『自由意志と原罪論の再検討』レポート 神学珍獣、アウグスティヌスに喧嘩を売る
名古屋に戻る予定だったが大雨被害のためキャンセルした。
やることがないから先学期に書いたペーパーを整理している。これもそのうち何かに使えるだろうとまめに保存してある一部。
かなり過密に論点を詰め込んでいるがその理由は最後で。まあイタズラだ。
自由意志と原罪の再検討
旧約聖書解釈学課題
神学珍獣
ID:A51
目的と方法
創世記第三章は、アダムとエバが神に禁じられた知恵の実を食べたことで、神から裁かれてエデンの園を追放される物語である。アウグスティヌスは、失楽園の物語は、アダムが自由意志を持ちながら神に背き、神のような存在になろうとして実を食べ、その高慢さこそが人類の原罪であると論じた。¹
しかしながら原罪論は神学的に強力であるが、近年の聖書学においては、Mark S. Smithらによって創世記本文の直接記述を超えた固有の著述意図によるものとの指摘を受ける。² 本論ではこの文脈に立ち、原罪理解について再検討するため、以下の二つの点について論じる。
知恵の実以前のアダムに、自らの行為を罪として把握する弁識能力があったのか。
自由意志とは、創造主に反しうる可能性を含むからこそ自由なのではないか。
第一 弁識能力
アウグスティヌスは、神が人間を「直く」造ったので、人間には初めから「善い意志」があったと説く。³ するとこの自由意志には、善悪の弁識能力が内在するものと理解ができる。またアウグスティヌスは、実を食べた後に裸を恥じたことを、自己の意志で制御できない欲情に動かされる器官を知り、それを神への不服従の印として恥じたものと説いた。⁴
しかしながらこれらを踏まえ創世記を読むと、必ずしも罪へは到達しない。すなわち、実を食べたことによって初めて、自己を外部の規範に照らす弁識能力──いわばメタ認知を得た場面としても解釈ができる。⁵ 禁止命令を知ることと、その命令に背く自己を認知することは同じではない。後者が知恵の実の後に成立したなら、最初の罪を意図的違反として裁くことは難しい。なぜならその行為の是非を認識し、回避する機会がアダムにあったかが疑わしいからだ。
罪はむしろ、反省的能力を得た後の人間が、規範を知りながら逸脱を反復する構造の中で捉え直されるべきである。その意味において知恵の獲得は、人間が自らの行為の倫理的意味を検討する成長の過程と理解できる。
第二 自由意志
自由意志が創造主の想定範囲内でしか働かないなら、それは自由ではない。例えばAIなど事前に制御された存在は、たとえ予期せぬ挙動を示しても、なお設計された制約の内部にある。これに対し、人間の自由意志が真に自由であるなら、それは設計者である神への反逆可能性を構造的に排除できない。したがって、罪は自由意志に生じた偶発的なバグではない。むしろ、自由意志という設計そのものに織り込まれた可能性である。神が人間を自由なものとして創造したなら、その自由は神への服従だけでなく、神への背きをも可能にする。自由意志が神への反逆可能性を排除しない以上、原罪は人間の偶発的失敗ではなく、自由意志の必然的可能性である。そして、自由意志は罪と同時に善も可能とする。アウグスティヌスが肯定する自発的な愛の実践も、悪との葛藤があるからこそ価値を持つといえるだろう。
ノアの祝福の検討
カインとその子孫において、自由意志は罪と暴力へ向かった。しかし同じアダムとイブの子孫であるノアにおいて、自由意志は神への従順として現れる。神は、その不確かな人間を、洪水のあとに再び祝福している。
「人の心は幼いときから悪いのだ」と語り、人間の根源的な不確かさを神が認知した。その上で神は人間を祝福している。
ならば、神と人との関係は、原罪による断絶だけでは語り尽くせない。不完全で、逸脱の可能性を抱えた人間をなお祝福する神と人との関わりもありうる。すなわち未完成のまま創造された人間と神とが共に歩む関わりの始点として創世記を読むことだ。
出典
Augustine, City of God, Book XIV, 13, 15, New Advent,
https://www.newadvent.org/fathers/120114.htm.Mark S. Smith, The Genesis of Good and Evil: The Fall(out) and Original Sin in the Bible (Louisville: Presbyterian Publishing Corporation, 2019), p.32-33
Augustine, City of God, XIV.13.
Augustine, City of God, XIV.17.
Smith, p40,
"Instead, Genesis 3 dramatizes how they disregard a divine prohibition and thereby acquire the very moral knowledge that makes them morally accountable agents."
(要項 A4サイズ1枚程度 形式自由)
なお邦訳のあるアウグスティヌスまで英語なのはネットで読めたからだ。
【余談】珍獣の課題要件闘争史
初戦 脚注と図表
要件は「講義で扱った箇所を説明し、任意に論じろ」だったので最初の一行で終わらせてそれからはずっとアウグスティヌスにいちゃもんをつけていた。
大学で良いのは今回参考にしたような英語圏の専門書が普通に図書館にあることだ。
また分量の指定がA4一枚程度だったので無理矢理圧縮した。
というのも、考え過ぎかもしれないが前にこの教員の課題で「脚注や図表は文字数に入らない」と言質をとったので、悪ふざけして脚注や図表を使い倒して規定の三倍の分量で出したことがある。
こんなかんじ。

残りのページでもグラフや図表、脚注に情報を逃して本文は規定通りの字数に収まった。
二回戦 真っ向勝負
すると次の学期から脚注等含む総文字数の規定が追加された。(理由は必ずしも私のものではなく、オンデマンド講義で数百人が受講しているという実務的な理由もあるだろう)
字数を回避するためにQRコードをつけてもいいかと聞いたら許可された。しかし結局一冊だけで書けたので使わなかった。
その時に書いたのがこれ。
https://note.com/illmasick/n/nbcefda46a61d
三回戦 中身の圧縮
そして今回はとうとうAI一枚という面積制限を出してきた。この教員は論を拡散させずにタイトにまとめる能力を評価するのか、あるいは長いものを読むのが嫌なだけかのどちらかだろう。
文字サイズを5pくらいにして書くことも検討したが、文書作法として極端に小さいと欠格になるかもしれない。
そこで講義後に「A4両面使うのはいいのか」と質問した。すると苦笑いしながら、いや、普通に2枚でも3枚でもいいよ。とのこと。
しかしそうなるとつまらないので無理やり一枚に圧縮することにした。そのためにフォトショでPixel単位でレイアウトを調整した。なんならそのプロセスで総作業時間が30%は増えた。
しかし論の圧縮はかなり難しい。説明をどこまで省いて、どこを残すかを選ばないといけない。
自分が何を書いているのかを詰めて理解する必要がある。
そして学校の課題の第一読者は大学教員という専門家だ。専門家相手に分かりきっている説明をするのは文章として機能的ではないとも思えるが、どこまで内容を理解しているのかを文面から読み取って評価している部分もある。
つまりどこまで飛ばしていけるかの調整が難しい。
まとめると課題要件を愚直に遵守する。それが旧約聖書学のテーマだということ。
