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50代からの知的冒険切手ず囜家の物語⑀富士屋ホテルからドむツの田舎町ぞ―シベリア鉄道を枡った「Hilprecht」封筒

この蚘事の芁点
・1912幎、箱根・宮ノ䞋の富士屋ホテルからドむツの地方郜垂ぞ送られた「シベリアルヌト」の印刷物封筒を分析
・敊賀を経由し、シベリア鉄道を通っお玄20日でドむツぞ到着したこずが確認できる
・封筒には “Prof. Hilprecht” の曞蟌みがあり、著名なアッシリア孊者 Hermann V. Hilprecht 本人ずの関連が浮䞊
・富士屋ホテルは圓時、倖囜人専甚ホテルずしお倖亀官・孊者・実業家が集う囜際サロンだった
・䞀枚の゚ンタむダから、シベリア鉄道、日独関係、垝囜の亀通網、第䞀次䞖界倧戊前倜の囜際瀟䌚が芋えおくる
・切手ではなく「封筒党䜓」を芋るこずで、時代の空気、人の移動、思想や歎史たで読み解けるのが゚ンタむダの魅力だ

゚ンタむダは、切手以䞊に「時代」を語る

切手を集めおいるず、ある時から「切手そのもの」よりも、封筒や葉曞が持぀情報量に惹かれるようになる。いわゆる「゚ンタむダ」の䞖界だ。

切手単䜓にももちろん魅力はある。しかし、゚ンタむダには、それをはるかに超える情報が詰たっおいる。貌られおいる切手の皮類や組み合わせ、郵䟿料金、郵䟿が蟿ったルヌト、差出人ず受取人、さらには䞭身が䜕だったのかたで、䞀枚の封筒の䞭に時代そのものが封じ蟌められおいる。

このずころ、明治から戊前たでの「シベリアルヌト」の郵䟿に凝っおいる。先日入手したのは、1912幎に箱根・宮ノ䞋の富士屋ホテルからドむツぞ送られた゚ンタむダだ。

富士屋ホテルからドむツぞ枡った郵䟿

゚ンタむダでたず目が行くのが、差出人ず宛先ず消印の日付だ。この郵䟿の送り䞻を瀺す巊䞊には、富士屋ホテルの印の䞊に “Prof. Hilprecht” の曞蟌みが読み取れる。この蚘述は重芁な意味を持぀ので、埌に詳しく芋おいく。

宛先はドむツのヘッセンナッサり州、メヌアホルツ近郊ハむラヌのSpecker町長宛ずなっおいる。珟圚の堎所はマップの通りだ。

切手に抌された和文櫛型印には「5・8」ず抌されおいるように芋える。この印は箱根・宮ノ䞋局で抌された可胜性が高い。差出の日付を確定するうえで重芁なのが、宛名の䞊に抌された「TSURUGA 10.5.12」の欧文印だ。1912幎5月10日に敊賀を通過したこずが確認できる。囜内郵䟿から囜際郵䟿ぞ切り替わる痕跡が、䞀枚の封筒䞊に残っおいる。

巊が箱根・宮ノ䞋局差出ずみられる和文櫛型印、右が敊賀の欧文亀換印「TSURUGA 10.5.12」

この時代の欧文印ず和文印では、日付や数字の配眮、巊右の読み方に違いがあり、刀読には泚意が必芁だ。印圱が䞍鮮明なこずも手䌝っお、数字の䜍眮関係に぀いおなお怜蚎の䜙地がある。この点に぀いおは、郵䟿史や消印研究に詳しい専門家の意芋を䌺っおみたい。

1912幎は明治45幎にあたる。同幎7月には明治倩皇が厩埡し、倧正時代が始たる。倧正デモクラシヌぞ向かう、囜際亀流ず自由䞻矩の時代の入口だった。

歎史に翻匄されたシベリアルヌト

到着印は鮮明だ。1912幎5月28日。わずか20日で箱根からドむツの地方郜垂に到着しおいる。差出の日付の確定は難しいが、1912幎月の郵䟿であるこずは到着印を芋るず明確だ。

封筒裏面に抌されおいるドむツの到着印

明治期、日本からペヌロッパぞ向かう郵䟿は、カナダ経由などの倪平掋ルヌトだず䞀か月ほどを芁した。この封筒には “Via Siberia” の明瀺はない。しかし、敊賀通過印ず20日でドむツに届いおいるこずを考えるず、シベリア鉄道経由だったずみおいいだろう。

箱根・宮ノ䞋
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暪浜たたは東京の倖囜郵䟿亀換局
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敊賀
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りラゞオストク
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シベリア鉄道
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モスクワ
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ドむツ・Hailer bei Meerholz

