶、ほんのわずか3歳頃の「愛された記憶」が、「17歳の痛み」を超越した。そのことを、自分自身でも、わかっていたから。
だから以降、あまり人に話す事も、その必要もなかった。
後年、結婚し、自分に子供が出来ると、父が「ひとまわり」にと、夕飯前に子供たちを連れ出した意味が、また違って理解出来た。
父は、一日中、ワンオペで子供達の面倒を見ていた母に「レスパイト時間」を、作ってあげていたのだ。
それが、たとえほんのひと時でも、どんなにか救われるものだったか、どんなにか、ありがたい心配りだったか・・・。
自分が、”妻”や”母親”の立場になると身にしみた。
父は、母を愛していたんだと思う。
家族を愛していた。
多分・・・、いつも、どんな時も。
だから父が認知症を発症した母を、頑なに抱え込む様にして、過酷な「老々介護」に突入していったのを、私は咎める事も、止める事も出来なかった・・・。
「お父さん、今日は天気が良いから、”ひとまわり”にでも行くか?」
「おう!!🩷行く行くぅー!!😍」
2022年の秋、老々介護が崩壊し、心不全で倒れ、救急搬送入院から1ヶ月、退院はしたものの、「せん妄」からもまだ脱しておらず、このままMCI(軽度認知障害)から、認知症を発症してしまうのではないかという、非常に、不安定な、しんどい時期の父を、私は車の後部座席に乗せ、あの懐かしいコースを走った。
タヌキの親子が住んでいた丘は潰され、目抜き通りになり、コイが跳ね上がるのを待っていた貯水池は、造成され、建売住宅になって久しい。
雷電神社の森は、小さくしぼみ、目の前のバイパスから降りかかる排気ガスで、細々と息をしているようだった・・・。
果たして父が、”この道”を、覚えているだろうか?
すっかり変わってしまったこの風景を・・・。
「ここら辺も、すっかり変わったな・・・。よく小さいお前を乗せて、自転車で走ったもんだwww あそこの”焼きそば屋”、まだやっているんだな・・・。お前、覚えているか?」
”覚えているよ・・・、お父さん・・・。”
不意に込み上げる想いに、ハンドルを握る手が震えた ―――。
記憶でメシは食えないが、”愛されていた”とゆう記憶は、例えそれが、ほんのわずかなものでも、時が経つほど鮮明になり、長い時空を超えて、”今”を生きる力となる。
親が子供に何を言うべきか?とか、そんな難しい事を考える必要はない。
ただただ、”真心”で、愛すればいい。
そして、真心で子供を愛した事を、信じればいい。
子供は、例え親の胸を蹴って、飛び立ったとしても、
羽を広げた時から、それを抱いて、大きくなって行くものだ。
人生のどんな時も。
世間様からは、『機能不全家庭』の典型事例とされ、いたく同情されるだろうが、(もちろん、それは、ありがたいことだが。)私自身は、私と両親の家庭が『機能不全家庭』だったとは、実は、全く、思っていないのだ。
むしろ、「フツー」とさえ、思っている。(え?違うの?w)
【「完全機能不全家庭」の父と母と娘のお話。】を書いたのは、つまりは、それが言いたかったわけです。
「生きづらさ」とか「機能不全家庭」とか、そんなもの、全て、自分次第。自分の考え方次第で人生は変わる。
飛び立て。その心の翼を広げて。
