『写ルンです』、40周年おめでとう!
富士フイルムのレンズ付きフィルム『写ルンです』が発売40周年を迎えた。1986年から2026年、年号も二度変わるほどの年月である。
『写ルンです』の機能や見た目は40年間でさほど変わっていない。しかし、姿かたちはほとんど同じでも、そのプロダクトが各時代で担ってきた役割は決して一定ではない。新たな科学技術が生み出されれば生活様式は変化し、人々の価値観も伴って変容する。フィルムが当たり前だった時代の『写ルンです』とインターネットで無尽蔵な画像データがやり取りされる時代の『写ルンです』とでは異なる価値を帯びている。

「修学旅行のとき持たせてくれたカメラ」
「急遽カメラが必要になったからその辺で買ってきた」
「スマホと違った、なんか『エモい』写真を撮りたい」
どれが正しいとかではなくどれも正解だ。

僕が『写ルンです』に出会ったのは2017年。
生まれた頃からインターネットがあった僕からすれば、幾分「前時代的」なものに映った。でも、何度か撮っていくうちに、仕組みこそ古くからの技術だが、表現手段としては現役であり、ミラーレスカメラやスマホとも横並びの関係だと捉え直すようになった。
そこで、僕が思う写ルンです論を綴ってみる。
(念のため、過去の写ルンですについて書いた記事を紹介させてください!)

『写ルンです』でしか撮れないものがある。決してノスタルジーを求めているわけではない。あくまで選択肢のひとつに過ぎない。
ポケットに収まってしまうほどのサイズに、重厚感とは無縁なボリューム。撮れているか心配になるほど軽やかなシャッター。一言で言えばチープ。「今、この瞬間」を記録する写真機にしてはいささか頼りげない。
しかし、俄には信じ難いが、写真屋さんから帰ってきた写真たちには、あの日、あのとき、琴線に触れた瞬間がちゃんと写っている。
しかも、他のカメラで撮ったときとは違う『写ルンです』でしか観測できないものが映っている。軽くて小さなカメラゆえに、軽快な足取りや取り回しが出来る。心なしか写真にも「ポップな躍動感」が生まれる。かと思いきや、残りコマ数のダイヤルを気にしながら慎重にシャッターを切っているのも事実。いつもより丁寧にものをみている気がする。躍動感と丁寧さが同居した不思議な感じだ。
撮った写真は現像の過程を経ないと分からない。この時間差が感動を深いものにしてくれる。写真屋さんでプリントを受け取るやいなや待ちきれずに開け、「うわ、そう来たか」とひとりごつ。「フィルムライク」の写真は飽和しているけど、フィルム写真の表現力はいつも驚かされる。あの感動は撮った人にしか分からないし、何物にも変えがたい。
そして、『写ルンです』の持つ「パワー」が冷めない方法でプリントやZINEへ落とし込みたい。いつもよりざらついたテクスチャの紙、例えばアワガミやヴァンヌーボが合いそうな気がする。

以上が『写ルンです』に対するリアルな思いである。僕にとって、『写ルンです』は「昔のおもちゃ」でも「レトロ」でもないし、今を写すための今持てる選択肢の一つだ。
「いやいや僕はね!」「昔はさ!」など、さまざまな声が出ると思う。『写ルンです』が長い年月をかけて数多くの人の手に渡ってきた、何よりの証拠である。百人いれば百通り、千人いれば千通り、国や言語も跨げばまた違ったものが見えるだろう。
きっと『写ルンです』はこれからも、生活様式と価値観のダイナミズムの中を漂いながら、それぞれの時代でそれぞれの年代にそれぞれの解釈を受けていくのだろう。
あの軽くて小さい、頼り気ない箱の姿のままで、いつまでも僕たちのそばにあってほしい。

(こんな展示に出展しています。7月いっぱいまでやってますので、よろしければ。)