シベリアルヌトの確立は、1903幎のシベリア鉄道党通ず、その盎埌に締結された日露郵䟿条玄から始たっおいる。台頭する日本を意識した極東ぞの軍事力投射ず怍民地経営を目的にロシアが建蚭したシベリア鉄道を通じお、日本がペヌロッパず結ばれおいくずいうのは、実に皮肉な話だ。

シベリア鉄道に察しお、圓時の日本人には垞に二぀の感情が重なっおいたはずだ。

䞀぀は、ペヌロッパず盎結するこずで、日本が䞖界経枈ぞ接続されおいく期埅。もう䞀぀は、その鉄道を通じおロシア垝囜の軍隊が極東ぞ送り蟌たれるずいう恐怖だ。

実際、1904幎に勃発した日露戊争では、ロシアはシベリア鉄道を利甚しお倧量の兵士ず兵噚を運んでいる。

この封筒が送られた1912幎は、日露戊争の圱響が䞀段萜し、ポヌツマス条玄ず日韓䜵合を経お、日本が暩益を埗た南満州鉄道ず、ロシア偎の東枅鉄道・シベリア鉄道の接続が安定した時期にあたる。アゞアずペヌロッパを結ぶ郵䟿網も、シベリアルヌトを通じお安定的に機胜しおいた。

しかし、シベリアルヌトはその埌、歎史に翻匄される。

1914幎の第䞀次䞖界倧戊。
1917幎のロシア革呜。
1918幎からのシベリア出兵。
そしお、第二次䞖界倧戊。

この封筒は、欧州が戊争によっお分断される盎前の、束の間の平和ず囜際亀流の黄金期を走った郵䟿だった。

富士屋ホテルずいう「倖囜人専甚サロン」

この封筒をさらに特別なものにしおいるのが、差出地である富士屋ホテルだ。

1893幎から1912幎たで、富士屋ホテルは倖囜人専甚ホテルだった。この封筒は1912幎5月、富士屋ホテルが倖囜人専甚ホテルだった最埌の時期に投凜されたものだ。欧米の倖亀官、実業家、孊者、芞術家、旅行家たちが集う、日本有数の囜際サロンだった。

暪浜から箱根ぞ向かった倖囜人たちは、このホテルで情報を亀換し、人脈を広げ、日本文化に觊れ、時に欧州やアメリカぞ向けお手玙を曞いた。富士屋ホテルのラりンゞには、英語、ドむツ語、フランス語が飛び亀っおいたのだろう。

“Prof. Hilprecht” は本人か

その富士屋ホテルの印の䞊に、“Prof. Hilprecht” の曞蟌みがある。明治期から倧正デモクラシヌの時代、日本に滞圚した倖囜人は数少ない。この時期の倖囜人差出の倖信䟿には、著名人や囜際的知識人によるものが少なくない。

気になっお確認したずころ、ペンシルベニア倧孊に関係した著名なアッシリア孊者であり、メ゜ポタミア考叀孊の䞖界的研究者であるHermann V. Hilprecht氏に行き圓たった。

圌が匕き起こしたピヌタヌスヒルプレヒト論争は、20䞖玀初頭のアメリカ考叀孊界を揺るがした䞀倧スキャンダルだった。珟圚のむラクにある叀代郜垂ニップルNippurの発掘を巡る発芋の功瞟、出土品の垰属、発掘蚘録、孊術的誠実性を巡っお激しい論争を巻き起こした。

この論争は、単なる孊説争いにずどたらなかった。ペンシルベニア倧孊は理事䌚の䞋に調査委員䌚を蚭け、ヒルプレヒトに察する告発を審問した。倧孊偎は最終的にヒルプレヒトを免責したが、論争の傷は深く、圌は1911幎1月に倧孊を去るこずになる。

ペンシルベニア倧孊を蟞職したヒルプレヒトは、ドむツのヘッセンナッサり州ぞ移䜏したず䌝えられる。この封筒は、ヒルプレヒトがアメリカ孊界を去り、ドむツぞ生掻の重心を戻した時期ず重なっおいる。

1911幎から第䞀次䞖界倧戊勃発たでの動向には䞍明な郚分が倚いが、この封筒の宛先であるHailer bei Meerholzは、圌が埌幎生掻拠点を眮いたずされるヘッセンナッサり州の地域にあたる。

“Prof. Hilprecht” の蚘茉
宛先地 Hailer bei Meerholz
ヒルプレヒトのドむツ偎生掻拠点
1911幎蟞職盎埌ずいう時期

ヒルプレヒトが実際に日本に滞圚したずいう蚘録は、珟時点では確認できおいないが、倧孊を退官した盎埌に、アメリカを離れおドむツぞ戻る途䞊で日本に立ち寄った可胜性は残る。

差出人が本人ではなかったずしおも、“Prof. Hilprecht” の蚘茉がある以䞊、䜕らかの関連性を持぀郵䟿だったず考えるのが自然ではないだろうか。

垝囜ず垝囜を結ぶ巚倧な鉄道網の先にあったのは、ベルリンでもハンブルクでもなく、森ず小さな村萜が点圚するドむツの静かな地方共同䜓だった。

この゚ンタむダは、富士屋ホテル、シベリア鉄道、ドむツの地方瀟䌚、そしお䞀人の知識人の人生の転換点が亀差した、小さな歎史の蚌蚀なのかもしれない。

5皮混貌りの矎しい切手によっお送られた印刷物ずは

封筒には「印刷物圚䞭」の玫色の印ず、“PRINTED MATTER” の衚瀺が抌されおいる。1912幎圓時、倖囜宛印刷物料金は50グラムごずに2銭。この封筒には蚈8銭分の菊切手が貌られおおり、4倍重量、すなわち200グラムたでの印刷物料金ず解釈できる。

最少額面の5厘から、1銭、1銭5厘、2銭ず続き、最埌に最倧額面の3銭が、宛先である町長の名前の暪に䞁寧に配眮されおいる。私はオヌクションで芋た瞬間、この封筒が䞀枚の絵画のように芋えた。

菊切手には8銭切手そのものも存圚する。切手䞀枚で枈たせるこずもできたにもかかわらず、あえお5皮混貌りを遞んだ差出人の感性が、この封筒を単なる郵䟿物以䞊の存圚にしおいる。

この封筒は矎しいだけでなく、䞭身を想像するこずでさらに歎史の茪郭が立ち䞊がっおくる。町長宛だったこずを考えるず、単に行政機関に送った事務的曞類だった可胜性もあるが、それなら8銭の切手を䞀枚貌っお枈たせたのではないか。あえお菊切手を5皮貌りにしたずころに、差出人の意図や矎意識を感じる。

圓時は、有力者や長期䞍圚者、別荘所有者に関する事務が自治䜓を通じお扱われるこずも少なくなかった。

200グラムで送れるものずいえば、パンフレットや小冊子ほどのボリュヌムだ。異囜滞圚の蚘念ずしお富士屋ホテルの案内や旅行パンフレットを送ったのかもしれない。あるいは、孊者ずしおの研究資料、日本滞圚䞭に芋聞した考叀孊や東掋研究に関する印刷物だった可胜性もある。

䞀枚の封筒から、その䞭身、送り手の意図、そしお圓時の人の動きたで想像が広がっおいく。そこに、゚ンタむダの魅力がある。

サむンの真莋が、この封筒の䟡倀を倉える

この封筒に぀いおは、今埌さらに怜蚌したい点がある。このnoteを曞いたのは、専門家の目に留たる可胜性があるず思ったからだ。

“Prof. Hilprecht” の筆跡が本人のサむンず䞀臎するかどうか。もし䞀臎すれば、この゚ンタむダの歎史的意味は倧きくなる。䞀臎しない堎合も、ホテルの埓業員による代筆の可胜性は残る。

ヒルプレヒトの曞簡、サむン、筆跡資料などをご存じの方、あるいは考叀孊やアッシリア孊史に詳しい方がおられれば、ぜひ情報をお寄せいただきたい。

䞀枚の封筒から、20䞖玀前半が芋えおくる

1912幎、この封筒がドむツぞ向かった時点では、ただ䞖界は「長い19䞖玀」の延長線䞊にあった。その埌、日本ずドむツを巡る歎史は激動の時代ぞ入る。

1914幎に勃発した第䞀次䞖界倧戊では、連合囜の䞀員ずしお日本は参戊し、山東半島の青島攻略戊などでドむツ軍ず盎接戊火を亀えるこずになる。日本は戊勝囜ずなり、ドむツは敗戊囜ずなる。

倧正8幎に発行された倧正倩皇ず戊勝囜の指導者の䞖界平和の蚘念葉曞

パリ講和䌚議で結ばれたノェルサむナ条玄ず山東半島問題によっお、日独関係ず東アゞア情勢は新たな局面ぞ入っおいく。

その埌、シベリアルヌトはロシア革呜ずシベリア出兵を経お䞀旊途絶するが、1925幎の日゜囜亀回埩埌、満州鉄道ず盎結する戊略的な動脈ずしお、その利甚䟡倀を高めおいく。

次回は、シベリアルヌトを枡った郵䟿を題材に、革呜、戊争、そしお垝囜の厩壊が郵䟿網をどう倉えおいったのかを远っおいきたい。


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